main(5000〜) NOVEL

sui

スイ

酒や薬によう/意識を無くす/心を奪われる





(五)  
 縁壱はイノセントである。  
 無邪気で汚れを知らず、無垢な――つまりは無知な子ども。  
 産屋敷はそう彼のことを評する。

 そして縁壱が無垢な存在でいられるのは巌勝がいるからであると確信していた。  
 遠い昔――戦乱の世で二人が産屋敷のもと鬼を狩っていた時分からそうであった。

 昔も今も、縁壱は巌勝のことを愛している。それも肉欲を孕む愛である。  
 少なくとも当時の縁壱は、同じ女の腹から産まれ出た双子同士という禁忌を容易く破っていた。彼は巌勝を愛することをまったく恐れていなかった。

 彼らが夜ごと睦言を交わし合っていると知った時、そしてそれを問うた時に、縁壱は少しだけ顔を赤らめて恥じたようにしながらも  
「愛する人と愛し合えることはとても幸せなことです。俺は幸せ者です」  
とはにかむのだ。  
「双子の兄弟という禁忌は」  
と問うと  
「双子の兄弟という事実は俺たちを繋ぐ強固な糸――何人も犯しえない絆です」  
と言い切った。

 その時に、産屋敷は羨ましくなった。  
 無邪気に人を愛せることが。その純粋さが。そしてそれをゆるされている事が。巌勝がそれをゆるしている事が。  
 およそ憎しみを抱かずにいられたのは、この兄に愛され、そして愛することをゆるされていたからに他ならないのだろう。


 産屋敷は己が復讐の為に生きているような気がしている。

 遠く、戦乱の時代――産まれる前から憎むべき敵がいた時代には、復讐が風前の灯のような己の命を長らえさせていた。復讐こそが生きる術だった。

 それ故にか今生も復讐すべき敵を探しているように思う。これ以上望むものなどないようにさえ思えるのに何かが欠けている気がしたのだ。

 だから眠りについたまま目覚めないという少年の名が継国巌勝と知った時、己の為すべき復讐を見つけたと思った。

 産屋敷は数年かけ巌勝を己の手元に置いた。地の果てまで鬼を追い詰めると血を滾らせたあの頃と同じ高揚を得た。  
 そして眠り続ける彼の細い頸に手をかけた。このまま成長すれば記憶通りの彼になる少年。このまま手に力を込めれば呆気なく死んでしまう弱い存在。  
 かつて己の頸をその刀で撥ねた男。第六感が働いたのか信頼の置ける寺に隠していた長子を除いた息子と娘、そして妻を殺した男だ。

「我々に恨みがあったのかい?」と訊けば  
「恨みなどない。ただ敵であるからしてその頸を獲る」とのたまった。  
 巌勝はまるで鬼狩りの時と変わらぬ言葉で鬼狩りの頂点に立つ己を殺したのだ。

 屈辱的であった。


 幼い子どもの細い頸に手に力を込める。こんこんと眠るばかりの彼は今まさに殺されようとしていることを知らずに穏やかな顔をして眠っていた。

 その時、窓から射し込む太陽の光が病室の鏡に反射し産屋敷の目を眩ませた。

 思わず鏡を見ると歓喜と恐怖に震える男が映っていた。その顔はまるで鬼のようだった。  
 叫びだしそうになるのを堪らえ、産屋敷は首から手を話した。  
 それと同時に、継国巌勝の双子の弟――縁壱が病室に現れた。


 その数日後、彼らの両親は事故で亡くなった。

 両親の葬儀に出席する縁壱に  
「また、ひとりぼっちになってしまったんだね」  
と言った。涙一滴こぼすことのない、能面のような顔の子どもは  
「まだあにうえがいます」  
とうつむいたまま言った。  
「おれにはまだ、あにうえがいる。ひとりじゃない。おそれることはなにもない。あにうえはいなくならない。つみをおかさない。うらぎらない。おれのそばにいる」  
ぶつぶつと呟く子どもは正気を失っているようだった。  
 髪はぼさぼさとしていて目の下にはくまを作っている。寝ていないのかもしれない。  
 まるで初めて会った時のようだと思った。  
 産屋敷は彼を引き取ることにした。まるでかつてをなぞるように、それが運命であるかのように、産屋敷は縁壱を“子”としたのだ。


