main(5000〜) NOVEL

春宵双恋夢

(三)恋を夢む

 縁壱の最初の記憶は奪われることから始まる。あまりに鮮烈な簒奪の記憶だ。
 母が言うにはまだ二つばかりのころの事だったという。そうであるからして、果たしてどこまで正しい記憶かは縁壱自身にとっても分からない。
 それでも確かに縁壱に刻まれた記憶だった。

 まず初めに思い出されるのは温かで心地の良い世界だ。隣には大好きな“片割れ”とぴっとりとくっついていた。

 それが突然奪われたのだ。

 大きな男が、真っ赤な顔で、口の端から泡を飛ばし何事か叫びながら、現れた。
 男は縁壱の隣にいる大切な片割れ――巌勝を担ぎ上げようと小さな彼の体を掴んだ。巌勝は驚いたのか甲高い悲鳴をあげて縁壱につかまった。縁壱も巌勝の腕を必死に掴んだ。
 しかし男は巌勝を担ぎ上げてしまった。
 巌勝は縁壱に腕を伸ばし、縁壱もまた巌勝に腕を伸ばした。それでも結ばれていた二人の腕は男によって引き離されてしまったのだ。
 バタバタと暴れる巌勝に怒鳴り散らし、そして、男は縁壱に言った。
「お前は忌み子だ」
「お前はこの家に不幸をもたらす」
「存在してはならぬのだ」

 言葉の全てを理解出来たわけではない。
 ただ、目の前の男が怒り狂っているということと、片割れが叫び声を上げているということ。その全てが己のせいだと、男――父が突きつけている。それが深く刻まれた。

 あまりに鮮烈な記憶だった。




 縁壱はむっくりと起き上がる。
 随分と昔の夢を見た。簒奪の記憶だ。
 それを振り払うように顔にかかる髪をかき揚げ、隣に眠る巌勝に視線を写す。
 毛先は赤く少しだけ癖があるが、しかし手入れの行き届いた髪。一房手に取り口づけた。
 縁壱の前では、若い僧は巌勝のことを孔雀と言うことがある。それが少しだけ分かる気がした。


 縁壱は音を立てぬようにしながら部屋をあとにする。そして裸足で中庭に出て空を見上げた。
 朝日の光が雲の合間から差し込んでいる。
 美しい朝日の光を浴びて縁壱は微笑む。

「縁壱」
と、兄が呼んだ。見ると襦袢姿の巌勝が眉を寄せていた。
「裸足じゃないか。それに……前を仕舞え」
襦袢を羽織っただけだった縁壱は慌てて前を合わせる。
 上目遣いに様子を窺う。巌勝は一転してくつくつ笑っている。何かを憂いているような顔をすることの多い彼には珍しい笑みだった。
 もしかしたら、おれのことを好きになってくれているのかもしれない。そんな風に思わせる笑みだ。

 幼少の頃、自分を好きになる人などいないと思っていた。命を与えてくれた母でさえ目に涙を浮かべて「苦しい世界に産んでしまってごめんなさい」と言う。
 巌勝だけがただ抱きしめてくれた。
 もしかして、好きになってくれたのだろうか。母でさえ悲しむような、他の大人たちが“不具の子”と言う忌み子である己を。
 そう思った時、幼い縁壱は輪郭を与えられあたたかい光で満たされた。

「兄上が居なければ、おれはあの三畳の部屋で魍魎のような得体のしれぬものになっていたでしょう。
 兄上が光をくれた、あの瞬間が、おれが人として生を受けた瞬間です」
「……お前は産まれた時からお前だよ」
縁壱は縁側に膝をついて巌勝を見上げる。兄上、と呟くと巌勝は吸い寄せられるように近づき両の手のひらで縁壱の頬を包み込む。

「あの若い僧……あの者は、継国の家にいた者だったか」
「覚えておいででしたか」
「いや――今の今まで忘れていた」

 縁壱ははっきりと覚えていた。
 兄がくれた独楽を奪われて、びゅうびゅうと心に風が吹いたこと。数日後に兄が来て、ごめんな、と謝ったこと。
「ごめんな。お前にやった独楽だから、取り返すべきだった。でもあんまりあの者が哀れで、取り上げることが出来なかった」
そう兄は言った。
「ごめんな。ごめんな。私は兄さんだから、お前を優先するべきなのに、あの者が死んでしまいそうで恐ろしかったのだ。だから独楽をやってしまった」
縁壱は独楽が欲しかったのではない。ただ、兄の形代が欲しかった。
「今度は南蛮からきた歌留多というものをやろう。一人遊びできるものではないが……許せ。私がなるべく相手をしてやるから」
そちらのほうがよい。一人ではなく、兄上と遊びたい。
 結局その歌留多遊びの時間も父により奪われてしまった。

「おれはぼんやりした男です。ですから、すぐに大切なものを奪われる」
巌勝の手に己の手を重ねた。
「それはお前のせいではないだろう」
そう巌勝は言った。
「いいえ……おれのせいです。
 しかし、兄上は兄上の意思でおれのそばにいてくださる。もう、おれは奪われることはない」
 言葉にすると幸せな光が縁壱を満たした。

「兄上。好きです。ずっとずっと、好きでした。優しいおれの兄上。兄上もおれのことを好きになってくれたら、嬉しい」
 兄上がおれに抱いている想いの重さが、おれが兄上に抱く想いと同じ重さだと嬉しい。

 そう思った。