NOVEL short(1000〜5000)

花に接吻


 継国巌勝は時透有一郎・無一郎兄弟の父親と同じ赤い瞳の持ち主だった。高校生の巌勝は中学生の時透兄弟にとても優しく、有一郎は彼のことを慕っていた。



 巌勝は兄弟の遠縁の親戚に当たる。両親を亡くした彼らは継国家に引き取られることとなったのだ。
 しかし巌勝の父親は単身赴任で海外にいるらしく、広い家には巌勝と、有一郎と、無一郎の三人だけ。
「巌勝さんは俺達の兄さんになってくれるんだな」
有一郎は嬉しそうにそう言ったが、無一郎はほんの少しも嬉しくなかった。無一郎にとって、家族は死んだ両親と有一郎だけでよかった。
 それに、どうしても無一郎は巌勝を見ると胸の奥から嫌悪感が湧き上がるのだ。
 そのことで兄弟は度々喧嘩をして、巌勝が仲裁をしていた。
「家族を失ったばかりだ。無一郎が俺のことを受け入れることができないのも当然だろう」
そう巌勝が有一郎に言っているのを無一郎は知っている。



 だが、そうではない。
 そうではなく、あの男が何者であるか、はっきりさせなくてはならない。大切な人を守る為に。何故だかそう思ってしまうのだ。

 だから無一郎は巌勝が毎晩毎晩、音も立てずに外に出てしまうことに気づいた時、有一郎に「後をつけよう」と言った。
 悪い連中と付き合ってるに違いないと主張する無一郎に怒りながらも夜中に出掛ける巌勝が心配だと言って有一郎は誘いに乗った。

 そしてそれを決行したのは満月の夜の日のことだった。

 昼間と同じように、高校の制服を着た巌勝が何も持たずに外に出る。
 オートロックの扉がカチャンと音を立てて閉まるのを確認してから二人は顔を見合わせて慎重に外に出た。


 巌勝は二人に後をつけられていることに気づく様子もなく歩みを進める。
 糊の利いたワイシャツと皺のない灰色のパンツを纏い、磨かれた革靴で歩く姿はいつも見る優等生の「継国巌勝」なのに、何も持たずに真夜中の街を歩く姿は異様だった。


 彼はずんずんと迷いなく足を進め、そしてたどり着いたのは大きなしだれ桜だった。
 満開のしだれ桜の内側に入っていく巌勝を、少し離れた場所で見ていた有一郎は「なあんだ」と無一郎を小突く。
「桜を見に行ってたんだな」
ふふんと得意そうな顔をしている。何も怪しいことなんてないじゃないか、と目が訴えていた。むっとした無一郎は桜をにらみつける。


 枝垂れ桜は風が吹いていないのにざわめいている。美しいがゆえに禍々しい。

 そういえばこの枝垂れ桜には謂われがあった、と無一郎は思い出す。



 数百年以上前のことだ。双子の剣士がいた。二人は仲睦まじい兄弟であったが、兄は才能のある弟に嫉妬し鬼となった。
 やがて鬼は倒され地獄に堕ち、弟は幾度も生まれ変わって兄を待ち続けた。しかし待てど暮らせど兄は現れない。
 幾度目かの生を受け白髪の老人となっても兄に会えず、悲嘆に暮れた弟は枯れかけた枝垂れ桜を前に思いついた。己の肉体があるから兄は地獄からこの世に現れてくれないのではないか。ならば、魂をこの枝垂れ桜に移そう。桜の木となり兄を待つのだ。
 そうして弟の魂の宿った枝垂れ桜は毎年美しい桜の花をさかせるようになった。

 そんな話だった。
 無一郎は眉をひそめる。

 鬼になり地獄に堕ちた剣士。鬼になるなどその剣士は地獄に堕ちて当然だ、と無一郎の中の凶暴な顔が言い伝えの鬼を断罪する。言いようのない正体不明の怒りが臓腑を焼くのだ。



 無一郎がそんな風に物思いに耽っていると、不意に声が聞こえた。苦しみ悶えるようなうめき声だ。


 驚いて見ると、彼の人はぐったりと両足を投げ出し桜にもたれていた。ああ、ああ、とこらえるような声を出しながら背をくねらせ身悶えている。
 ざわざわと揺れる満開のしだれ桜はまるで生き物のようだった。


 有一郎が思わず、というように無一郎の手を握る。無一郎も有一郎の手を握り返した。

 巌勝の波打つ背も、鼓膜を震わす声も、それに呼応したようにざわめく枝垂れ桜も、何もかもが恐ろしい。地面に縫われたように足が動かない。


 巌勝はビクリと体を跳ねさせ投げ出した脚の膝を立てた。
「ゆるして、ゆるして」
 すすり泣きに混ざって許しを請う声が聞こえる。亀のように首を縮こませ、手のひらを背の木の幹に押し付ける姿は婀娜やかだった。
 背を丸め頭を振り「よりいち」とうわ言のように繰り返し、やがて巌勝は体を大きく痙攣させながら背を反らす。脚は引きつるようにピンと伸ばされ靴の先が弧を描いた。


 桜の花びらがひそひそと降る中、巌勝の体は糸が切れた人形のように地面に倒れる。ふわりと舞う花びらが彼の体に吸い付いた。

 まるでこの世のものとは思えぬ光景だった。


 先に我にかえったのは無一郎だった。
 満開の花に覆われたその領域に踏み込み、倒れる巌勝に近寄る。ばくばくと心臓の音が騒がしく息をするのも苦しい。無一郎は知らず息を止めていたのだ。
 有一郎もまた無一郎と同じく巌勝に駆け寄り「巌勝さん、巌勝さん。分かる?」と話しかけた。


 巌勝の体は燃えるように熱かった。
「酷い熱だ」
有一郎は顔を真っ青にして救急車を呼んだ。


 無一郎はというと、巌勝の額と首筋からうっすらと見える痣から目が離せないでいた。



 巌勝はうすらと目を開き、苺ジャムのように赤い瞳で無一郎を見つめた。

「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならない」
「……え?」
「そうだろう。縁壱」

 無一郎は、巌勝が彼ではなく桜を見つめていたのだと気づいた。


 ひそひそ、はらはらと桜の花びらが散る。


 ぽとりと巌勝の唇に花が落ちた。巌勝は目を細めてくふくふ笑い、ぺろりと花を食べてしまった。