 縁壱はやはり巌勝に恋をしているようだった。  
 足繁く眠り続ける巌勝のもとへ通い、夢見るように話しかけ手を握る。頬や額に唇をおとし、悩ましげに溜息をつく。

 高校生になった縁壱は気まぐれに恋人を作るようになった。来る者拒まずなのだと噂されていることは風の便りで知った。だが、産屋敷からしてみれば縁壱が彼女らに兄を重ねていることは一目瞭然であった。  
 そして兄ではないことに失望して別れている。残酷な男だ、と産屋敷は嗤う。無垢すぎるがゆえに残酷な男。

 産屋敷は夢想する。  
 縁壱が眠り続ける巌勝にキスをし、そのまま彼の深いところまで触れ、その身で彼を貫くことを。肉欲に溺れて雁字搦めになってしまうことを。  
 そうなってしまえばいいと、そう思う。

 産屋敷は無垢なものが欲しい。縁壱が側にいれば憎しみと復讐に囚われ鬼に変容してしまいそうな己が人間でいられるような気がする。

 縁壱は巌勝がいれば産屋敷のもとにいるだろう。

 しかし確信が欲しい。  
 だから産屋敷は決めた。彼が二十になった誕生日に、巌勝の身体を彼に渡してしまおう。言葉にしてしまえば、きっと縁壱は己の中の肉欲を意識する。あとは釣り針に縁壱がかかるのを待つだけだ。

 それはとても素晴らしい思いつきだと思った。



(六)  
 かつて、たった一度だけ彼らの情事を見てしまったことがある。

 湯治の為に旅をした際に彼らが護衛についた。その旅での事だった。  
 なぜだか眠りにつけなかった産屋敷が夜風に当たるために部屋を出ると、彼ら兄弟の部屋が少しだけ開いていた。  
 そこから見えたのは揺らめく足。  
 聞こえたのは甘い声。許しを請う巌勝の声と兄を呼ぶ縁壱の声だ。  
 やめてくれ、ゆるしてくれ、こわいんだ。素直になってください、兄上、怖がらないで。ゆらゆら、ふらふら、足が宙を泳ぐのを見ながら産屋敷は二人の声を聞く。  
 やがて足はびくりと緊張し、指がぎゅっと丸まったまま弧を描く。聞こえてきたのは二人分の――同じような声色の歓喜に震える声。宙を泳いでいた足がトサリと床に落ち、もう一つの足と戯れる。  
 それを見届けて、産屋敷は自室へと戻った。

 翌朝、巌勝にそれとなくそのことを伝えると顔を真っ青にさせた。  
「全て私が悪いのです。弟は悪くありません………私があれが求めるがままに断わらなかったのが悪いのです」  
悲痛な面持ちだった。  
「縁壱の方は、巌勝と愛し合うことを悪いとは思っていないようだけれど」  
そう言えば唇を震えさせて  
「あれは無垢な男なのです」  
と声を絞り出す。  
 産屋敷は項垂れる巌勝の手を握って言った。  
「縁壱は無垢で―――禁忌というものを知らないようだ。  
 ……しかし、そんな彼を尊いと思うよ。他にはいない男だ」  
その言葉に巌勝はのろのろと顔を上げて産屋敷の目を見つめる。  
「あのままの縁壱でいさせておあげ。彼からの愛を受け止めておあげ。それが兄である君が縁壱にしてあげられることだよ」  
―――君だって、随分と具合が良かったようだしね。  
その言葉は胸の内に秘めた。

 巌勝は眉根を寄せてしばらく何事か思案していたようだが、やがて口を開き  
「縁壱は――白痴ではありません」  
と言った。  
「しばしば白痴であることは無垢であるかのように……そして、無垢であることは白痴であるかのように思われております。  
 しかし――縁壱は、違うのです。  
 禁忌を知らぬ訳ではなく……ただ、純粋に、愛を信じるのです」  
 その時の巌勝は吐き気をこらえているような顔をしていた。  
「私なんぞに、斯様な執着を見せるのは………私を憐れみ――否、そのようなことも思いますまい……ただ純粋に……」

 巌勝はその先の言葉を失ってしまったようだった。


(七)  
 長い眠りから醒めた巌勝は、産屋敷が彼らの養父だと知ると化け物でも見たかのような顔をした。愉快であった。  
 感激のあまり巌勝に抱きつき離れようとしない縁壱を宥めすかし大学に行かせ、産屋敷は再び巌勝の病室を訪ねる。

 カチャンと後ろ手で鍵を締め、ベッドに近づき  
「久しいね」  
と微笑む。  
 巌勝はやはり苦虫を噛み潰したような顔で  
「……覚えているのか」  
と唸る。  
「また君に会えて嬉しいな」  
「………。……白々しいものだ」

