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春雷

【春霞】
 山の奥に春霞に覆われた村があるという。
 その村は竜王に守られており、村に住む者しかそこに辿り着くことは叶わないのだという。

 竜王は村に加護を与えるが、対価として贄を求めるのだという。
 村が春霞に覆われているのも、村の存在が隠されているのも、竜王がよそ者を喰らうから。春霞たなびく山に迷い込んだら竜王に喰われてしまう。
 いつしかそう囁かれるようになった。


 そんな噂が鬼狩りの耳に入ったのは三ヶ月ほど前の話だ。
 その噂を耳にした鬼狩りは師である炎柱――煉獄に鎹鴉をやった。
 この世ならざるものの噂の中でも神隠しや人身御供の噂は“当たり”である事が多いからである。そのため報せを受けた煉獄もすぐに剣士を向かわせた。

 しかし、最初の剣士は村に辿り着けず、次の剣士は村を発見した旨と地図を添えた手紙を鴉に託して行方知れずとなった。彼らは手練の剣士であった。
 そして三人目の剣士はその地図をたよりに村に辿り着き、竜王と贄の噂の真相を探るべくしばらく留まることにしたらしい。
 彼は若い剣士で報せを寄越さぬまま行方知れずとなった剣士の弟子だった。

 その若い剣士曰く、周辺の村で鬼狩りを名乗っていたところ是非村へ来てほしいと村人を名乗る男から言われたのだという。
 なんでも数年前に鬼狩りの剣士が竜王の怒りを鎮め村を守る誓いをたてさせたため、鬼狩りの剣士は“縁起が良い”のだとか。

 その報告に煉獄は眉をひそめた。
 若い剣士は“数年前に現れた鬼狩りの剣士”が誰のことだか分かっていないようであったが、煉獄には心当たりがあった。
 おそらく継国巌勝である。


 煉獄は巌勝を思い出すと暗鬱たる心地になる。彼が鬼となって以降、さんざん人間の悪意の煮凝りを見せつけられたからだ。

 屈指の実力者であった巌勝の背信、縁壱という最強の剣士の不在、そして相次ぐ痣者の死は鬼狩りたちの心を疲弊させた。
 そして次第に不満と疑心暗鬼を募らせていき、悪意はどんどん膨れ上がって崩壊の兆しは目の前にあった。

 最初に疑われたのは、産屋敷邸襲撃の生き残りだ。彼らは密通者でない証拠がないとして尋問を受けたのだ。巌勝に命乞いをして見逃されたため負い目を感じていたのか夜逃げのように姿を消した者もいた。
 彼らが巌勝に追随して鬼になったのではないかと疑われるようになるのに時間は要さなかった。

 次に厳しい疑いの目と憎悪を向けられたのは月の呼吸を操る剣士であった。彼らは自ら隊を去るか追放の憂き目にあった。
 中でも悲惨であったのは巌勝を慕っていた剣士だ。彼らは言い争いの末に滅多刺しにされ生きたまま野良犬に食わされた。
 その私刑に関わった剣士たちは追放となったが、もはや幼い当主と柱が末端の剣士まで御しきれていないことは明らかだった。

 次第に剣士たちは潜む裏切り者を見つけ出そうと互いを疑い告発し合うようになっていった。
 そして不審と疑念は憎悪と暴力を呼んだ。今や鬼殺隊は解散の危機に瀕していると言っても過言ではない状況となってしまったのだ。

 それ故にいつしか巌勝という存在は徹底的に無かったものとされるようになった。彼という存在は剣士たちに“良くない思いを抱かせる”存在なのだ。炎柱も禁忌となった彼の名を手記から黒く塗りつぶし記録から抹消した。

 その黒く塗りつぶされた手記の中に“巌勝が竜の棲むと言われている池を根城にしていた鬼を倒した”という記述があったのを覚えていたのだ。
 巌勝は彼にその村でのことを語ることはなかったが、もしも噂通りならば当時の巌勝は村人に鬼のことを伝えなかったのか。


