main(5000〜) NOVEL

春雷

【朧月夜】
 村に侍が来た。
 その侍は人を喰らう鬼を追っているのだという。恐らく、村の風習のことを聞きつけたのだろう。
 村の者らは笑って「いいえ。勘違いですよ」と侍に言った。

 この村にいるのは竜王である。池の底に棲まう竜王は気まぐれで、雨を降らせ豊かに作物を実らせるときもあれば日照りにより村人を苦しめるときもある。

「だから、村の娘を嫁に出すのです」
「……もう、何人もの女が竜王の“嫁”となったと聞いた」
 村人は顔を見合わせ口々に竜王の嫁となる名誉を語った。
 侍は静かに話を聞き、それならば私が竜王と話をつけよう、と微笑んだ。
「竜王に、これ以上あなたがたを苦しめないように頼むのだ」
 村人は一様にだまりこくってしまった。

 気まずい沈黙を破ったのは次の満月の夜――三日後に竜王の嫁となる名誉を与えられた娘だった。
「私は、竜王さまのもとに嫁ぐことが誇りです。それが私の産まれてきた意味だと信じております」
 凛とした娘の言葉に村人たちの緊張が解れる。やはりお前を選んだのは正解だった。これほどの娘なら竜王もお喜びになるだろう。そう口々に娘を褒めた。

 侍は娘の瞳の奥を見つめて、ご立派な事だ、と感情のない声で言った。
 娘は随分と傲慢で失礼な侍だと憤る。村にいる粗野な男たちとは違う洗練された佇まいの男。農夫の生まれでないことは明らかだ。
 彼には村の者たち全員の命を救う高潔な使命を与えられた自分の名誉など分かるはずもない。娘は侍を睨めつけた。その視線に気付いた侍は、憂い顔のまま口の端だけで微笑を浮かべてみせた。

 そして満月の夜になった。
 娘が竜王に捧げられる日だ。猿轡を噛ませられ、男二人に池に連れて行かれる。
 娘の心臓がどくんどくんとうるさい。いよいよ目前に迫った竜王の嫁になるという名誉に興奮している自分をどこか冷静に見ていた。

 池は金色に輝く月を映し、娘はこの世ならざる美しさに見惚れた。私はお月さまのもとにお嫁に行くんだったかしら、とぼうっと考えていると男が娘の足と石を紐で結びつけていた。
 男の手はぶるぶると哀れなほど震えている。もう一人の男に叱責されながらなんとか縄を操る。次いで娘は両手を後ろ手に縛りあげられた。

 準備が整い、いよいよ娘は池を覗き込む。
 そして息を呑んだ。
 池は黒ぐろとしていて底が見えぬ暗闇が広がっている。
 思わず後退ると、男がぐっと背を押した。

 どくんどくんと心臓がうるさい。
 これは間違いなく恐怖だった。娘はそれを自覚した。ずっとずっと感じていたそれは紛れもない恐怖だったのだ。
――――ああ。私、ここで死ぬんだわ。
そう思ったら絶えられなくなった。

 娘は身をよじって逃げようとする。しかし男に押さえつけられ思うように体が動かない。叫び声をあげようにも猿轡を噛ませられているためくぐもったうめき声しか出ない。
 娘はついに男二人に担ぎあげられた。そのまま池に投げ入れられるのだ。まるでお人形を投げ入れるみたいに。ジタバタと暴れるが何の意味もない。

 ふわりと体が宙に浮く。
 だめ、だめ、死にたくない。ぎゅうと目をつむり身を強ばらせた。

 しかし娘の体を襲った衝撃は水に打ち付けられた時のそれではなく、地面に叩きつけられた時の鈍い痛みだった。
 息もままならぬまま芋虫のように身をよじって見上げると、娘を押さえていた男の一人が“何か”に襲われているのが見えた。もう一人の男は腰を抜かして立ち上がることすら出来ないようだった。



***



 煉獄からの文にあった通り村には若い鬼狩りがいた。
 彼は日輪刀を佩いた縁壱を見て安心したように「応援感謝いたします」と言ってペコリと頭を下げた。
 縁壱もまた、ペコリと頭を下げる。他の剣士とともに鬼狩りに出るのは追放される前から数えても五年以上前のことになる。

 縁壱はかつて巌勝が鬼から救ったという村が再び鬼の脅威に晒されているという文を受け取りすぐに村に来た。
 巌勝に繋がる情報であればどんな情報だって良い。かつての巌勝を知ることのできる情報であればなんだって聞きたい。それだけの為に村に来たのだ。
 文にあったように周辺の村で鬼狩りを名乗っていると、春霞の村の者だという男から声をかけられた。男は目をまん丸にさせながら「お侍さま?」と縁壱に訊いたのだ。
 聞けば、男は縁壱を巌勝と勘違いしたらしい。あの人の弟だと胸を張って名乗ることができるのは久し振りだった。

 そうして連れられた村では、やはり何人かの村人から巌勝と間違われ、その度に双子の弟だと名乗った。
 そしてちょっとだけ心が踊った。何故ならば村人は口を揃えて巌勝のおかげで村は竜王の加護を受けた、いつまでも感謝を忘れないと言うのだから。


 一方の若い剣士はというと、落ち着かない様子で縁壱のことを雛のように追いかけ「少しお話したいことが」と言って池まで引っ張っていった。

 煉獄の文によるとその若い剣士は縁壱や巌勝のことを知らぬ世代の剣士である。
――なるほど、俺の名を聞いても、兄の名を聞いても、痣者を見ても嫌な顔一つしない筈だ。
 縁壱はほっと息をついた。

