main(5000〜) NOVEL

花の香 早春の夜に満つる

(ニ)春隣

 前の日にこんこんとふっていた雪は太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
 少年はじいっと雪を見つめる。柔らかそうな雪の中に勢いよく飛び込んでいったら気持ち良いに違いないとまろい頬を緩ませる。そんな息子の様子に彼の父親は「何を笑っているのだ」と嗜めた。
 少年は父親からの叱責に唇をぎゅっと引き結び背筋をしゃんと伸ばす。その腕には白く小さな花が咲いた梅の枝を二本、抱えていた。梅の枝は神社へ参拝したその帰りに宮司から土産として父に渡されたものだった。それを父は息子に与えた。

 しかめっ面を崩さない父親は「梅は雪の中で咲く強い花だ。このように強く、忍耐強くなれよ」と言った。
 少年は「はい。父上。わたしは強い侍になります」と言って腕の中の梅を握り直した。
「勝ち続けよ。決して負けるな。国を護れ。家を護れ。良いな」
父親を見上げると、やっぱりしかめっ面で、少年はこくりと頷きながらなんとか「心得ました」と言った。


 屋敷に帰ると少年は母親に梅の花を贈った。母親はあまり外には出ない。特に寒い日には部屋にこもりきりになる。
 母親は梅の花を見て薄らと微笑み、この花を生けてほしいと息子に言った。嗜みとして教わったばかりだったが、少年は「お任せください」と胸を張った。側仕えの者に用意をさせ、小さな手で花と鋏を操り母親好みの器に生ける。
 出来上がったそれを母親はいたく喜び「梅は最初に春を告げてくれる花です」と教えてくれた。
 春が近いのですね、と微笑む姿はお人形のようだ。触れればころんと転がってしまうのではと思った。
「優しい人になりなさい」
「はい。母上。わたしは立派な侍になります」
母親は眉を下げて微笑み「慈悲深く、清廉な人になるのですよ」と言った。
 清廉な人というのは難しくてよく分からなかったが、おそらく、けがれなき清い人だと思う。少年は「心得ました」と言った。


 少年は最後に双子の弟のもとに行った。
 弟のもとに行くのは慎重にならなければならない。父親から弟に会うことを禁じられているからだ。
 弟は耳が聞こえず口も聞けない。そのせいか表情に乏しい子どもだった。しかし耳が聞こえずとも手を取り話しかければ己によく似た赤みがかった瞳がくるりと動く。
 その姿を見ると、心の奥から春の雨のような柔らかい感情が胸を優しくうつ。これが母親の言う「慈しむ心」なのだと幼心に思った。

 薄暗い三畳の部屋の入り口を軽く叩き合図をしてから中にいそいそと入る。弟はこてんと首を傾げて少年を見ていた。
「今日は梅を持ってきたぞ」
そう言って小さな白い花を付けた枝を渡してやる。弟はやっぱり無表情に渡されたそれを見つめていた。
 少年は「梅は最初に春を告げてくれる花だ」と教える。
「もうすぐ暖かくなる。そしたら外で遊ぼう」
 しゃらん、と弟の耳飾りが揺れた。
「春。解るか? 暖かい春。雪が溶け芽が萌え出る春」
 弟の手の中の枝を一旦床に置かせ、その手のひらを己の口にあて「は、る」と口を動かす。
「縁壱。春だ。
 春。
 はる。
 は、る……」
 何度かそれを繰り返し、ぎゅうと抱きしめた。
「春は、“暖かい”。こんな風に」
優しく囁く。分かっているのかいないのか、弟は兄の真似をして腕を背中にまわしてぎゅうと抱きしめ返す。
「ふふ……お前は力が強いのだな。それに温かい。これが、“あたたかい”“春”だ」

 そして、母親が与えたという耳飾りに触れて「雪の中で咲く強い花でもある。お前も梅のように、強くあれよ。でも、辛くなったらすぐ兄さんを呼んでいいぞ。いつだって兄さんが守ってやるからな」と言った。
 耳の聞こえない筈の弟は、まるでそれに返事をするようにすりすりと兄に頬ずりをした。
「お前は甘えん坊だな」
 少年はくすりと笑って背中を撫でる。父親の配下の者が少年を見つけるまで、二人は体温を分け合った。

 もう戻らぬ過去の早春の日。
 それは重ねた日々の中で少年から忘れ去られてしまった幼き日の思い出だった。