 煉獄は目を細めた。
 どうにもきな臭い。鬼は強い個体ほど狡猾になる。鬼狩りの目をかいくぐり餌を喰らう。

 しばらく考え込み、やがて煉獄は筆を持ち文を書く。
 送る相手は継国縁壱。

 若い剣士――継国の双子のことを知らないあの青年には、もしやして荷が重いかもしれぬ。そう思い恥を忍んで助力を求めた。


 文を括りつけた鎹鴉が飛んでゆく姿を見ながら思い出すのは縁壱が鬼の始祖を取り逃し巌勝が鬼となった日のことだった。

 忘れられないのは剣士たちに問い詰められた縁壱の姿だ。
 口を閉じて俯くばかりのその姿はまるで幼い子どものようだった。煉獄は縁壱を庇い、己の言葉で弁明するように彼に必死に語りかけた。しかし虚ろな瞳の縁壱に煉獄の言葉は届かない。

 煉獄がやるせない思いでいると、一人が縁壱の胸ぐらに掴みかかった。
 そして巌勝を――鬼となり産屋敷当主の首を狩った裏切り者を今すぐに殺しに行けと叫んだ。その剣士は亡き当主を本当の父親のように慕っていた。
 剣士は滂沱と涙を流しながら、あらん限りの言葉で巌勝を罵倒した。彼は巌勝と剣技を高めあい、共に任務にあたり、時には酒を酌み交わしていた。同志であったはずの彼のその姿はあまりに痛ましく、煉獄は思わず目をそらしてしまう。

 すると、それまで何も言わぬままであった縁壱が男の罵倒に初めて反応を示した。小さく「違う」と呟いたのだ。

 煉獄は嫌な予感がした。縁壱は素直な男だったからだ。
 この哀れな男の心を苛んでいるのは鬼の始祖を取り逃がした事でも、産屋敷当主を失ったことでも、仲間から責立てられていることでもない。
 彼の心を苛んでいるのは、兄が倒されるべき鬼となったこと。つまり彼はもはや永遠に兄を喪ってしまったというその事実に打ちのめされているに違いないと思ったのだ。
 それは確信に近いものだった。

 そして案の定、縁壱は無垢な子どものような顔をして言った。
「兄上は優しい人だ。昔から今まで、変わらず、ずっと」
 縁壱の心もとない弱々しい声は、その場にいた全員を絶句させるに十分な力があった。水を打ったような静けさは胸ぐらを掴んでいた男が縁壱の頬を殴ったことにより終わる。
 男を宥める者も縁壱を責める者もいた。
 しかし、誰もが縁壱がもはや正気ではないのだと諦念を抱いていた。

 煉獄はへたへたと座りこんで縁壱に懇願する。
「もう貴方を守ってくれる兄君はいない。どこにも……」
 縁壱の肩がびくりと跳ねた。
「大人になってくれ。無垢なままでいさせてくれる……どこまでも庇ってくれる……優しい貴方の兄君はこの世界のどこにもいないんだ」
 縁壱は項垂れ「恋しい」と呟いた。幸いその言葉を聞いたのは煉獄だけだった。
 しかし煉獄は、無垢で哀れなこの男にかける言葉を持ち合わせていなかった。


 縁壱が鬼狩りを追放となったその日、文を出すと約束した。縁壱は虚ろな瞳で兄上に繋がる情報があれば必ず教えてほしいと言った。
 煉獄は是と答えた。
「兄君を解放できるのは貴方しかいないのだから、お役目を果たされよ」
そう言い聞かせると、縁壱は口をつぐんだまま、こくりと頷いた。



 あれから季節が巡り、縁壱とは約束通り文を送り合っている。
 彼は鬼を狩りながら取り逃した始祖を追っているらしい。しかし、恐らく実際のところは兄を追っているのだろう。

 彼の情緒は与えられた天命を全うするには余りにも無垢すぎた。
 義に生きるよりも己の愛する人を腕に抱えていたいと望むような男だ。

 鬼を滅ぼすために天が彼を選んだと言うなら、とんだ過ちを犯してしまったのだと煉獄は思っている。
 その無垢さこそ彼を善人たらしめるが、無垢さ故に彼は判断を誤り続けるだろうから。

 どうか彼が兄を討つことができますよう。
 兄を討つことで、彼が救われますよう。

 煉獄は祈るような気持ちで鴉を見送った。