(一)暗香不動
見上げると寒々しい夜に相応しい白い月が浮かんでいた。頬を突き刺すような冷たい空気は梅の香りをかすかにのせている。
馥郁たる香りに誘われ池のほとりの白梅の下までふらりと歩く。
手入れの行き届いた庭園の中でも巌勝が気に入っていたのはこの白梅だった。梅の花の疎らな枝の影が池に映るのは、なるほど美しい。
巌勝の私邸はまだ冬の寒さの厳しい時分に産屋敷から与えられた屋敷であった。それは鬼狩りの功績に対する恩賞だ。
与えられた敷地は広大で、屋敷には随分と立派な庭園があった。巌勝は目を白黒させながら我が身に余ると訴えたが当主は微笑むばかり。
本音を言うならば、捨ててきた継国の家よりよほど堂々たる屋敷は鉛を飲み込んだような心地にさせるのだ。
それを察した当主は屋敷の一部を剣士たちの休息所として開放することを提案した。花柱が私邸である蝶屋敷を治療所として開放していることに習ったそれは巌勝の心を幾分か軽くさせた。
しかし一つ大きな誤算があった。縁壱が入り浸るようになったことだ。
確かに鬼狩りであれば誰であれ礼節をもって屋敷の門を開くと決めた。そう宣言もした。
しかし縁壱は五日とたたずに訪れる。幾ら何でも多すぎると小言をもらすも暖簾に腕押しどころか炎柱はじめ縁壱と親しい柱たちから「兄弟水入らずで過ごされては?」と言われる始末なのだ。そんなことを柱たちが言ったとなればその弟子たちは遠慮する。
今となっては『継国邸』と呼ぶ者らもいるという。
ちなみに縁壱は必ず巌勝が屋敷にいる時に訪れるのだが、これは巌勝の預かり知らぬところで鎹鴉や巌勝の弟子らが任務予定を縁壱に流しているからだった。
その上「家とは屋敷そのものではなく、そこに住む人のことを指すのです」と言われてしまうと、どうしようもなかった。本人にその積もりはないのだろうが家を追われた嫌味にしか聞こえないのだ。
そんな縁壱はここ最近、訪ねる時にいつも梅の枝を携えてやって来る。
その日もそうだった。
小ぶりの花を咲かせた枝を持って現れ、例のごとく無表情のまま差し出す。巌勝がそれを受け取ると満足げに微笑むのを密かに不気味に思っていた。
「その梅を生けてはくれませんか」
などと言われることもしばしばであり、それを叶えてやるとまた満足げに微笑む。
何が嬉しいかわからない。気味が悪い。己の生けた花などたいして美しくもないだろうに、と常々思っていた。
幼い頃より花を生けることはあまり得意ではなかった。おそらくは父もそうであったのだと今にして思えばそう感じられる。
花を愛でるよりも剣術の稽古や鷹狩の方が何倍も心が踊る。
嗜みとして花だけでなく歌や舞、書道、絵画、そして茶湯に至るまで一通り教育を受けたが、ついぞ理解できた試しがないのだ。
縁壱ならきっと気品のある侍になったのだと思う。剣しかない己とは違い草花を愛でる心がある。
考えると胃が焼ききれそうだった。
そんな風に物思いに耽っていると不意に「兄上」と己を呼ぶ縁壱の声が聞こえ、びくりと肩を震わせる。
見れば月明かりに照らされた縁壱が夜に白く浮かび上がっていた。どこか浮世離れしている。静謐を湛えたその様に巌勝はたじろいだ。
「本当に兄上は梅がお好きだ」
浮ついた声。その顔を見ることができない。きっと例のあの笑みを浮かべているに違いない。
その時、ふと思い出すことがあった。
それは縁壱の活動区域内にある寺に訪れたときのことだった。
「人を愛したことがありますかな」
と若い僧が訊いたのだ。
虚を衝かれた巌勝が「はあ」と気の抜けた返事をすると、僧は含み笑いをしながら
「いやね、縁壱殿がよくこちらへいらっしゃるんです」