 若い鬼狩りは縁壱を件の竜王の棲むという池まで連れて行くと堰を切ったように語りだす。

 この村は竜王の加護を受けている、しかし噂のように贄を求めているということはないと村人は言うらしい。
 竜王に誓いをたてさせた鬼狩り――巌勝は村人にこう言った。
「竜王が誓いを忘れぬように一日に三度、鐘を撞きなさい。決して忘れてはならぬ。もし一度でも忘れたならば、竜王の怒りに触れるだろう」
 村人はその約束を守り、竜王は村に加護を与えているのだそうだ。

 そこまで話し、若い剣士は声を潜める。
「……でも、この村では満月の夜に若い男が首を切られて死んじまうそうなんです」
きょろきょろと周りを見渡してから剣士は続ける。
「最初は鬼が出るから鬼狩りを村に呼んだんだと思ったんですけどねえ……。どうも違うらしい」
「違う、とは?」
「村の連中は竜王の呪いだって信じてるそうですよ。竜王が池に閉じ込められたことを恨んで侍の首を求め若い男を殺してまわってる――ってね。
 だから余所者を呼んで身代わりにしてるんです。噂の出処はそこだったんですよ。
 ……実は、鐘撞きの男が俺に教えてくれたんです。もう満月の度に誰かが死ぬのは御免だ、って。泣きながら。
 俺の師匠もこの前の満月の夜に生贄になったんだ」

 ですから縁壱さんは気をつけなければなりませんよ、と剣士は言った。
「だって、あなたはその侍……兄君と似ているのでしょう。村人はあなたを贄にするつもりだ。鬼に差し出すか…あるいは池に沈めるつもりに違いありません。
 やつら、あなたを騙してるんだ」
 村の人々が自分を騙している。彼にはよく分からなかった。



 かつて、縁壱は巌勝から「人の善意を信じすぎる」と言われていた。
 それは悪いことなのだろうか。縁壱には分からなかった。

 しかし、
「お前がいつか騙されてしまわないか、人の悪意の食い物にされてしまわないか………おこがましいことだと分かっているが、心配になるのだ」
と言って憂い顔をする巌勝を見ると心が踊った。
 そんな風に心配してもらえることはとても幸せな事に思えた。
 そもそも縁壱が人の善意を信じるのは、幼い頃に巌勝その人からの無垢な善意――愛とも呼べるそれによって生かされていたからなのだ。
 縁壱は世界の残酷さや不条理よりも、人の善意や愛を信じるようになったのは他でもない巌勝がいたからだ。

 憂い顔の巌勝の手を取り指を絡め、そして祈りを捧げるように指に接吻をした。
――俺が人の悪意の食い物になりそうになったら、兄上が助けてくれる。だって笛をくれた。助けてくれると約束した。

 縁壱にはそれだけで十分だった。

 巌勝は優しい人だった。
 そして人より傷つきやすい心の持ち主だったように思う。世の中の残酷さばかりに目がいくようで、目の前に不幸せな人がいると自分だけ幸せになることに罪悪感を覚えるような人だった。
 そんな彼を傲慢だと言う者もいた。持てる者特有の傲慢と偽善である、と。
 巌勝はそれすらもよくよく承知していたようで、憂いを帯びた微笑を浮かべ「返す言葉もないな」と言うのだ。
 縁壱は兄ほど繊細で優しい人を知らない。
 この人の弟であることが誇らしく、そしてそんな兄の特別でありたいと願った。

 同時に、人の悪意に敏感なこの優しい人にはもっともっと美しいものを見てほしかった。
 だから指に接吻をしながら「信じてください」と言った。人の持つ善意と愛を信じてください。兄上が持つ善と愛を信じてください。そう祈った。
 巌勝は難しい顔をしていたから、縁壱はゆっくりと待つつもりだった。巌勝が信じてくれるまで、自分が愛に溢れた人だと認められるほどになるまで、雪解けを待つように、ゆっくりと待つつもりだったのだ。

 しかし、やはり世界は残酷で不条理だった。



「私が囮となり……鬼を、そうでなければ竜王とやらを倒せば良い」

 縁壱の言葉に若い剣士は口をあんぐり開ける。
「随分と腕に自信があるのですね。鬼はともかく、竜王を倒すなどという大それたことを。人間に刃を向けることは御法度だというのに。束になって押さえつけられたら、それこそ鬼の餌食だ。
 二人いるからといって油断は禁物ですよ」
「君は優しいな」
「あなたは愚かだ」
肩をいからせ叱責する若い剣士に笑みが溢れる。
 このように戦いにおいて心配され叱責されることはいつぶりであっただろう。
「何笑ってんだあんた」という呆れたような声も新鮮であった。


 そしてその日の夜、縁壱は村人から「三日後の満月の夜は池に行って竜王と話してほしい」と言われた。きっと竜王もお喜びになるだろうから、と言う村人の目には焦りが浮かんでいた。

 もしも鬼に差し出されたなら鬼を倒せば良い。
 そうではなく本当に竜王の仕業であるのならば――竜王と会話ができるのであれば、兄のことを聞いてみたい。

 どうか後者であるようにと望む気持ちをおさえて縁壱は是と答えた。