“火車”が出たという噂を聞きつけ辿り着いた集落で話を聞いた巌勝は、眉間にしわを寄せこめかみをおさえた。
亡骸を奪うという噂の正体を探り、万が一その正体が鬼であれば斬れ。そんな命を受けたのだ。
そこは縁壱が鬼を狩ったはずの山の麓であった。縁壱が鬼を仕損じたとはとても思えない。なれど、もしも人に化け人に混ざり人を惑わす血鬼術を遣う鬼であったならばどうだろう。人を疑うことを知らぬ男だ。
「私の不始末であれば私も兄上と共に参ります」
そう言って縁壱が着いてきたのは誤算であったが、あの剣技を実戦で見るのは悪くない。
そう思ったのだが。
「なんてことはなかったな」
そう言ってこめかみを押さえる巌勝に縁壱が「どういうことです?」と訊く。こころもちキョトンとした顔をした縁壱を見て巌勝は目をそらしながら結論だけを言った。
「…………つまり、火車は鬼ではないということだ」
―――まさかお前が火車の正体などと、どうして言えようか。
巌勝はため息をついた。
噂によれば火車は森の中で亡骸を奪うのだという。
尾ひれの付いた噂のもととなった目撃者に話を聞けば、夜に森の中で塵となり消えゆく“誰か”を見下ろす大男を見たらしい。或いは大男が舞を舞う姿とそれにあわせて“誰か”が塵となる姿を見たと言う者もいた。
そしてそれが目撃された日の夕暮れ時にら爛々と瞳を妖しく光らせる沢山の猫を引き連れた六尺五寸の男の姿があったのだとか。顔に炎を覗かせた男はこれから死人を地獄に連れてゆく火車が化けた姿に違いないと言っていた。
恐らく、その大男とは縁壱だ。
六尺五寸は少し大きすぎるが誇張されたに違いない。目撃者の中には興奮気味に語りながらも徐々に顔色を悪くさせながら巌勝と縁壱を見比べる者もいた。己の記憶の中の“火車”が二人の姿と重なったのだろう。
縁壱自身も、その山での鬼狩りの際には麓まで降りはせず夕暮れ時から山に入ったと言っていた。そして呑気なことに「近くには沢山の猫がおりました」などとどこかホワホワした口調で言っていたはずだ。縁壱は昔から動物に好かれやすい。
―――しかし、縁壱が地獄の使者、亡骸を奪う“火車”とはな。
巌勝は胸の奥からどろりとした黒い泥のようなものが膨れるのを感じた。
縁壱の剣は美しい。そしてその剣は鬼を確実に倒すがそれはあやかしの手のような汚れた物でなく、もっと清らかな技の筈なのだ。そう巌勝は信じていた。
「……兄上?」
黙りこくってしまった巌勝の手を握り縁壱が顔を覗き込む。
「その……鬼が居らぬであれば、今夜は……」
「今夜にはここを発つつもりだが……不満があるなら言ってみなさい」
表情こそ変わらないが手を握るその力が強くなる。ギシギシと巌勝の手が軋む。不満があるのだろう。
「縁壱?」
無理にでも笑みを作り尋ねる。すると頬を赤らめた縁壱がすり、と首筋に顔を寄せた。ぞわりと全身に鳥肌が立つ。それを縁壱に悟られぬ様に「どうした?」と殊更おだやかな声を出した。
「その……鬼が居らぬであれば……折角兄弟二人なのです……。私は、兄上と……あの、この様な機会はなかなかありませんから……その、俺は、兄上と…」
もごもごと要領を得ない縁壱の言葉に巌勝は眉をひそめる。
それから縁壱の背に手を回し耳元に唇を寄せた。
「帰るのは明朝にして…今夜は……一緒に過ごそうか」
「……! はい、兄弟水入らずで過ごしましょう」
縁壱は、嬉しいです、と夢見るような笑みを浮かべた。気味が悪かった。
「……時間が余ってしまったから、そうだな、折角だ。お前の剣を見せてくれないか。お前の剣は美しい」
これは本音だ。
―――もしも。もしも私が鬼だったならば、あの美しい剣に倒されることを名誉に思うだろう。
巌勝は思う。
たとえ地獄行きだとしても、死ぬ時はあの剣で命を奪われたい。きっと縁壱の剣に恋をしている。
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