main(5000〜) NOVEL

願わくは


 個展を開いた。  
 本当は開くつもりなど愈史郎には無かったのだけど、ヨボヨボになって腰ぐらいまで棺桶に入っている友人の為に開くことにした。その友人から「いつ個展を開くんだい?」だとか「初めての個展には絶対招待してくれよ」だとか「妹も見たがっているんだ」だとか言われていたのだ。

 しかし、そもそも今回の個展は初めての個展ではない。それどころか初めての個展には友人とその妹たちを招待していたし、その妹たちはもう随分と前に鬼籍に入っている。  
 愈史郎はそのことを告げず、ただ個展を開いたとだけ手紙で伝えた。  
 後日友人のひ孫から「喜んでいましたよ」と電話があった。そして残念ながら行けそうにない、と申し訳なさそうに告げられた。

 そうだろうな、と思う。  
 よくもまあ大正の時代から今まで、幾つもの災いを潜り抜け生き延びたものだ、とも思う。

「ご招待ありがとうございます。曾祖父が喜びますから、お写真だけでも送ってくださいね」  
「そのうち絵葉書でも送ります」  
「愈史郎さんのお顔の方が喜びますわ」  
 友――産屋敷輝利哉のひ孫の言葉に、愈史郎は「気が向いたときにでも」と返した。

 愈史郎は有名になりすぎた。  
 彼は珠世という愛する女性が存在したことをこの世で証明すべく絵を描いただけだった。いつの間にか手にした名声はそのおまけのようなものだ。それなのに世の中は謎多き画家・山本愈史郎その人を知りたがる。  
 しかし愈史郎は鬼であるからして、歳を取らない。彼は表舞台に立つことを望まなかった。もう鬼という存在は御伽話の住人だから。


 久々に開いた個展は盛況だった。一方で若い男が珠世の絵を見て鼻の下を伸ばしているのは少々不快だった。愈史郎は一般客を装って自分の個展を訪れながらフンと鼻を鳴らす。

 珠世との思い出に満たされた空間。  
 未だに恋しさで呼吸が苦しくなる。夢に見る。夢で何度でも珠世に「貴女を忘れない」と約束する。  
 名声はいらない。しかし名声と共に珠世という存在が永遠になるような錯覚は心地よい。それがエゴだと分かっているから苦しい。

 そんな物思いに耽っていると、美しい人ですね、と長い黒髪を高い位置でくくった男に話しかけられた。男の気配に気付いていなかった愈史郎はびっくりして「はあ」と気の抜けた声を出してしまった。  
「この画家……山本愈史郎は、同じ女性を描き続けていると聞きました」  
男は自身が話しかけている少年こそ山本愈史郎その人であるとは微塵も思っていないだろう。

 愈史郎は注意深く男を見た。そしてぎょっとした。  
「俺は、山本愈史郎を羨ましく思います」  
男はぼろぼろと涙を流していたのだ。  
「忘れたくない人がいるのか」  
愈史郎は訊いた。  
「違うのです。なぜか涙があふれる。なぜか山本愈史郎を羨ましく思う」  
「なぜ?」  
「分からない……でも、羨ましいのです。忘れ得ぬ人を心に刻み続けることが許されている山本愈史郎が羨ましい」  
 涙を流すその姿はあんまり哀れなので、愈史郎は言った。  
「なら、絵を描くといい」  
「絵を? でも、なんの?」  
「なんでもいい」  
「なんでも……」  
男は暫く俯いて考える素振りをした。小首を傾げると高くくくった髪が揺れた。  
「もし、描いたら」と男が愈史郎を見る。  
「見てもらえるか?」  
「……俺に、か?」  
こくりと頷く男に、愈史郎はぱちぱちと瞬きをした。男が己が画家であることに気がついているのかと思ったが、そうではなさそうであったので是と答えた。  
 なんとなく放っておけないと思ってしまった。

 男は■■■■■と名乗った。  
「あなたのお名前は?」  
そう聞かれ、愈史郎は咄嗟に「村田」と答えた。  
「個展が開かれているうちは……ここに居る」  
ここのスタッフバイトしているんだ、と言い訳のように言った。男はふんわりと微笑み「ありがとう」と言って去っていった。

 三日後、男は再び現れた。男は「絵を描いたんだ」とはにかみ、小さなスケッチブックを差し出した。  
「………………自画像、か?」  
そこに描かれていたのは正面を向いた男の顔だった。憂いを帯びた顔でどこかを見つめた長い髪の男。  
「俺に見えるだろうか」  
「纏う空気が異なるが……お前と同じ顔をしているだろう?」

 愈史郎の言葉に男は目を伏せ黙り込む。それから愈史郎の持つスケッチブックに描かれた男を指でなぞりながら「最初に頭に浮かんだ男を描いた」と言った。  
「俺はたまに夢を見る。内容はとんと覚えていないのだが……男が出てくるんだ。目覚めると忘れてしまいそうになるその男……。  
 けれど例えば、鏡を見たとき……そこにその男がいる」  
「それはやはりお前なんだろう」  
「……でも、やはり、俺にはこれが俺に思えないんだ」

