(一)兄弟
縁壱という男は憐れな男だった。
彼は多くを語らない。だが煉獄は蛆の湧いた妻を抱いたまま死ねずにいた縁壱を知っている。
最初はこの男は狂ってしまったのだと思った。愛する人の死を受け入れられず死体と十日ばかり狂気に塗れた生活を送っていたのだと。
しかし、女を弔った後に縁壱が飲まず食わずで妻を腕に抱いていたことが分かった。煉獄は驚いて医者に連れて行った。医者も「どうやって飲まず食わずで死なずにいたのか」と驚いた。
その言葉に縁壱は目を伏せ「確かに、なぜ俺は生きているのでしょうか」と言った。
憐れな男だと思った。
生きることを放棄しても死ぬことが許されない。
彼には生きる為の目的が必要だと思った。
煉獄は縁壱を鬼狩りの列に加えた。それが彼の生きる目的となるならば、例え修羅の道だとしても憐れな男の救いになると思ったのだ。
鬼狩りとなった縁壱は鬼を狩る為に生まれてきたのではないかとさえ思われた。神から授かった才能を持っていた。
剣を構える姿はとても農夫とは思えない。仲間たちは彼を強さの秘密問いただした。もごもごと口をまごつかせる姿に彼は「訳あり」であることが察せられた。煉獄はそれとなく縁壱を庇いながらも縁壱に「本当の」強さの秘密を聞き出した。
鬼狩りの剣技は縁壱により飛躍的に強化された。
縁壱のまわりには鬼狩りたちが教えを乞う者、命を助けられた者が集まった。彼の周りには人がいた。
それでも彼は孤独を纏っていた。憐れな男を癒やすのは復讐ではなかったのだ。
とある宴会の席のことだ。
縁壱は煉獄に家族の話をせがんだ。珍しく酔っているのが、少しだけ紅くなったその顔から見て取れた。子供っぽく煉獄の裾をちょいちょいと引っ張る姿に、縁壱殿は酔うとまるで子どものようになるのか、と、なんだかおかしくなってしまった。
それと同時に縁壱を癒やすのは「家族」なのだと知った。おおよそ感情の機微を顔に出すことのない彼が煉獄の家族の話に微笑んたのだ。心からの微笑みだった。
煉獄はなんとかして彼の心を癒やしてやりたいと思った。しかし妻の死体を十日あまりも抱いていた姿を見てしまった以上、妻帯をすすめることも出来ず、かといって煉獄が家族の代わりとなることも出来ないだろう。
慰めに面白おかしく家族の話をするが、無力感だけが横たわっていた。
そんな縁壱は偶然か、はたまた神からの賜り物か、家族を得た。
鬼狩りに彼の双子の兄が加わったのである。
双子の兄を助けたと縁壱から聞いたとき、そして縁壱の兄と名乗る男が鬼狩りに加わったと聞いたとき、煉獄は浮足立った。
「やっと俺は兄上のお役に立てました。大切なものを取りこぼさず、奪われずに守ることが出来ました」
そう語る縁壱の瞳は幸福に満ちていた。煉獄は思わず縁壱の頭をぐりぐりとなでた。
「兄君と会ったら、縁壱殿は何を話したい?」
「俺は、兄上と未来の話がしたいです」
「そうか。思う存分、未来の話をするといい」
天涯孤独と思われた縁壱の双子の兄。
彼と共にあることは孤独な男の慰めになるのではないか。なぜならば彼らは兄弟であるから。
それは確信にも近かった。
(ニ)父と息子
兄を抱いた。
快楽に打ち震えた兄に「ほしい、ほしい」と強請られるとたまらなかった。惜しみなく与えてくれる兄に与えれれるものはなんだって差し出したかった。
「いやだ、いやだ」
「兄上、気持ちよくは、ないですか」
「気持がいいから、いやなのだ」
気持がいいなら、いやではないだろう。縁壱は嬉しくなって、兄がいっとう気持ちがよくなるようにと腰を振った。兄の悲鳴は砂糖のように甘かった。
すべてが終わった微睡みの中で、縁壱は「愛しています」と言った。縁壱に背を向ける巌勝は答えなかった。起きていることは縁壱に『見えて』いる。
顔を覗きこめば、巌勝はうつらうつらと夢と現実の境を行ったり来たり。額に一筋はりついた髪を耳にかけてやる。
「兄上、愛しています」と縁壱は何度も繰り返した。
しばらく縁壱にとって幸せな沈黙が続いた。
背中にぐりぐりと額を押し付ける。「こら」と巌勝が後ろ手に縁壱を制し、縁壱は「む」とその手を絡め取りぴたりと身体をくっつけた。
じゃれ合うような柔らかな攻防。戦いの日々であることを忘れるほどの穏やかな時間。
「すきです。好きです、兄上。あいしてます。ずっと。ずっと、あいしていました」
「ずっと……?」
「ずっと、です」
背中をちうと吸い、赤い花を咲かせる。印をつけるのは仄暗い喜びがあった。
俺はこの人に許されているのだぞ、と自慢してまわりたい。この赤い印を見よ。どうだ、羨ましいだろう!
