main(5000〜) NOVEL

sui

スイ

混じり気のないもの



(一)  
 彼ら双子が七つになった時、巌勝が眠りについたまま目覚めなくなった。医者が言うには、ただ眠っているのだという。

 ただただ眠っている。  
 ただただ目を覚まさない。

 原因は解らない。

 両親はほうぼうを訪ね歩いたが巌勝を目覚めさせることは出来なかった。  
 悲嘆に暮れる両親の隣で縁壱は眠ったままの巌勝に  
「一緒に外で遊びたい」  
と話しかける。そっと手に触れると温かく、血の通っていることが分かった。  
 胸に頬を寄せる。すり、と巌勝に縋りつきトクトクという鼓動を聞いて安心するのだ。大丈夫、まだ生きている。兄はまだ自分の側にいる。


 巌勝は縁壱にとって北極星だった。  
 どこかに導いてくれるわけではない。人と同じになれない縁壱を世界と繋ぎ止めてくれるわけでもない。  
 しかし巌勝がいれば縁壱は自分の場所を知ることができた。自分の立つ場所と進む道を見つけることができた。  
 昔から――遠い昔からそうだった気がする。それこそ、この世に産まれ出るよりももっと前から、そうだった気がするのだ。

 縁壱は巌勝が目覚めるのを祈った。朝起きたら何事もなかったように「おはよう」と言って笑ってくれますように、と。

 しかし三年経っても巌勝が目覚めることはなく、二人が十になると巌勝はとある療養所に移された。


 巌勝が移された病院は産屋敷病院と呼ばれる病院だった。正式には藤襲山サナトリウム病院という名で、藤に囲まれた空気の綺麗な病院なのだそうだ。巌勝は目が覚めるその時までそこで過ごすことになるらしい。

 産屋敷病院に移った日、ベッドで眠る兄のそばに院長だという青年がいた。  
「……こんにちは」  
縁壱がペコリと頭を下げると青年は  
「こんにちは」  
と微笑んだ。そして「君が縁壱くんだよね」と言って、手招きをする。

「僕は今まで君のお兄さんの支援をしていたんだ。僕がこの病院を受け継ぐことになった時にお兄さんにはここに入院してもらうことにしたんだよ」  
「母さんと父さんの、知り合いですか?」  
「んー……ふふふ。そんなところかな」  
 柔和な笑みを浮かべる青年――産屋敷はするりと巌勝の頬を指先でなぞる。  
「かわいそうな巌勝。太陽を見ることもなく眠り続ける」  
 産屋敷の歌うようなその言葉に縁壱は、やめて、と思わず彼の手を払った。  
「縁壱はお兄さんが大好きなんだね」  
「………ごめんなさい」  
いいんだよ、と産屋敷は言って、縁壱の頭をぽんぽんと撫でた。  
「お兄さんに会いにくるといい」  
「いいんですか?」  
「勿論さ」  
「毎日でも?」  
「ああ。毎日、おいで」  
縁壱は嬉しくなって巌勝の手を握り「毎日来るね」と言った。


 その数日後、彼らの両親は交通事故でこの世を去った。即死だったそうだ。  
 遺された縁壱を引き取ったのは産屋敷だった。


(ニ)  
 縁壱には日課がある。  
 朝起きたら巌勝の部屋を訪ね「おはよう」を言って頬に、夜眠る前には「おやすみ」を言って額に口付けるのだ。

 その日もやはり縁壱は朝起きると一番に巌勝に会いに行った。  
「おはよう」  
と頬に口付け、  
「誕生日おめでとう」  
と彼の胸に頬ずりした。トクトクと聞こえる鼓動にほっと息を付き、部屋をあとにする。

 二人はその日、二十になる。  
 未だ巌勝は目覚めない。



「誕生日おめでとう」  
大学から帰ると養父である産屋敷が縁壱を出迎えた。その夜はご馳走だった。養父が昔馴染みの料理人に作ってもらったらしい。  
 パクパクと料理を口に運びながら「美味しいです」と言う。できれば兄弟二人揃って堪能したかった。  
「ふふふ。巌勝と食べたかったって顔をしている」  
バレていた。縁壱は顔を赤くさせてうつむく。  
「お酒、飲むかい?」  
「……折角なので」  
 初めて飲んだ酒の味はよくわからなかった。


