欠き餅と焼き餅は焼かせる程よい
私立K高等学校に通う伊藤には墓場まで持っていく予定の秘密がある。
一つは前世の記憶があること。
前世において彼は鬼狩りと呼ばれる剣士であった。
時は戦国。伊藤は善良な農民であった。名前は■■■といった。しかしある夜のことだ。伊藤は鬼というファンタジー極まりない生き物に親兄弟を食われた。復讐を誓った伊藤は鬼狩りに拾われ自身もまた鬼狩りとなり、日輪刀というこれまたファンタジーな武器で倒していた。
才覚のあった伊藤は鬼狩りの組織の中でメキメキと頭角を表し風柱と呼ばれるまでになり、そしてこれからという時に突然心臓が止まった。
伊藤はその後の世界について何も知らない。鬼がいないということは誰かが鬼の始祖である鬼舞辻無惨を葬ったのだろう。それが出来る剣士に心当りがある。
しかし、己が過去は■■■という名の農民で今は伊藤という家に産まれたという確信こそが彼を苛ませていた。どうしても己がこの世界の住人ではないような気がしてしまうのだ。
そんなふうに、どうしてもクサクサした気分になってしまった時、伊藤はいつも学校の東棟にある楽器庫に逃げ込んでいた。
出入りの少ない狭い楽器庫は伊藤にとっての聖域であった。生徒たちの喧騒も遠くに聞こえる静かな場所は自分だけの隠れ家のようにも思えたのだ。
しかし、その日はその聖域を侵す不届者が現れた。夕暮れ時、楽器庫を使う部活が活動をしていない日の放課後の事だった。
この出来事こそが伊藤が墓場まで持っていく予定のもう一つの秘密だ。
その不届き者とは継国兄弟であった。
継国兄弟は三つ子だ。
学校で知らない生徒はまずいない程の有名な三兄弟である。
長男は文武両道を絵に書いたような優等生。弟たちはスポーツに秀でた天才肌。
長男からはどこか厳格で冷たい印象を受けるが、弟二人は自由奔放。二人の弟は長男に甘えているところがあるらしく、長男もそれを許しているらしい。何かと距離の近い三兄弟は揃ってブラコンなどと揶揄されていることも多かった。
そして、兄弟は伊藤の前世において共に鬼を狩った同志であった。
見間違えるわけはない。
継国巌勝は前世において武家の産まれの“あの”巌勝であろうし、弟二人のうちのどちらかは伊藤に呼吸法を教え鬼狩り最強の剣士であった“あの”縁壱であろう。
伊藤は迷った。
彼らに記憶があるのかないのか分からない。
「いや〜お二人共久しぶりですな!」などと話しかけて、もしも相手に記憶がなかったらどうする。
巌勝はあの切れ長な目を不愉快そうに細め「どなたですか?」と表向きは丁寧に言うだろう。縁壱――弟のどちらか縁壱かは知らないが、縁壱なら「誰?」と不審者を見る目で伊藤を見たあとに「兄さん、変な人がいる」と巌勝を呼ぶのだろう。彼らの学校生活を見る限り、あの弟たちはそうする。
「………………………止めておくか」
伊藤は彼らとは関わらないことにした。かつての同士が己のことを覚えていないという可能性は伊藤の心を閉ざすのに十分だったのだ。
それなのに。
それなのに、伊藤がいつものように楽器庫で読書をしていると継国兄弟たちがバタバタと乱入してきた。もちろん彼らは楽器庫に伊藤がいるなど露ほども思っていなかっただろう。彼は奥まったスペース、入り口からは死角になる場所に置いてある丸椅子に座っていたのだから。
ドアを乱暴に開ける騒々しい音が聞こえた伊藤は、思わず大きな弦楽器が立て掛けてあるラックに隠れた。隠れた理由は特になく、ほとんど反射的な行動であった。そしてガタンと壁を叩くような音と「こんなところに連れ込んで、何のつもりだ」という不機嫌そうな声に姿を表すタイミングを失った。
「っ、痛いだろ」
「こうでもしないと逃げてしまうから」
(―――この声。継国兄弟か)
伊藤は眉根を寄せる。
戦国時代において彼らが兄弟喧嘩をしているところなど見たことがなかった。ただ事ではない。やっかい事はごめんだ。
(とりあえず、あいつらがここを出るまで隠れていよう)
伊藤は体を縮こませた。
ちなみに、彼はのちのち隠れたことを後悔することになるが、その時はそれを知る由もない。
「あの子、俺に告白してきた子だったのに、どうして付き合ってるのが兄さんなの」と弟のどちらかが言う。
「……お前には関係ない」と巌勝がすげなく返す。
伊藤は、生唾を飲み込んだ。思わぬ修羅場に出くわしたらしい。
(これは――――面白いな)
むくむくと好奇心が膨れ上がる。
あの兄弟が同じ女を巡って争うなど、こんな醜聞は滅多にない。そんな風に思ったのだ。伊藤は三人の会話に聞き耳を立てる。
「関係ない訳はないよ」
「兄さんは彼女のことが好きなわけではないでしょう?」
