睡
スイ
ねむる
(十)
長いこと夢を見ていたような気がする。
決して叶わぬ夢を見続けた。そして夢から醒めてしまうぐらいなら夢の中で微睡み続けることを選んだ。
いつか現実と夢が混ざりあうかもしれない。愚者は賢者に、聖人は罪人に、正は邪に、地は天に、海は空に、金は火に、美は醜に、夜は昼に、月は太陽に、鬼は人に。
しかしそれは許されなかった。
だから次は夢から醒めるために眠りについた。
微睡みの中、ゆらゆらと蜃気楼のように現れるのは縁壱の姿だった。
縁壱は「おはよう」と「おやすみ」を言って去る。時に、はにかむように「好き」と言っては顔を真っ赤にさせて走っていく。
その縁壱が時折とても寂しそうな顔をすると抱きしめてやりたいと思うが、蜃気楼なので無駄である。巌勝は縁壱の幻が訪ねる時を除いて微睡み、夢の中を揺蕩うばかりであった。
色も形も不明瞭な夢の中はとても居心地が良い。真っ黒な影が現れれば気ままに剣を振るい、時には影と碁をうった。
この影は一体誰であろうかと目を凝らすが、すぐに興味を失う。無心で松の木の近くで鍛錬を積み、怪しい血鬼術を操る影を他の剣士と共に斬り伏せ、あてもなくふらふらと歩き回る。
真っ赤な彼岸花を見つけると、その赤にほんの少しだけ落胆して、あの方からお叱りを受けてしまうか、と、面倒にも思う。
時間も場所も曖昧だった。
ずっとそのようにしていくのだと漠然と思っていた。
しかし、夢というものはいつか醒めなくてはならぬものらしい。
「兄上」
と若かりし日の縁壱が現れ
「もうすぐお目覚めの時ですよ」
と言うのだ。
「俺が兄上と過ごした時と同じ時間だけ、お目覚めください」
「……私は望んでいなかった。お前が望むから、私は目覚めなくてはならぬ」
恨めしげに言うと、縁壱はへにゃりと笑って「兄さんは優しいから」と巌勝を抱きしめた。
やめろ離れろと言うが、嫌です嫌ですと縁壱も力を込める。
「俺が死んだ赤い月の夜から俺が兄上と再会した白い月の夜まで、どうか俺をお側においてくださいませ」
「………身勝手だ」
「ええ。俺は身勝手です。鬼になった兄上がそう思うほどに身勝手ですとも」
「……お前なあ………」
巌勝はピキッと額に青筋を立てるが、縁壱の腕が震えているのに気付き、その怒りがしゅるしゅると萎えていく。
「分不相応な夢を見ました。兄上のおかげで……分不相応な夢を見る事ができたのです。夢を見る資格すら奪われる忌み子が、ですよ」
縁壱は言った。
「兄上は俺の北極星です。あたなのように優しい人になりたくて、俺は剣をとった」
巌勝は言葉を失い、そして大きな溜息をつく。
「その純粋さ……無垢さが、俺には毒だ。それがお前には分からぬのか」
「俺はあなたが思うほど純粋でも無垢でもありません。ただあなたに恋をしているだけなのです。
あなたが鬼になって、あなたが恨めしくて仕方がなかった。でも、恨めしく思えば思うほど愛しさが深まる」
縁壱は巌勝に縋った。
「もう二度と離したくない。俺は案外、嫉妬深く、蛇のように執念深いのです。ですから諦めてください。俺にあなたを愛させてください。分不相応な夢だと分かっています。でも……でも………」
「そんな風に言うのは狡い。お前は狡い」
巌勝はもう一度ため息をついた。
縁壱が巌勝の唇にキスをする。
薄らと目を開けると、縁壱が巌勝に縋って「すみません」と謝っていた。
可哀想な弟。
しかし巌勝は彼を抱きしめなかった。
ちょっとだけ、意地悪をしてやりたかったのだ。
(十一)
小さい頃の記憶だ。
近くの公園で遊んでいたときのことだった。
何も覚えていない縁壱は、お兄ちゃん、お兄ちゃん、と巌勝の手を引いたかと思えば、その手を離して自由に何処ぞへと行ってしまっていた。巌勝はそれをただ眺めていた。
雨が降る日に縁壱は嬉しそうにぱしゃぱしゃと飛び跳ね歌い、空に向かって口を大きく開けていた。
雨を食べようとしている。
顔も思い出せない我が子もそれをしていたのを思い出す。
「風邪ひくぞ」
と声をかけると、ぴょんぴょんと跳ねながら巌勝のもとにやってきて傘の中に入ってくる。
「風邪ひかないもん」
「ひくんだよ。お前でも」
そう言うと下唇を突き出して不満を顔に出す。
かつてもそうだった。
雨に濡れる縁壱に「風邪をひくぞ」と声をかける。すると縁壱は傘の中に入ってきて「……風邪なぞひきませぬ」と宣う。
「莫迦者。いくらお前といえども、風邪ぐらいひくだろう」
そう言って巌勝がさっさと歩いてしまうと、縁壱は慌てたように「入れてくださらぬのですか」と巌勝の後を追う。
「風邪などひかぬのだろう?」
「……! 意地が悪い」
珍しく縁壱が不満げな顔をするのでおかしくなってクスクス笑う。
「ほら」
傘を傾け縁壱を招くと大きな身体を縮こませて傘の下に入ってくる。
「共に参りましょう」
縁壱が巌勝に言う。
「ああ」
巌勝はそれだけ返して歩き始める。
二人はそれぞれの肩を濡らしながら帰った。
確かにこの弟を愛おしいと思った記憶。彼が忘れていた記憶だった。
(十ニ)
目が覚めた。
隣には憎らしくも愛おしい弟が眠っていた。上半身を起こし、臥したままの縁壱の顔を覗き込む。
顔は皺くちゃになっていて、髪も真っ白だった。かつての彼の最期の姿とまるで同じだった。
「縁壱」
思わず巌勝は声をかける。縁壱は瞼を震えさせながら目を開き、巌勝の姿を捉えた。
時が止まったようだった。縁壱の唇からは言葉は出てこない。しかし、ゆっくりと弧を描きはくはくと口を動かす。
兄上。おそらく縁壱はそう言った。
巌勝は愛おしいと思った。
不思議な感情だった。その他のすべての感情が凪いでいて、ただただ目の前の生き物が愛おしいと思った。
―――俺が兄さんを愛することをゆるしてくれるなら、兄さんからキスを下さい。
いつかの言葉が蘇る。
―――俺はずっとお前を愛していた。愛するように深く憎み、憎しみより深く愛していた。だが、お前が俺を愛することを認めてしまうことが怖かったんだよ。
巌勝は縁壱の唇にキスをした。
触れるだけのキスだった。
顔を離すと、縁壱は事切れていた。
「俺の負けだ」
そう言って巌勝は微笑む。
逆転していた巌勝の身体の時間の矢が真っ直ぐ正しい方向に向かう。
「負けだ、負けだ……。俺の負けだ」
止まっていた分を取り戻すように加速して飛んでゆく時間の矢は巌勝の身体を急速に“正しい時間”にさせようとしていた。
巌勝は己の身体の崩壊を感じ、思わず外を見る。
朝日が輝いていた。手をかざすと、若いままだった己の手がみるみるその若さを失いついにはボロボロと砂になってゆく。
巌勝は最期に「愛しているよ」と呟きこの世界から姿を消した。
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