main(5000〜) NOVEL

春雷

【沈鐘】
 竜は娘に手を差し伸べたこの青年だけは助けてやろうと思った。
 彼は竜を見て驚いたようだったが「それも悪くないかもしれないな」と言った。

 そして約束をした。
 決して池から出ないと約束した。
 池から出てしまえば大水が起こり村は沈んでしまうから。だから池から出てはいけない。

「恨んではいけないの?」
と問えば、侍は
「恨む気持ちはお前だけのものだ」
と言った。

「ではなぜ復讐してはいけないの?」
と問えば、今度は困ったような顔をして
「それは良くないことだから」
と言った。

 勝手な言い草に腹が立ったので喰ってしまおうかと思った。池のそばに転がっている首の無い死体を作ったのは他でもないこの侍なのだろう。それを指摘すると「鬼を狩るのが私の勤めなのだ」と言った。

 そして「鐘を毎日撞かせるように約束させよう」と言った。
「お前の為の――お前がいたことを忘れさせぬ為の鐘だ。一日三度かかさずに撞かせよう」
「もしも鐘の音が聞こえぬ日があったならば?」
牙を剥いて問うと、安心させるように朗らかに微笑みかけてくる。

「万が一そんなことがあれば、お前はもはや自由だ。池を出て好きなところに行けば宜しい」

 その言葉に安心して約束を交わすことにした。

 竜は鱗に覆われた体をくねらせて笑う。
 いつか私がこの村に巣食う“鬼”を一掃してやるから見ているがいい。
 人間はきっと忘れる。約束は果たされぬだろう。稲妻となり村を燃やし尽くし、池から出て村を沈める。そしたらお前のもとに行く。

 そう言えば、侍は悲しそうな顔をした。
 この男は優しい。けれど、狡い男だ。

 ぽちゃん、と小さな水音が鳴る。竜は池の底に潜った。月光さえ届かない深い池の底だ。


 残された侍――巌勝は池を覗き込み、ため息をついた。
 きっと約束は果たされぬ。彼もまた、そう確信していた。