 愈史郎はもう一度スケッチブックの上の男を見る。  
 こちらを見ているようで、違う誰かを見ているかのような目をした男。何かを憂いているかのような表情。今にもため息をつきそうに、僅かに開かれた口もと。

 男が「……彼が現れる夢を見ると」と躊躇いがちに口を開く。    
「胸が苦しくなるような、掻きむしりたくなるような気持ちになる」  
 男は胸のあたりをぎゅっと掴むようなしぐさをした。  
「俺は、この男が誰であれ……笑ってほしいと、そう願うんだ」

 憂い顔のその顔は、確かにスケッチブックの男と同じ顔をしているように思えた。


 その一週間後、再び男は現れた。宵の口の繁華街で偶然に出会ってしまったのだ。  
 男は愈史郎を見ると目を見開き、迷うことなく一直線に寄ってきた。人混みの中ですいすいと近づく姿はほんの少しだけ気味が悪いと思った。

「また絵を見てくれるか?」  
男は言った。  
「今、スケッチブック持っているんだ」  
まじか今か。そわそわとショルダーバッグを漁る男に愈史郎はほんのちょっぴり苛立った。  
「とりあえず、道端でスケッチブックを広げようとするな」  
愈史郎が言うと男はしゅんと露骨に、しかし無表情のまま落ち込む。表情筋はあまり動いていないのに表情が豊かなものだと思う。  
「見ないとは言っていないだろう。場所を移すと言っているんだ」  
その言葉を受け、愈史郎の思った通り男は嬉しそうに「ありがとう」と小さく言った。


 スケッチブックに描かれていたのは、やはり例の男だった。その次のページも、その次も、そのまた次も同じ男が描かれていた。  
 前回と違う点は、その全てが着物姿で描かれている点だ。それも帯刀しているときた。

 藤棚の下に佇む姿。月明りの下で真剣を構える姿。  
 男が指に烏をとまらせ微笑む姿が現れた時はぞわりと鳥肌がたった。帯刀した男が烏と会話するようなその姿はかつての鬼殺隊を想起させた。

 そして更にページをめくり男の横顔が現れ、愈史郎は「お前は誰だ?」と口走った。  
 横顔には愈史郎のよく知るかつての少年とそっくりの炎のような痣が額に浮かんでいたからだ。

 愈史郎の言葉に男は瞳を彷徨かせる。  
「……最近は、はっきりと…姿を、思い出せるようになってきた」  
男は俯いて話し出す。言葉を選んでいるように、ゆっくりと。  
「よく、藤の下か……月夜にいる。同じ顔をしているのに……俺ではない、誰か」  
確かに男が描いたものは藤や月と共に描かれているものが多かった。

 藤と刀!

 愈史郎はやはり苦々しい思いになる。  
「俺は、その男が誰だか知りたくて……手を取るんだ。すると……燃えるように、体が熱い。  
 彼は俺を見て…にこりともしない。ただ、俺の顔を見て………探るように、見て……ため息をつく」  
それから男は愈史郎の顔を見ながら「おかしなことを言っていると思うだろうが」と前置きをした。

「この男は、俺の、前世ではないかと思うのだ。
 最近はよく鏡を見る。鏡の中の俺の中に、その男の影を見つけるんだ。きっと、俺の魂の一部は……産まれる前……前世に置いてきてしまった。  
 前世のことなど、覚えてないけれど……きっと欠けた一部の魂を求めて、夢を見ている。一つに戻りたがっているんだ」

 普段の愈史郎ならば、何を馬鹿なことをと一蹴し「病院に行け」と辛辣な言葉をぶつけただろう。しかし、この時は言葉が出なかった。  
 この男はいつかの時代の痣者――鬼狩りだったに違いない、と思ってしまったからだ。


△△△


 愈史郎は久しぶりに産屋敷輝利哉に会いに行った。  
 個展では結局写真を一枚だけ撮ったので渡してやろうと思ったのだ。

 輝利哉はいたく喜び、曾孫に支えられながら星のよく見える縁側に腰を掛けた。  
 曾孫曰く、体調は良好だそうで、最近は良く藤を見たがるのだと笑っていた。もっと暖かくなったら旅行に行きましょうね、と曾孫は輝利哉の肩をぽんと撫でていた。

 藤。  
 愈史郎は顔をしかめる。  
 もう友は鬼殺隊とは無関係に己の生をまっとうしている。たった八つの小さな身体には重すぎる責任を負うこともない。  
 他の子どもと同じ若い自由な時の中で育ち、恋をし、子をなし、その子を慈しみ庇護し巣立ちを見守った。鬼狩りとは違う災いが降り注ぎ何度も涙を流しても幸せを掴んで生きてきた。  
 藤は、かつての産屋敷家にとっては吉祥の、あるいは修羅の象徴である。  
 愈史郎とは鬼殺の時代よりも長い時間をただの友人として共有していたのだ。  
 あまり鬼殺を思い出させるようなことは憚られた。

