(三)疎影横斜
草花を愛でることが好きだった。
季節ごとに移ろう草木や生き物を眺めると深く息をすることが出来た。
春に萌え出で夏に生い茂り秋に実る。そして冬は静かな眠りにつき、次の春を待つ。
その廻りゆく輪の中にいることが自分のあるべき姿なのだと縁壱は思っていた。そうやって生きてゆくのだと思っていた。鬼を知るまでは。
鬼狩りとなってから季節が幾度か廻ったある雪の日、巌勝が縁壱の活動区域内にある寺を訪ねたと聞いた。
縁壱もその寺へ急ぎ向かった。巌勝の私邸へは頻繁に訪ねるがその反対、巌勝が縁壱のもとへ訪れることは極めて少ない。それだけに近くにいると思うだけで心が弾む。
寺に駆けつけた縁壱に気づいたのは寺にいる若い僧で「おや。縁壱殿」とひょいと眉を上げた。その隣で巌勝も目を見開いていた。
若い僧は縁壱と巌勝を見比べニヤリと笑い「縁壱殿は巌勝殿の為に羽でも生やしたみたいですなあ」と言った。当の巌勝は困ったように視線を彷徨かせていた。
縁壱と巌勝が通された部屋からは白梅が見えた。まだ三分咲きだが満開になればさぞ絶景だろう。ちらりと巌勝を見ると彼もまた白梅を見ていた。
「巌勝殿に花を生けて頂きたくて、持ってきてしまいました」
若い僧は花材を持っていたずらっぽく言う。
「いえ……私には、立花のこころが御座いません。仏への花であるならば美しく生けるべきでは?」
「この花は巌勝殿に助けられた花ですから巌勝殿に生けて欲しいんですよ。それに座敷飾りの為の花ですからお気になさらず」
その日、巌勝が寺を訪れていたのはこの若い僧が鬼に襲われていたところを助けたからだという。さすがは兄上だ、と縁壱は誇らしさに胸を膨らませた。
一方で、若い僧に押し切られた形で花を生けることになった巌勝は花材を手に取り難しい顔をする。しかし芳しい花にそっと顔を近づけると張り詰めていた空気を少しだけ緩めた。香りを楽しんでいるのだろう。
「私も兄上の花が見たい」
思ったままを口にすると、余計なことを言うなとばかりの視線が刺さる。
それを華麗にかわして「これとこれなんかいかがでしょうか」と巌勝好みの(と縁壱が思っている)花を手渡した。巌勝は口をはくはくと金魚のように開閉して、やがて諦めたのか「あまり期待しないで下さい」と若い僧に言った。
パチン、パチン。
花鋏の軽快な音が鳴る。
花を生ける巌勝の後ろ姿を見ながら、縁壱は多幸感に浸っていた。そして彼らしくもなく、もしもの世界を考えた。
俺が忌み子でなかったならば、不幸をもたらす存在でなければ、兄と並んで花を学んだのかもしれない。俺が花を選び、兄が屋敷中に花を飾る。兄弟二人で移ろう季節を小さな器に載せるのだ。そうやって二人で大人になって……。
それはとても素晴らしいことのように思えた。
そんな妄想に浸っていると巌勝がくるりと向き直り、ぺこりと頭を下げた。
若い僧は破顔して「いやぁ。さすが、お侍さまでいらっしゃる」と言った。
縁壱も「綺麗です」と言うと巌勝は恥ずかしそうに目を伏せて「そう見えるか」と呟いた。きっと兄はそう思っていないのだと思った。何故だろうか。こんなにも美しいのに。
俺は農夫であったので、高貴なひとびとの流儀など知らない。だが、これが美しいということだけならわかる。
「私にはとても好ましいです」
その言葉に巌勝は眉を下げて笑った。
その帰り、巌勝は梅林を歩きながら
「梅は春を告げる花と言う」
と言った。
「だが、あれでは雪と花の見分けがつかないな」
くすりと笑う巌勝がなんだかとても愛おしかった。
「梅の花は好きですか」
「ああ。梅は雪の中で咲く花だ。厳しい寒さに堪え、一番に春を告げてくれる」
縁壱は巌勝の手を取り、両手で包み込む。その手は冷たかった。
「すぐに暖かくなりましょう」
兄に梅を届けよう。春を告げる花を。
幼い頃に『春の暖かさ』を教えてくれた兄に。
縁壱は花がほころぶように笑った。
##
幾日かが過ぎた。あの日以来、縁壱はせっせと梅の枝を携えて巌勝のもとを訪れていた。