 ベッドがギシリと音をたてる。  
 産屋敷が巌勝に馬乗りになるようにベッドに乗り上げ彼を押し倒したのだ。巌勝は眉一つ動かさずに産屋敷を見上げる。産屋敷は彼の首筋――炎のような痣に手を添わせた。  
「昨日までは、この痣はなかった」  
「……ほう?」  
「ふふ……目は増えなかったようだね。ヒトの顔を遺しているが……中身は卑しい鬼のままなのだろう?」  
巌勝の口の端がひくりと動く。そしてニヤリと両目を三日月のように細めて嗤う。  
「鬼、鬼、鬼……」  
クククと笑いを漏らし秘密を打ち明けるように小さな声で言う。  
「私が思うに、産屋敷よ……身体が鬼に変容していないだけで…………お前も鬼と何ら変わらぬ」  
「黙れ。人食い鬼」  
 産屋敷は痣を撫でていた手を喉にまわした。生殺与奪権は産屋敷にある。それでも巌勝は口元に嘲りを載せたまま産屋敷の手に己の両手を添え、するすると手首から腕へと手のひらを這い登らせた。  
「私を殺すか………。ははは。よい、よい。……殺せ。お前が得るものは私の体のみ。所詮、お前も憎しみを詰めた肉袋というわけだ」

―――黙れ。黙れ、黙れ、黙れ。

 産屋敷は手に力を込める。ぐう、と巌勝は呻くが目は三日月の形のまま嗤っていた。  
 はっとなり手の力を抜き巌勝を見下ろす。咳き込む巌勝は、それでも「はは、は……」と嗤い声をあげる。  
「臆病者め。私を殺せないのか」  
ベッドから降り、巌勝を睨めつける。  
「覚えておくといい。僕がいなければ君は死ぬ。そして……縁壱。彼も、僕がいなければ死んでいたかもしれないね」  
その言葉に、巌勝は一転、ぎくりと身を緊張させる。

「かわいそうな縁壱。かつての彼は妻も腹の中の子も鬼に奪われ、唯一だった兄にも裏切られた」  
思いがけず己の言葉が恨みがましい響きを持った。産屋敷はそれにほんの少しだけ驚きながらも、巌勝に問わずにはいられなかった。  
「教えてくれ。確かに君たちは愛し合っていたのではなかったのかい?」

 すると、巌勝は長い時間沈黙し、やがて静かに口を開いた。  
「私は破滅を知っていたとしても……同じことをしただろう」  
「鬼になったことに後悔はないのかい? それともそれが運命だったとでも?」  
巌勝は正体が明るみになった悪魔のような顔で「違うな」と言う。

「………運命ではなく………私がその手で選んだ。  
 あの時の私は………。それでしか生きられなかった。もしも人のままでいたとしても………呼吸し心臓を動かすだけのしかばねに過ぎぬ。  
 ……この手を血で染めようとも…ああするしか生きる術がなかった。  
 ………。……人のまま惨めったらしく息絶えようが醜い姿で生き恥を晒しながら塵となろうが………本懐を遂げられぬのであれば俺にとっては同じこと」

 産屋敷はふう、と息をついてこめかみをおさえた。  
「鬼に堕ち塵となるのは名誉ある死ではなかったはずだ」  
「俺にとって名誉ある死とは俺が認めた最強の剣士に殺されることのみ。……………人であるかぎり名誉ある死を得ることは不可能」

 それから俯きがちに問う。  
「………縁壱に記憶は」  
「……おそらくは、無いようだね」  
巌勝は目を伏せ苦しそうに眉根を寄せ  
「そうか」  
と言った。

 開けっ放しだった窓から風がふわりと吹き込んだ。巌勝は外を見、それから太陽を見て眩しそうに目を細めて  
「……そうなのか」  
と、ひどく穏やかな顔で繰り返した。


(八)  
 巌勝の身体は時間の矢が逆転している。そう彼は言った。産屋敷は意味が分からずに「は?」と口をぽかんと開いた。

 巌勝が目覚めてから五年が経とうとしている。彼ら双子は二十五になる。かつての痣物ならばそろそろ寿命が尽きてしまうと恐れる年齢だ。

 五年もの間、産屋敷は巌勝を殺さず、それどころか基礎的な教育を施した。  
 小学生向けのドリルを眼の前にドサリと置かれた巌勝の顔は見物であった。  
「君は義務教育も終えていないからね。この僕が、君を教育してあげよう」  
 悔しそうに顔をゆがめる巌勝を見て愉快になる。

