水仙花
齢はどれぐらいだろうか、と巌勝は思案する。
目の前の娘は継国に嫁いだばかりの頃の妻よりも、やや大人びて見えた。
しかしながら「これを縁壱さまに、お渡し頂けませんでしょうか」と水仙を一輪、差し出す姿は初々しい。頬を赤く染め瞳を期待と不安で潤ませる様がいじらしく、微笑ましい。知らず笑みが溢れた。
聞けば、彼女は縁壱に命を助けられたのだという。
月も出ない暗い夜のことだ。慎ましく暮らしていた彼女の一家は鬼に襲われた。生き残ったのはその娘だけだった。
娘は目の前で親兄弟を喰われたのだ。鬼がニタリと口を開いた時、次は自分の番だと思った。娘は声もあげられぬほどの恐怖にぎゅっと目を閉じてその瞬間を待った。
しかし彼女にいくら待ってもその時は来なかった。
鎹鴉からの報せを受けた縁壱がその首を撥ねたのだ。
断末魔の叫びをあげる間も与えずに鬼を一刀のもとに斬り伏せた縁壱は太陽が昇るとさっさと去っていってしまったのだとか。
黄金色の朝日に照らされた、豊かな髪と炎のような赤い痣を持つ侍の後ろ姿が目に焼き付いて離れないのだと娘は語る。名乗りもしないその男はきっと神からの使いに違いないと本気でそう思ったのだ、と。
その後すぐに別の剣士が現れ鬼のこと、そして鬼狩りのことを説明したらしい。
娘は侍――縁壱にもう一度会いたいと剣士に頼み込んだ。そうして今では縁壱の活動下にある町で鬼狩りの協力者のもと暮らしている。
おそらく、否、間違いなく娘は縁壱に恋をしているのだろう。それも熱烈に。
助けた娘に懸想されるのはままあることと言ったのは誰だったか。聞いた時はなんと夢見がちなことかと半ば呆れていたが、なるほど、これか。巌勝は確かに縁壱の剣技は美しい、若い娘ならば懸想するのも無理はないだろうとひとり頷いた。
そして彼女と縁壱が二人寄り添う姿を思い浮かべる。
娘は縁壱には少々若いだろうか。いいや、そんなことはないだろう。
………もしも鬼狩りにならなかったなら、縁壱は彼女のような娘と夫婦となったのだろうか。そういえば、あれの色恋の噂を聞いたことがない。
興味もあまりなかったな。しかし縁壱とて独り身であったわけではあるまいよ。そうなると……多くの鬼狩りがそうであるように、縁壱もまた鬼に家族を奪われたのだろうか。
「あ、あの。お侍さま?」
娘の声に、物思いに耽っていた巌勝は我に返る。
「すまない。これを、縁壱に渡せばよいのだな」
水仙を受け取り娘に確認する。確かに渡しておこう。そう言えば娘は嬉しそうに、きっとですよ、と笑った。
だが、そうは言ってもこの町には任務の帰りに立ち寄ったにすぎないのだ。鬼狩りと懇意にしている、とある薬師に用があった。そういうわけだから、巌勝はそもそも縁壱に会う予定すらもなかった。本音を言えばすすんで顔を合わせようとは思わない。
「縁壱様に鎹鴉をやりますか」
弟子入りした若い剣士が訊く。
「……これは私用だ。鎹鴉にさせる勤めではない」
手の中の水仙をくるくると弄びながら嘆息する。娘の頼みを無碍にするわけにはいかないだろう。
「けど、縁壱様にお会いできる口実が出来て良かったのではないですか?」
弟子が巌勝の顔を覗き込む。
実のところ、この町に立ち寄るにあたり弟子から縁壱に顔を出さないのかと訊かれていたのだ。この弟子には仲睦まじい兄がいるのだという。齢十五ほどのこの弟子は巌勝と縁壱もまた仲睦まじい兄弟と信じて疑わない。
「……兄が来たら、もてなさないわけにはいかないだろう。多忙な弟を煩わせるのは忍びない」
そんな風に言い訳をした。
弟子は「縁壱様はきっと煩わしいなどとは思わぬでしょう」と言う。全くその通りだろうから余計に会いたくなかった。
巌勝の目には、縁壱はあまりにも無垢だった。
悪意に晒されてなお人の善なるを信じ、悪を挫き弱きを助ける。醜い嫉妬にかられ一度はその死を願った兄のことを無邪気に慕う姿はいっそ悍しいとさえ思った。
巌勝と弟子の想像通り、突然の訪問にもかかわらず縁壱は彼らを――正確には、兄の訪問を――いたく喜んだ。もっとも縁壱の表情はぴくりともしていなかったのだが。
ゆっくりしていってほしい、夜までここに……なんだったら泊まったって構わない、否、泊まっていってほしい。そんなことを矢継ぎ早に言う縁壱を遮り巌勝は努めて穏やかに断った。
やはり縁壱は表情を変えずに「差し出がましいことを申しましたか」と言った。
――そんな風に言われるとこちらが悪いみたいではないか。……ああ、これの善意を無下にしているのは私だ。確かに「悪い」のは私だろう。
胸にどろりとしたものがたまる。
それを誤魔化すように、またいつか世話になろう、そのときは土産を持ってくるから、と微笑んで見せた。
お前も泊まりに来るといい、と心にもないことを口にする。縁壱は顔を綻ばせ「近うちに。兄弟水入らずで過ごしましょう」と幸せそうに言った。
「ところで。今日はこれを届けに参ったのだ。以前お前が助けたという娘から渡してほしいと頼まれたのでな」
「――水仙ですか」
縁壱が巌勝に近づいて水仙に顔を寄せる。
「良い香りです」
上目遣いに微笑む縁壱に「……行儀が悪いな」と小言を漏らし、それからその手に水仙を握らせた。
「お前に似合いの花だ」
それは巌勝の本心だった。
水仙の花の美しさは清らかな美しさである。白い台の上に黄色の盃を載せたような花弁とすっくと立つ茎は凛としている。
無垢でけがれのない縁壱にはよく似合うと思った。
縁壱は顔を首から耳まで真っ赤にさせ「ありがとうございます」と、蚊の鳴くような声で言った。
そして目を伏せて水仙の香りを楽しむように顔まで持ち上げる。
「まるで、兄上のような花だと、思っておりました」
その顔は、かつて継国の家を出る時に笛を出して見せた幼い頃の顔とよく似ていた。
「娘からの気持ちには、私は応えることが出来ませぬ」
縁壱は言う。
「けれども、この花は有り難く頂戴いたします。
兄上とよく似た美しい花だ。
……それに、ここまで兄上をお連れしてくれた」
巌勝はいよいよ困ってしまって、うろうろと視線をさまよわせた。そして縁壱の手にある水仙を見て小首を傾げてしまう。
やはり娘の頼みは断るべきだっただろうか。水仙に口づける縁壱から目をそらしながら巌勝はそう思うのだった。