生けてほしいと頼むときもあった。巌勝は気まぐれにそれを叶えてくれた。お前も花を習ったらどうだ、と言われたこともあったが「兄上の花が見たいのです」と伝えると納得いかないような顔をしていた。
そして巌勝の私邸の白梅が五分咲きになる頃、やはり梅を携えて兄のもとを訪れた。
その日の夜は白い満月の夜だった。
縁壱は夜に満ちる梅の香りに誘われ庭に出た。なんとなく、兄もそこにいる予感がしたのだ。
晴れた日の雪を思わせる静かな月の光と、その月光によって星のように輝く白梅が美しかった。そこにいる巌勝は漂うようにそこにいた。この人も「儚い人」なのだと思った。
ここは冷えるから、と言って部屋へと誘う。雪が解けるように朝になると兄がいなくなってしまうのでは、と妄想じみたことを思ったのだ。
すると、巌勝は「人を愛したことがあるか」と訊いた。
縁壱はその言葉に吸い寄せられるように、気が付けば唇を食んでいた。
ほんの一瞬の口づけ。巌勝の瞳はひどく凪いでいた。その瞳の中に縁壱は己の姿をみとめた。
凍らせ永遠に留めておきたいと思われたその一瞬。
巌勝は瞳を閉じてその身を縁壱に差し出した。縁壱はそうあることがあるべきことであるかのように、もう一度巌勝の唇に己のそれを重ねた。
それからと言うもの、縁壱は梅を届けるのをぱったりと止めた。しかしながら巌勝の私邸に足繁く通うのは止めなかった。
何をするでもなく、何を話すでもなく、寄り添う。そしてどちらからともなく口づけを交わした。
最初は触れるだけの口づけだった。
そのうち舌を絡めあうようになった。
溢れた唾液を唇で拭った。
そっと身体に触れるようになった。耳、首筋、鎖骨、胸、脇腹、うで、腰。舌を這わせ、時折歯を立てた。
巌勝は触れ合いを重ねるうちに甘やかな吐息を漏らすようになった。
官能を拾って昂ぶりを見せるそこに触れた時は縁壱に縋りつき声を上げる。腕の中で兄の足が爪先までピンと緊張し弧を描くのが、そして弛緩した体をこの身に委ねるのが堪らなく幸福だった。
それと同時に恐ろしくなった。
この人は求めたらどこまで与えてくれるのだろう。求めれば求めるだけ与えてしまう兄が恐ろしくなった。
そして雪の降るある日――縁壱が巌勝の私邸を訪ねた日の夜、巌勝は梅の枝を持って現れた。
「これをお前にやろう」
「私に、ですか」
「これを最後に、もうここへ来るのは……止めよ」
「なぜ」
「お前が汚れる」
縁壱は巌勝から梅を奪い取り床に投げ捨てた。巌勝はだまりこくって打ち捨てられた梅を見ていた。
冷たい沈黙が流れ、やがて縁壱は平伏して梅を拾う。
「申し訳ありません。
………しかし、これは受け取れない」
巌勝はただ、そうか、と言った。
この人に求められたいと強く願った。求められれば自分が与えられる全てを捧げようと思った。
「……俺を兄上に捧げると言ったら、受け取ってくださいますか」
縁壱は祈りのような言葉とともに巌勝ににじりよって、その脚をすくい取り足首に口づけた。
巌勝の身体は敏感に悦楽を拾う。縁壱が触れる場所全てに唇を戦慄かせ甘い声で啼くのだ。
折り畳ませた両足に身体を挟ませた格好で貫く。すると、巌勝のすべてが縁壱の“目”により詳らかになった。
快感をのがそうと腰をくねらせ顔を真っ赤に染め上げる姿の艶かしさに縁壱は頭痛がした。
己のどこにこんな情欲が隠されていたのかと呆れるほど巌勝の一挙手一投足に煽られる。繋がりを深くすればするほど、より深く繋がりたくなる。
巌勝が唇を噛みしめるので、抱きしめて肩を差し出せば思い切り歯を立てられた。ぴりりと走る痛みは快感に変わり、思わず「ほぅ」とため息が出る。兄が与える全てが快楽に繋がり理性が少しずつ剥ぎ取られた。
目の前にある耳を舐めあげ、舌を挿入し抜き差しを繰り返す。
本能のままに何度も奥を穿ち弱点を擦りあげてやれば、巌勝はその度に低く唸るような掠れた声をあげる。深く深く繋がり、うねる内壁をかき混ぜるように腰を回せば巌勝の両足が戦慄いた。