 本当は縁壱の希望だった。  
「俺が兄さんにお勉強を教えたいのですが…」  
と言いながら産屋敷に家庭教師をつけるように頼んだのだ。  
 産屋敷はわざと巌勝につきっきりで教育を施した。彼のプライドが傷つくと思ったからだった。

 しかし、巌勝は非常に不愉快そうな顔をしながらも乾いた大地に水が染み渡るように吸収していった。あまり化学は得意ではないようで難しい顔をしていたが、語学は得意なようだった。あのお方も語学に興味を持っていた、と漏らしていたが聞かないふりをした。

 縁壱は大学院に進学し、巌勝とは可能な限り共に過ごしていた。  
 二人が揃うと途端に甘ったるい空気を放つのでたまらない。産屋敷は早々に退散してしまいたくなるのだが、どうやら縁壱が産屋敷と巌勝の仲を嫉妬しているらしいと気付くと必要以上に巌勝との距離を近づけた。からかっているのだ。

「気安く触れるな」  
と巌勝は心底嫌そうな顔をするが、おそらく彼も慌てふためく縁壱を見て面白がっている。  
「産屋敷さんと兄さんは距離が近すぎます」  
「へえ? お前がそれを言うのか。いつもあんな起こし方をするお前が」  
「っ、俺は! 兄弟だから良いのです! そ、それに……その、兄さんのことが! おれは……!」  
縁壱は首から耳まで真っ赤にさせて口ごもる。うーんうーんと唸るのがあんまり可哀想で可笑しくて、産屋敷は「ごゆっくり」と言ってするりと巌勝の肩を撫でてから部屋を出る。

 ドアを完全には閉めないうちに  
「兄さんと産屋敷さんは、どんなご関係で?!」  
と馬鹿でかい声が病室から聞こえる。  
 そして、可笑しそうな巌勝の笑い声も。

―――どんな関係か……。復讐する者とされる者なのだけれど。

 ふふふ、と産屋敷は笑う。  
 ひそひそと巌勝が何事か言って宥めているのだろう。二人分の笑い声が聞こえ、次いで水音が聞こえた。ついでにあえかな喘ぎ声も。  
 産屋敷はカチャ、とドアを静かに閉めた。

 巌勝は縁壱の大学の研究を聞きたがる。一生懸命、巌勝に説明する縁壱の話に頷きながら巌勝は微笑む。  
「あの頃、縁壱は教育を奪われていた」  
そう巌勝は産屋敷に語ったことがある。  
「縁壱が……学びたい事を学ぶ…………それが、嬉しい」  
 頬を染め、まるで恋する人間のような顔で微笑んでいた。

 縁壱が語り、巌勝が聞き微笑む。  
 その姿を見ると産屋敷の心が凪いでゆく。そんな日の夜はどうしようもない焦燥感に駆られ、縁壱が寝静まった頃に巌勝の病室に行く。  
 そして眠る彼の首に手をかけるのだ。  
 彼が生きていることを確認して、力を込め、そして離す。

 パチリと目を開けた巌勝は  
「臆病者」  
と産屋敷を罵り、産屋敷はそれに安心する。  
 ああ、大丈夫だ。まだ己は鬼にはなっていない。


 きっとそんな風に年月を重ねていくのだと思っていた。  
 だから「私の体は時間が逆転しているらしい」と、そして「二十五でおそらくまた眠りにつくだろう」と言われ、理解が出来なかった。  
「………痣の、寿命かい?」  
産屋敷の問いに巌勝は笑う。  
「逆転しているのだと言っただろう。白い満月の夜、私は縁壱によって人生が動き出した。だから、白い満月の夜に眠りにつく」  
「……縁壱は。また、縁壱はひとりぼっちになってしまう」  
「そんなもの……」  
巌勝はふいと視線をそらす。  
「そんなもの、私には、どうすることもできない」  
そして目を伏せた。  
「どうしようもないのだ……どうしようも………」  
 産屋敷は何も言わなかった。


 数カ月後、巌勝は再び眠りについた。縁壱は「きっとまた会えます」と微笑んでいた。

 その晩、産屋敷は巌勝の病室を訪ねた。  
 巌勝はゆったりとした前開きの寝間着を着ている。それを掴み、産屋敷は力いっぱい引っ張った。  
 ブチブチと音がしてボタンが弾け飛ぶ。床の上を一輪の車輪のようにふらふらと走り、やがて産屋敷の靴に当たって床に倒れ虚しく天井を見上げた。

 引きちぎられた寝間着から覗く通勝の身体。  
 鬼を狩っていた頃のような鍛え上げられた身体。傷一つなく日に晒されることのなかった白い肌。  
 産屋敷は片手を脇腹に這わせた。

 そして、もう片方の手に握った果物ナイフを振り上げる。  
 心臓を一突きにすれば、巌勝は死ぬ。

―――三、ニ、一!