 養父は不思議な人だ。彼が話すとなぜだか安心する。彼の言う事なら間違いがないように思える。これがカリスマというやつだろうか、と縁壱はちらりと盗み見る。養父は柔和な笑みを浮かべて縁壱を見ていた。パチリと目があって、慌てて俯いてしまう。

 縁壱はこの養父がちょっとだけ苦手だ。なんだか全てを見透かされているようで居心地が悪い。でも、自分を育ててくれた大切な養父だ。  
 縁壱はぐるぐると目を回してしまう。


 夜の帳が下り、いつものように巌勝の眠る部屋に行くと養父が彼の側に立っていた。  
 真っ赤な満月を背にした彼らは不気味であった。

「成人のお祝いをしようと思ってね」  
いつもの柔和な笑み。しかし、その目はぎらぎらとした光を宿している。その光は縁壱に蛇の目を想起させた。養父から目を逸らしながら「お祝いとは?」と尋ねる。

 すると産屋敷は縁壱の肩を抱いて巌勝の眠るベッドの側の椅子に座らせた。  
 そして  
「彼を君にあげよう」  
と言った。

 驚いて養父を見ると、彼は変わらぬ笑みを浮かべたまま「彼の身体は君のものだ」と事も無げに口にする。  
「頬や額に口づけするだけでは物足りないだろう? それに、巌勝に似た女性なんていないことも、代替品なんて意味がないことも」  
縁壱は青ざめた。全て知られていた。実の兄への思慕も、恥ずべき欲情を何も知らない女性で満たそうとしたことすらも。  
「ああ。君を責めているのではないさ。むしろ君には罪滅ぼしがしたいと………何年も、何年も何年も思っていた。だから好都合さ」  
「罪滅ぼし?」  
養父はするりと巌勝の唇を指先でひと撫でし「そう」と目を細める。

「前はしくじってしまった。うまく立ち回れなかった。私は取り逃がしてしまった。本当ならば私の代で全てが終わる筈だったのに。私が巌勝を取り逃がしてしまったから君は与えられた天命を果たせなかったのだと思う。  
 それでも君は大きなものを遺してくれたから……だから君の功績に報いるために、そして罪滅ぼしのために、私は君のかつての願いを叶えてあげたいと思う。  
 すなわち、君が巌勝を手にする手助けがしたい」

 養父の口調は穏やかで耳に心地よく、彼の言うことは全て叶えなくてはならぬような気にさせる。それなのに縁壱の背筋が寒くなる。  
 彼は一体何を言っているのだろう。  
 養父は狂っているのかもしれない。

 それなのに、どこかでその言葉を当然のこととして受け取ってしまう自分が恐ろしい。自分は狂っているのかもしれなない。  
 縁壱は養父の言葉に何も返すことはなかったが、養父は満足げにほほえみ部屋をあとにした。

 残された縁壱は恐ろしさのあまり眠る巌勝に縋り付き、それから養父が指先で触れていた唇に己の唇を合わせた。養父の触れ合いを拭い取るように舌を這わせ、じゅ、と吸う。  
 初めて唇に口づけをした。  
「兄さん、兄さん。すみません、すみません、すみません…」  
縁壱は肩口に顔をうずめて繰り返す。じわりと涙が滲んだ。


 縁壱も部屋を去り静寂が戻った部屋で、静かに巌勝が目を開いて苦々しく「―――なぜお前が謝るのだ」と呟くのを聞いた者はいなかった。



(三)  
 朝、目覚めてからの習慣は変わらない。巌勝の部屋に行き「おはよう」を言って頬に口付ける。  
 違うことと言えば巌勝が狸寝入りをしていて、縁壱は巌勝が目を開けるまで顔中に口付けを落とすことだ。たいていは根負けした巌勝が「しつこい」と口を開いて終わる甘やかな攻防である。  
「兄さんが起きないのが悪いのです」  
と最後に鼻の頭に口付ける。  
 ちゅ、とリップ音を立てれば巌勝は唇を尖らせそっぽを向く。照れ方が可愛らしい、と、思わず口角が上がってしまう。



 巌勝が目覚めてからニ年あまりが経った。

 彼が目覚めたのは縁壱が彼の唇に口付けた二十歳の誕生日の翌朝のことだった。縁壱がいつもの通り彼の部屋を訪れた時に彼が上半身を起こして窓の外を見ていたのだ。  
 驚きのあまり固まってしまっていた縁壱に気付くと、巌勝は縁壱を見て  
「………おはよう」  
と言った。縁壱は弾かれたように彼に駆け寄りきつく抱きしめた。  
 それを聞いた養父は「まるで眠り姫だ」と笑っていた。