 過去に時を止めたまま生きるのは俺だけで良い、そう思って生きてきた。

 その思いとは裏腹に輝利哉はしきりに昔の話をしたがった。生き残った鬼殺の隊士の話を何度も繰り返す。  
 炭治郎と禰豆子が千寿郎と共に東京見物に来た話。  
 アオイと伊之助の恋模様の話。  
 何やら善逸は自叙伝を書いているらしい話……。

 皆はもう逝ってしまったけれど、生まれ変わってもまた、幸せになってほしいね。僕も生まれ変わったら、また皆と友達になりたいよ。

 輝利哉は歯の抜けた顔で、皺だらけの顔で、そう言った。  
 愈史郎は輝利哉に訊いた。  
「輪廻転生を信じるか?」  
すると、輝利哉は打って変わってはっきりとした口調で言った。  
「生き残った僕らには願う事しかできない」  
驚いて顔を見ると、まるで若々しい青年時代を彷彿とさせるような顔だった。  
「生まれ変わるときはきっと、魂はまっさらになって生まれてくる。本当はね、知っているんだ。幸せになれるかなれないかなんて分からないってことを。  
 でも、僕らが見送った愛する人が幸せになれるように願おう」  
愈史郎は「そうだな」と言った。  
「ねえ、愈史郎。生まれ変わっても友達になってくれよ」  
「お前が生まれ変わったらお前だと気づけないだろうな。お前たちは皆同じ顔してる」  
愈史郎の言葉に輝利哉は嗄れた声で笑った。


△△△


 その日は満月の夜だった。  
 例の男と再び会ってしまった。

 愈史郎は藤を見に来ていた。遠くのベンチに座って眺める藤は美しい。  
 鬼である本能からか、あまり近寄りたいとも思えなかったのだが、その日は藤の木の下に立ちたくなってしまった。とんだ感傷である、と自嘲した。

 どれぐらい眺めていただろう。  
「偶然ですね」  
と例の男から話しかけらた。やはり気配を感じさせない彼が少し気味悪く感じられた。

 愈史郎は男に藤を描きに来たのかと訊いた。男は今夜は藤を眺めに来たのだと返した。  
「前に山本愈史郎が羨ましいと、話した」  
男がぽつりと話し始める。  
「言われた通り、沢山……沢山沢山、絵を描いた」
 月明かりは夜の闇を照らし藤をぼんやりと浮かび上がらせていた。夜の藤は魔除けだ。

「俺は俺の生を全うしていて……愛する家族がいて、友人もいて、とても幸福だ。生まれてきて良かったと心の底から思う」

 愈史郎は思う。
 輝利哉は一族の中で例外的に長く生きた。鬼の始祖が死に、彼はすべてのしがらみから解き放たれた。長い長い「貸し」は返されたのだ。

「しかし、やはり俺の魂の一部は欠けている。鏡を見て、俺の中に俺ではない誰かの影を見つけてしまう。夢の男の姿を見つけてしまう。  
 夢の中で俺は男の腕を掴んだ。男が前世の俺であるならば、俺の魂は一つに還るべきだと思ったから」

 流れる時の中、かつての仲間が生きて死んでゆく姿を見届けている。次の世代のまっさらな子どもたちの生と死も見届けている。
 その中で、かつての仲間とよく似た者もいた。
 彼らは記憶を持っていないにもかかわらず、かつての縁を結ぶ者も少なくなかった。まるで恩を返すように、側にいるのだ。

「でも、彼の腕は……燃えるように熱かった。まるで、内側から燃やされているかのように…。
 そして彼は……呻いていた。
 俺は気付いた。彼は、燃やされ続けているのだと。
 その時………俺は…………彼の側にずっといたいと願った」

 魂の「貸し」と「恩」は必ず返されなくてはならないものらしい。たとえ次の生に持ち越されたとしても。

「彼が誰だか俺には分からない。
 だが………きっと、俺の魂の一部は彼の側にずっといるのだと思う。
 鏡の中にいる俺。俺はその中に彼の姿を見る。きっとそれは彼がもはや俺の片割れだからに違いないからだ。俺の魂の一部と一緒になった彼。
 ――――俺の神様」

 次の生に持ち越された「貸し」と「恩」は「贈与」によって返される。
 つまりその輪は永遠に続く。  
 魂は廻り廻るのだ。

「俺はもうこれっきり、絵を描くのをやめにする」
 男は愈史郎に絵を見せた。
 その絵は青空の下で屈託なく笑う少年の姿だった。  
 月も藤もない絵だった。

「俺は、俺の魂の一部を持った片割れを愛しているのだと思う。
 愛しているから、次に会う時は、月からも藤からも、何にもとらわれない姿で――まっさらな魂で、青空の下で笑ってほしいと願う。

 そして、いつか――愛する片割れの魂が廻る時に、俺の魂は完全になる。
 その時まで、欠けた俺の魂の一部は片割れの側にいる。たとえ遠く離れていても、魂の一部がそこにいるから、俺は挫けずにずっとずっと待ち続けようと思う」


 愈史郎は長年の友に会いたくなった。ずっとずっと待っていると伝えたくなった。

 次に巡り会う時まで、友よ、待っている。