 産屋敷はナイフを振り下ろせなかった。

―――三、ニ、一!

 もう一度数える。しかし、産屋敷は振り下ろさなかった。

「ふ……ふふ。ふふふ」  
くすくすと笑って包丁をベッドサイドの机に置く。

「君を一生、恨む。恨むことは絶対に止めない。  
 しかし、君を殺さない」

―――君の負けだ。ざまあみろ。

 産屋敷は巌勝の耳元で囁いた。



 後ろでドアの開く音がする。それから「ギャッ!」という悲鳴。  
 見なくてもわかる。縁壱だ。

 バタバタと騒々しく縁壱は二人の間に割り、巌勝から産屋敷を引き離すと  
「い、いくら産屋敷さんといえども…! 兄さんは渡しませんよ!!」  
と悲鳴を上げた。  
 産屋敷はこらえきれずに声を上げて笑った。



(九)  
 藤襲山サナトリウム病院には“茨の部屋”と呼ばれる部屋がある。限られた者しか入ることの許されない部屋で、なんでも遠い親戚が入院しているらしい。

 院長の産屋敷が初めてその部屋に連れられたのはまだ幼い頃だった。先代――彼の父親が茨の部屋に眠る“いばら姫”を見せてくれた。  
 いばら姫はベッドの上で眠る長い黒髪の青年だった。  
「いばら姫は、この男の人?」  
と訊くと、父親は  
「そうだよ。そして、僕たちが“茨”なのさ」  
と笑っていた。意味が分からずにキョトンとしてしまったが、ふと思いついて「ちゅうしたら起きるかな」と言ってみた。  
 すると父親に追従していた壮年の男――継国縁壱が「だめですよ」と口を挟む。  
「無駄ですから。口付けをすることはいけない」  
「ふふふ。子供の戯れだ。許してやってくれ」  
父親が言うと縁壱は顔を赤らめてしまう。  
 よく見るといばら姫と縁壱はよく似ていた。  
「縁壱の家族なの?」  
そう聞くと、縁壱は今度はうっとりとした顔で  
「この世界で一番愛しい人」  
と言う。産屋敷はいばら姫の顔を覗き込む。  
「きれいな人」  
思わず口にしてしまう。  
 それが院長である彼の、いばら姫に関する最初の記憶だ。

 それからすぐに彼はいばら姫――巌勝の異常性に気付き始めることとなる。  
 眠り続ける彼は、まるで時を止めてしまったかのように若いままだった。まさにいばら姫である。そして巌勝は縁壱の双子の兄であったのだ。どうりで似ているわけだ、と産屋敷は一人納得する。  
 しかし、縁壱が“いばらの部屋”に入り浸り、話しかけ、ときおりキスをしていることを知ると背筋が寒くなった。

 とても正気とは思えなかったのだ。  
 それなのにこれが正しい姿であったかのように思えて仕方がない。


 先代は言う。  
 縁壱は巌勝のことを愛しているから、二人は愛し合っているから、守ってあげるのだ、と。  
 産屋敷は狂気じみたものを感じながらも先代の言いつけを守ってきた。


 しかし、それもあと少しのことになるだろう。  
 縁壱の死期が近いのだ。彼自身がそう言っている。最期は兄の側で眠りにつきたいという彼の希望により、今夜はいばらの部屋で過ごす。  
 長い白髪を結い上げ皺を深く刻んだ顔で、愛おしげに“いばら姫”の手を握る老人の目はまるでみずみずしい少年のようにきらきらと輝いていた。


 翌朝、産屋敷が部屋を覗くと縁壱は既に帰らぬ人となっており、側で眠っていたはずの巌勝――縁壱の愛おしい青年は忽然と姿を消していた。

 そして産屋敷の記憶から彼の美しい姿が擦り切れやがて消えてしまった。  
 まるで彼の存在は泡沫であったかのように消えてしまった。

(2/4)