450分の駆け落ち
これだ、と継国縁壱は思った。
テレビで流れた古い映画、結ばれることが許されぬ若い二人の喜劇的な悲劇『ロミオとジュリエット』。
彼らは引き裂かれる前に、神に愛を誓い結ばれた。
これだ。結婚という既成事実を作り駆け落ちをしてしまえばいい。
縁壱はガバリと立ち上がって口を開いた。こういう時に口にする言葉は決まっている。
「ヘウレーカ!」
ここが風呂場でないことが悔やまれた。
今年で十になる縁壱には前世の記憶というものがあった。
幾度も廻る命は気の遠くなるような時を経て遂に地獄に堕ちた兄と再び双子として生を得た。同時に生まれ落ちた兄が確かにかつての兄その人であると解った時、縁壱は思わず快哉を叫んだ。
かつて縁壱は兄――巌勝に淡い恋を抱いていた。そしてその実らぬ恋を抱いたまま死んだ。
恋したことに後悔はない。しかし、恋した彼と限りある命を共に過ごして生きたかった。心残りがないと言えばそれは大嘘だ。
だから今生では恋を諦めない。そう決めた。今生では幸せになるための貪欲さを悪徳とは言われまい。
「お兄ちゃん、駆け落ちしよう」
『ロミオとジュリエット』のエンドロールをBGMに縁壱は言った。
「かけおち?」
隣に座って同じくテレビを眺めていた巌勝は聞き返す。突然立ち上がり叫びだした弟にも慣れっこで「とりあえず座れよ」と促した。
「かけおちって、駆け落ちか?」
「うん。駆け落ち。ロミオとジュリエットみたいに」
「駆け落ちって、兄弟でするものじゃないぞ」
「駆け落ちって、好きな人同士がするものだ。俺はお兄ちゃんのことが好き。お兄ちゃんは俺のこと好き?」
「そりゃあ、嫌いじゃない。……でも、そうじゃないと思う」
「お兄ちゃんは俺のこと好きじゃないの?」
「……好き、だけど、でも」
「じゃあ俺と駆け落ちして。結婚して。一生、ずっと、好きって、一緒にいるって神様に誓って」
「……」
「……だめ?」
「…ロミオとジュリエットは、最後に死んじゃうんだぜ」
――死がロミオとジュリエットを引き裂けず、それどころか死によってより強固に二人が結ばれることとなった。
――同じように俺と兄上は互いの死によって誰にも……神にも仏にも、鬼にも引き裂くことのできぬ縁で結ばれた。
――ねえ、そうでしょう、兄上。
縁壱は巌勝の両手を握って額と額とをこつんと合わせる。
睫毛が触れ合った。巌勝の瞳が揺れ、吐息は震える。
「……お兄ちゃん。駆け落ちしよう」
縁壱は懇願する。巌勝はたっぷり時間をかけてから、うん、と答えた。
その次の土曜日に駆け落ちをした。お昼ごはんを食べて、ぴったり一時に家を出る。
行き先は決まっていた。
教会だ。
バスと電車を乗り継いで、二人で手を繋いで、教会に向かう。縁壱が小さくて玩具のような可愛らしい教会をインターネットで探したのだ。
それを巌勝に言うと、おかしそうに笑っていた。
電車に揺られ、改札を抜けて、地図とにらめっこしながら目的地に向かう。
「やっぱりスマホ持ってくればよかったじゃないか」
そう不貞腐れる巌勝の手を引いた。スマートフォンは駄目だ。子ども用の機能があるから、すぐにGPSで見つかってしまう。既成事実が作られるまで見つかってはいけないのだ。
二人が教会に着いたのは夕方になってからだった。
家を出てから四時間ほどかかって到着した、木造の教会。そこは夕陽が差し込み橙色に染まっていた。
「まるで燃えてるみたいだ」
巌勝が言った。
「燃えてるみたいだなんて…」
「ほら、見ろ。炎の中にいるみたいだ」楽しそうにくるりと回り、巌勝は祭壇に近づく。そして、来いよと笑う。
「結婚、するんだろ?」
「…うん!」
縁壱は橙色の中を駆けた。
二人で祭壇の前で跪いて、両手を祈りの形に組む。
「ええと、何て言うんだっけ」
首をかしげる巌勝の手を取り、縁壱は唇を落とした。
「兄上、私はいかなる時も貴方を愛すると誓います」
縁壱は言った。
「今日より良き日も悪い日も。富めるときも、貧しいときも、病めるときも、健やかなるときも。今度こそ、共に助け合い、愛し合いましょう。
死がふたりを分かつまで……いえ、たとい死をたまわろうとも!」
巌勝は、とてもとても小さな声で、誓います、と言った。縁壱は巌勝の唇を食み、絶対ですからね、と抱きしめた。
外に出ると、もう日が落ちあたりは暗くなっていた。
このまま二人で何処まででも走って行ける。そう縁壱は思った。二人で手をつないで、どこか遠くへ行くのだ。誰も知らない場所に。
「じゃあ、家に帰ろうか」
巌勝が言う。
「今から帰ったら八時半だ。そろそろ母さんも父さんも心配する……今から帰っても大目玉を食らうだろうけど」
縁壱は、うちにかえる、と繰り返す。
「うん。今日は楽しかったな。また来ような」
にっこりと笑う巌勝は、とても美しかった。
「……そうだね。母さん、警察に電話してたりして」
縁壱も笑って言った。
「あっ、でも、ちゅうしたのは、ちょっとドキドキした」
初めてだったから、とはにかむ巌勝の顔を見て、縁壱はうつむいた。胸が苦しくなって肺まで潰されたように上手く息ができなくなった。
「俺も、初めてだったよ」
それだけをかろうじて口にした。
電車の中で、縁壱は月を見た。満月だった。
「お兄ちゃん。でも、ずっと一緒にいて。死ぬまで。ずっと」
「うん。ずっと一緒にいよう」
巌勝はそう言って縁壱と手をつないでぎゅうと握った。
「あの満月に誓って」
なんてな、と巌勝はくすくす笑う。
――兄上。貴方は本当に月のようなお方だ。絶えず満ち欠けを繰返すあの不実な月のよう。
縁壱は目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのはぽっかりと浮かぶ黄金の月だった。思い出すのは温かい唇だった。