 それからというもの、縁壱は失った年月を取り戻すように共にいる。  
 巌勝は太陽の光を嫌い日中は屋内にいることが多かった。反対に夜になると外に出て病院の敷地内を二人で歩く。月の光しか浴びることができないのだと思う。


 満月の夜は敷地を取り囲む藤棚を二人で見に行く。  
「この藤は……一年中咲いている。………そう、聞いた」  
「ええ。不思議でしょう? 永遠に咲き続けるこの花は魔除けなのだそうです」  
巌勝はフン、と鼻で笑う。  
「永遠に咲く花こそ………“魔”ではないのか…………?」  
「それは意地悪な解釈ですよ」  
縁壱は兄と言葉遊びをしながら藤の下を歩く。  
 巌勝は目覚めてからというもの、言葉を随分とゆっくり紡ぐようになった。縁壱はそれを一言一句聞き漏らさぬようにしながら、自身もゆっくりと言葉を紡ぐ。歩幅を合わせて、ゆっくりと。

 夢みたいだった。もしもこれが夢ならばずっと微睡み続けようとすら思える。  
 もう兄は目覚めることはないのかもしれないと思うこともあった。全てが夢であったなら、と思うこともあった。  
 しかし彼は今、手の中にある。

「兄さん」  
縁壱は兄を呼ぶ。  
 巌勝は縁壱を見て「なんだ」と言うように首を傾げてみせた。  
「すき」  
縁壱は言った。  
「兄さん、好き」  
もう一度言って、額と額をコツンと合わせる。巌勝は少し気まずそうにしながらも目をそらさない。  
「にいさん」  
冷たく細く震える指先で巌勝の唇をなぞった。

「いい?」と縁壱。  
「うん」と巌勝。  
 二人の唇がゆっくりと重なった。

 巌勝がもらす「ン、ン……」というあえかな声が縁壱を震えさせる。確かに巌勝が生きていて、縁壱の口付けにこたえている。一人よがりな行為ではない。  
 舌を滑り込ませた。すると巌勝が縁壱の腕に縋り付く。舌と舌を絡ませ、くちゅ、と音を立ててみれば腕を掴む手の力が強くなった。水音がいやに響いて聞こえた。夢中になって唾液を交換していると巌勝との境界線が溶けていくような、そんな錯覚におちいる。

 唇を解放すると、潤んだ巌勝の瞳の中にゆらゆらと自分の影が揺らめいていた。  
「愛しています」  
縁壱は言うが、巌勝は俯いて何も答えない。  
「俺が兄さんを愛することをゆるしてくれるなら、兄さんからキスを下さい」  
そう言うと、巌勝は顔を上げて「ん」と言った。ぎゅっと目をきつく瞑って唇を差し出すその姿がいじらしく、縁壱はくすりと笑ってペロりと唇を舐めた。  
 そしてちゅ、ちゅ、と触れるだけのキスをして、最後に下唇を噛み「いつか兄さんからくださいね」と耳に吹き込む。巌勝は感じ入ったような声をあげていた。

 いつまでだって、こうしていたかった。


(四)  
 巌勝が目覚めてから十年が経った。彼は二十五歳のある満月の日に再び眠りについた。  
 こんこんと眠り続ける彼に朝起きて「おはよう」を、夜寝る前に「おやすみ」を言う生活が戻ってきた。


 縁壱は巌勝に恋をしていた。自覚をしたのは十五の時だった。  
 十五のある夜に彼に「おやすみ」を言いに来たとき、ふと巌勝がとても美しい生き物のように思えた。すいよせられるように顔を近づけ、唇に接吻をしようとして、吐息が唇にかかった。ハッとなって慌てて顔を離し、周りをきょろきょろと見回した。それから同じようなことを三回繰り返し、最後に額に唇を落として部屋から逃げ出した。

 結局、眠る彼の唇に接吻をしたのは彼が目醒める前の夜――赤い月夜のたった一回だけだった。


 縁壱は思う。  
 きっと、俺たちは双子に産まれる運命で、兄さんは特別に――俺のために、魂を俺の双子の肉におろしてくれたのだ。  
 兄さんの魂は今頃この世にはいない。天国のむかい、地獄の隣にでもいるのだと思う。

 でも、きっと。  
 きっとまた会える。俺が息絶えるその時には会えるだろう。

 願わくは俺の魂のいきつく先が彼と同じ場所でありますよう。


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