ぎゅむぎゅむと縁壱は巌勝を抱きしめる。うなじに唇を寄せ、そのままちゅ、ちゅ、と背中にも。そうしてぴとりと脇にしがみつく。巌勝の手が後ろにまわり、縁壱の頭を撫でた。
幸せを胸一杯に吸い込んで、縁壱はふわりと微笑む。
ふいに巌勝が「甘えているのか」と訊いた。
いや、独り言だったのかもしれない。
「いや……ささえてるのか。この、兄を。ははうえにしたように……」
ふわふわと夢うつつの言葉にドキリとした。
そして何も言えない縁壱の頭を撫でながら、
「お前もやはり、ちちうえの、子、なのだな」
と兄は言った。
何を言われたのか、理解できなかった。
酷い侮辱を受けたような気持ちだった。しかし、それを伝えたら兄は悲しむだろうから言わなかった。
父の存在は縁壱の過去に残る一点の黒い染みだ。
今となっては父は随分と哀れな男だったように思える。誰も愛せず誰からも愛されない男。小さな幸せの尊さに気づかずに、自ら幸せをその拳で粉々にする男。縁壱とは異なる世界に生き、異なる目を持つ男。
「わたしは、ははうえに似ていて……父上は、ははうえのわすれがたみを…見るのがお辛いと……」
縁壱はまさかと思い「殴られたのですか」と訊いた。まさか、忌み子の自分がいないようになった後も兄に災いが降っていたのだろうか。
しかし眉根を寄せる縁壱を宥めるように巌勝は「まさか」とくすくすと笑う。
「ちちうえは、母上いがいのおんなを……めとらなかった………それは、あい、と呼ばれるらしい……ゆえに、ちちうえの、愛、というものは………そういうものだ」
「……聞きたくありません」
縁壱が拒絶する。
しかし巌勝は穏やかに――とても、穏やかに言った。
「おまえの言う、あい、も、なんだか似ておるのだと、おもう。……確かに、ちちうえの、子だ」
――やめてください。いやです。それは嫌です。侮辱です。俺の兄上への想いの侮辱です。
縁壱は兄の身体をまさぐる。
「兄上、もう一度……もう一度、許して下さいませ」
――ひどいです。縁壱は傷つきました。喧嘩をしましょう。兄上、謝ってください。俺はあの男のように兄上を痛めつけません。あんなものを俺は愛とは認めません。
縁壱は暴力的な気分だった。酷くしてやりたいと思った。
「む………もうねむい。いやだ。にいさんは寝る。縁壱もねろ。あしたも……はやいから…」
しかし、ぐずる子どものような口調に縁壱の胸の奥がむずむずとして、暴力的な気分が霧散する。巌勝は縁壱の暴力的な欲望に気付かない。きっと縁壱がそう欲することなど想像すらしないのだ。
切ないような、むず痒いような。きっと足りないのだ。共に過ごす時間が。
――――過去の語らいではなく、未来を語らいましょう。俺は兄上と同じ未来を見て、同じ未来を歩きたい。
縁壱はぎゅうと兄を抱きしめて眠りについた。