と言った。
「そして必ず、梅の剪定はしていないか、とお聞きになるものだから。我々も困っておるのです」
「それは……申し訳ありません」
若い僧のおどけた口調に顔が火照る。思い当たることと言えば、縁壱が最近持ってくる土産である。
「ご迷惑をおかけ致しました」
どうやら縁壱はここの寺から梅の枝を譲ってもらっていたらしい。おそらく寺の者らは縁壱の為に花の咲いた枝を調達しているのだろうことが伺えた。
「巌勝殿が謝ることではありませんよ」
若い僧はカラカラと笑い声をあげる。人懐っこい顔をする僧だと思った。
「いや。いや。少しからかってしまいましたな」
「……はあ」
「縁壱殿が、貴方が梅をお好きだと教えてくれましたよ。ほら、以前お二人がこちらにいらした時がありましたでしょう。その時に聞いたとそれはもう嬉しそうにして……。
縁壱殿は兄君である貴方のことを深く愛しているのでしょうね」
「――愛?」
ええ、と僧は頷く。
「縁壱殿は巌勝殿の愛によって生かされてきたのです。だから貴方のことを愛しているんですよ」
――――はて。愛とは何であろうか。私は人を愛したことがない。
その時は何と返事をしたのか、巌勝は覚えていない。
そんな事を思い出していると、いつの間にやら手と手が触れるほど近くに寄っていた縁壱が「ここは冷えます。戻りましょう」と囁いた。
巌勝は縁壱を見つめた。
そして「人を愛したことがあるか」と訊いた。縁壱なら教えてくれる気がした。
―――愛とは何であろうか。私は誰かを愛したことがないが、お前は知っているだろう?
そんな風に思ったのだ。
しかし縁壱から返ってきたのは言葉ではなく口づけだった。巌勝にはそれの意味が分からなかった。
ただ分かる事と言えば、縁壱の睫毛が月光できらきら輝いて見える事だけだった。
その日を境に縁壱は梅の枝を持ってこなくなった。あんなに熱心だったように見えたのに呆気ないものだとすら思った。
そしてその代わりとでも言うように縁壱は巌勝に口づけるようになった。言葉もなく、合図もなく、それがまるで当然であるかのように二人は口づけを交わす。
触れ合うだけだった口づけは梅の花が徐々に満開に近づくに連れて深く深く、そして口づけだけでは終わらない睦み合いに変わっていった。
縁壱がそれを始める時というのは、ほとんど気まぐれのように思われたが、不思議とその瞬間というのは察せられた。
決まって巌勝は瞳を閉じてそれを享受する。繰り返し唇をついばまれ、甘い吐息を吹きかけられれば、ぞわりと全身が粟立ったが何も言わなかった。
巌勝は、この弟は許し続けたらどこまで求めるのだろうと思ったのだ。
しかし次第に巌勝は恐ろしくなった。
この行為の最中に縁壱は微笑むのだ。その顔を見ると若い僧の言葉が蘇る。
縁壱が巌勝のことを深く愛している。そして巌勝もまた、そうである、と。
―――そんなことはない。愛していないからこの行為を受け入れている。
―――愛していない。愛せるわけがない。
―――私は弟が憎い。嫉妬でこの身を焼かれ弟の死を願うほどに憎んでいる。なのに。
―――なのに、お前はさも愛しているかのような顔をして私を見る。そんな目で見ないでくれ。
幾度目かの夜、巌勝は隣で眠る縁壱の頬を撫でながら思う。
縁壱は無垢だから、家族を愛することと肉欲との区別がつかぬまま淫蕩に耽っているのかもしれない。そんな妄想じみたことさえ思った。
そうでなければ苦しすぎる。死んでくれと呪う兄を愛する弟など、あまりにも縁壱が哀れでならない。
ふるりと縁壱の睫毛が震え、閉じられた瞼が開かれた。ぼんやりとしていた瞳が巌勝を捕らえ、幸福を湛える。