たまらないとばかりに首を振り涙を流す姿にじゅわりと唾液が溢る。半開きになっていた縁壱の口から唾液が糸を引いて垂れる様は獣のようだ。
本当は優しく慈しむように熱を分かち合うつもりだったのに。
気づけば腹と腹との間で熱の解放を求める巌勝の陽根を乱暴に扱きあげていた。悲鳴のような喘ぎ声はひどく甘く、はくはくと口を開きながら白濁を垂らすそれが健気に思えた。もっともっと乱れてしまえとばかりに鈴口にグリと爪を立て抉る。
「―――っ!!」
巌勝の背がビクンと弓なりに反らされた。目が見開かれ、舌を突き出し声にならない悲鳴を上げている。
縁壱はみぞおちのあたりまで勢いよく放たれた巌勝の精を彼の腹に塗り込んだ。酷く満たされた。
ぴちゃぴちゃと耳の穴を舐め回しながら、きっと自分は兄のために誂えられたのだと思った。
こんな風に兄をみだりがましくさせられるのも自分だけだ。そうに決まっている。いや、そうじゃなくちゃあ、嫌だ。
同時に兄は自分のために誂えられたのだとも思った。こんなに気持ちが良いのは知らない。これ以上の人はいないだろう。縁壱は悦楽の波に溺れた。
ポタリと汗が垂れ、それを巌勝が拭って「つらくないか」と訊く。あまりに幼いその声色に、脳みそが揺さぶられる。こんなにも艶かしく乱れて理性の仮面を剥ぎ捨てた後の巌勝に残るものが、優しく温かい“兄”であることが、苦しくも愛おしい。
「あついです。きもちがいいです。兄上、兄上……」
奪ってください。おれのことをまるごと全部、兄上のものにして。そしたら兄上もおれに全部ください。それ以外のわがままは言わないから。
不意に、巌勝が縁壱をかき抱いた。
「だいじょうぶ。にいさんが、そばに、いてやるから」
譫言のように紡がれる言葉とともに、巌勝の手が縁壱の輪郭をなぞる。そして唇が目もとの涙を吸い取った。
その瞬間、縁壱の目の裏で火花が散った。
あ、あ、あ、と声が漏れ出る。
まるで、兄に天国に連れて行ってもらったみたいだと思った。このまま死んでしまったらさぞ幸せだろうとも思った。
翌朝、縁壱が目覚めると巌勝がいなかった。慌てて部屋を出ると庭にぽつねんと立っている。昨夜の乱れた姿が嘘のような平生と変わらぬ姿だった。
急ぎ身だしなみを整え兄のもとに向かう。巌勝は縁壱に気づくと片眉を上げ、それから乱れていた縁壱のくせっ毛を結い直した。
「昨晩はすまなかった。その……後始末、を……させてしまった」
ためらいがちに言う兄に「お気になさらず」と返す。
同時に己の吐き出した精が巌勝の脚に滴り、ポッカリと口を開いたそこがひくひくと痙攣していたのを思い出した。ついでに後始末の最中の気を失った兄のあられもない喘ぎ声も。
かあっと赤面した縁壱に何かを察したらしい巌勝は苦笑を漏らした。
そして何か言いたげに口を開いては閉じて、最後は諦めたようにため息をつく。
「後悔はしていないのか」
それは質問ではなく確認だった。
「愛する人と、愛しあえた事になぜ後悔することがありましょう」
縁壱は微笑む。
「私の屋敷にも、梅を植えさせようと思います。
兄上の屋敷に白梅があるなら、私の屋敷には紅梅を。紅梅は、白梅を追うように花を咲かせると聞きました」
巌勝がぱちぱちと瞬きをして縁壱を見る。
「ですから、私の屋敷にも、いらしてください。梅を見るため……それだけのために、いらしてください」
縁壱は祈るような気持ちで巌勝を抱きしめた。
貴方はこの世でたった一人の俺の肉親。俺が愛を求めるたった一人のひと。どうか俺のそばにいて。
「お前の体は温かいな」
巌勝が言った。
「ええ。そして、もうすぐ“あたたかな”“春”が来る」
――貴方が教えてくれた、春が来る。
縁壱は巌勝の手を取り、その手のひらに唇を落とした。巌勝は擽ったそうに身をよじりながら「来年の事は、なんだかとても遠く感じる」と言った。
「未来のことを話すのは虚しい」
「いいえ。未来のことを話すのは、幸福の証です」
縁壱は顔をほころばせた。
青い空の下で美しい梅の花が咲き、想いを通わせた兄がいて、二人で未来の話をする。
これ以上の幸せはないだろう。
了