兄上、と音もなく唇が動く。その声なき声に答えるように巌勝は口づけをした。ほとんど衝動だった。巌勝から口づけをしたのは初めてのことだった。
巌勝は心臓を抉られたような心地になった。
弟に死んでくれと憎む心と同じほどに、弟を愛してしまっているのかもしれないと思ったからだ。
それが酷く罪深いことのように思えて恐ろしくなった。
次で終いにしよう。いや、しなくてはならない。もう堪えられない。これ以上深みに嵌まれば抜け出せなくなるだろう。
次こそ。次こそは……。
幸か不幸か、そう誓った夜から幾日も経たずにその『次』が訪れた。宵の口に現れた縁壱を見て、巌勝は知らず拳を握りしめた。
そしてその夜に巌勝は庭の白梅の枝を手折り、縁壱に差し出した。無表情のままそれを受け取る縁壱に、かつての幼い日々を思い出した。
「これを最後に、もうここへ来るのは止めよ」
それは確かな拒絶だった。これ以上は踏み込んでくれるな。かつて、歪ではあっても確かに兄と弟であった頃に戻るべきだ。そう思って手折った梅の枝だった。
すると縁壱は梅の枝をひったくり床に叩きつけた。思いがけない弟の行為にぎょっとするが、不思議と苦しくはなかった。
むしろこれで良かったのかもしれないとさえ思えた。
そうだ。お前は私のことを打ち捨ててしまえば良いのだ。その方が、ずっとずっと楽だ。私はお前の事が嫌いで、お前も私のことを蔑んでいる。
しかし縁壱は平伏し投げ捨てた梅を拾うと
「俺を兄上に捧げると言ったら、受け取ってくださいますか」
と言いながら巌勝の足を取り口づけた。
悍しいその光景に目眩がした。
悍しいと思うのに、それでも巌勝は「お前の好きなようにしなさい」と言ってしまう。縁壱が幸せそうに顔をほころばせることを知っているからに違いなかった。
部屋に連れ込まれると両手を捕らえられ指と指を絡められる。そしてそのまま縁壱は手を後ろに回す。自然、巌勝の手は縁壱の背に周り、まるで抱きしめているかのような形になる。
やがて咥内に舌を差し込まれた。響く水音が、我が物顔で咥内を蹂躙する縁壱の舌が、巌勝の思考を溶かしていった。歯列をなぞられ上顎を擽られれば身体が震える。舌をねぶられ唾液を啜られればじわりと涙が溜まる。
与えられているのか、奪われているのか解らない。
気持ちが良くて、訳がわからなくなって、怖くて、目を閉じる。ぼろりと涙が頬を伝った。
縁壱から与えられる熱に喘ぎながら、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。苦しさの中の確かな悦楽。こんなのは知らない。知りたくなかった。
脳みそをかき混ぜられたような心地だった。
ぽたり、と雫が頬に垂れた。あの縁壱が汗をかいている。信じられないような気持ちで手を伸ばし拭ってやると「あついです」と消え入るような声が降ってくる。
――うん、おれもだよ。あつくてあつくて、つらい。なみだがでそうになるんだ。
兄上、と縁壱が訴える。熱の解放を求め不規則に痙攣する身体が労しい。
ああ、おとうとが。おれのおとうとがつらそうにしている。助けてやらないと。だっておれはにいさんだから。
巌勝は白む思考に溺れながら弟の首に腕を絡め抱きしめた。
間もなく腕の中の熱がびくりびくりと震える。
次いで、身体を貫く熱がずるりと抜ける感覚と足に伝うどろりとした感覚があった。
意識を失う直前に巌勝が見たのは在りし日の思い出だった。
父から贈られ、母と弟に贈った、二本の梅の枝。強くあれ、清廉であれと言われた早春の日。
それはきっと走馬灯だ。
このまま死んでしまえばいいと思った。