二人ぶんの声――どうやら弟二人が結託して巌勝を責めているらしい。
「ああ……誤解しないで。怒っているわけではないんです。ただ理由をあなたの口から聞きたいだけで」
「理由? 彼女が俺と付き合いたいと言った。だから付き合った」
「何のために付き合うのですか」
「………お前は、何が言いたい?」
聞いているだけで空気が重くなるような、思わず逃げ出したくなるような威圧感だ。
(巌勝殿、相変わらずおっかねえなあ…)
彼は昔もそうだった。いつも冷静沈着な彼であるが、余りにも無礼な剣士にはこうして圧倒的な威圧感――殺気ともよべるそれで窘めていたと思い出す。彼は上下関係に厳しく、名誉を傷つけられることにいたく敏感であった。それが、たとえ他人に対することであったとしても。
巌勝が怒るとそれを見た周りの者らも居住まいを思わず正していたものだった、とどこか懐かしく思い出す。勿論それは伊藤も例外ではなかった。
(ああ。しかし縁壱殿だけは――)
しかし他の者が居住まいを正す中で縁壱だけは飄飄としていた。そればかりか、まるで子犬のような顔をして下から見上げて「兄上?」などと小首をかしげていた。大男が立ったまま上目遣いをするというのを昔から今まで縁壱でしか見たことがない。
伊藤がそれを思い出し、嫌な予感がした。巌勝の“弟”は、おそらく“やらかす”だろう。
そして予感通り縁壱は「嫉妬したから、彼女に近づいたのでしょう」と言う。
ひやりと冷や汗が背を伝った。
思っていてもそれを言わない。言わないのですよ縁壱殿。いや、話している弟が縁壱殿かどうか分からないが。伊藤は固唾を呑んで巌勝の反応を待った。
「は?」
案の定、重かった空気が更に重くなる。
「俺が、お前に嫉妬したと言うのか」と殺気だった声で巌勝が言う。
それに対して、弟はくすくすと笑う。
「何がおかしい。お前は俺のことを馬鹿にしているのか? 嫉妬で他人の女を盗むみっともない兄だとでも、思ったのか」
殺気のこもる声が震える。
それは怒りか、それとも―――。
「もういい。お前と話すことはない」
「待って」
「離せ。だいたい、お前の方は関係ないだろ。これは俺とこいつのもんだいッ、ンッ……?!」
不自然に言葉が途切れる。どうしたのだろうか、と伊藤が不審に思っていると「何をするんだ!」と巌勝が怒鳴る。
「ここは学校だぞ?! ふざけ、ッ――」
また言葉が途切れる。
伊藤は彼らの様子をうかがう。
「――――ッ!!」
そして絶句した。
弟の一人が巌勝を羽交い締めにし、もう一人がキスをしていた。
伊藤が呆気にとられていると
「っ、痛い」とキスをしていた弟が楽しそうに言う。
「歯が当たっちゃいましたよ?」
「…噛んだんだ」
巌勝は「離せ」と後ろの弟を睨むが羽交い締めにしている彼は
「酷いです。仲間はずれにするなんて。俺もあなたの縁壱なのに」と言う。
「兄上……。俺は嬉しかったんですよ? あなたが嫉妬してくれて……。あなたらしくもなく“女を盗む”ような真似をするなんて」
「そこまで想って下さるなんて、縁壱は幸せ者です」
「彼女は優しい女だ」
「俺たちを見分けることは出来ていなかったけれど」
「きっと兄上と二人で小さな幸せを大切にできる女です」
「それでも兄上には俺たちが――縁壱がおります」
「それで十分ではありませんか」
「兄上は全ての人間にお優しいが“特別”は縁壱だけでしょう?」
「今回は、兄上の“嫉妬”に免じて彼女にも兄上の“特別”を一週間ほどゆるしましたが、もうだめです」
「この縁壱にも“嫉妬”のこころがあるのだと、兄上はご存知ないようですから、この機会によくよくお心に刻んでいただきたいのです」
「今生では二人の肉に分かたれてしまいましたから、二人分の俺の“嫉妬”を」
ヒュッと息を飲む音が聞こえた。
それは伊藤自身のものか、それとも巌勝のものか。
交互に話す二人の弟の声は恋するように優しく甘く、嫉妬に焦がれたように苦く甘く、鼓膜から脳を犯すようにどろりと甘い。伊藤は恐ろしくなり彼らから顔を背ける。
巌勝の焦ったような声と楽しげな弟たち――縁壱の声。全身が粟立ったのを自覚した。
程なくして、伊藤の耳に布と布とがぶつかる乾いた音が聞こえてくる。
弟たちの言葉を聞いてからずっと、伊藤の心臓はせわしなく動いていて痛いぐらいだ。
「はっ、ぁう…ん、ん、ん…!」
「あにうえ、つらい?」
「違いますよね……好いのでしょう」
おそるおそる彼らと覗くと、巌勝は立ったまま弟二人から前と後ろと挟まれていた。
正面に立つ弟は巌勝の片足を小脇に抱えるように持ち上げ、足と足の間に体を割り込ませている。そして密着させた腰を突き上げるようにねっとりと動かしながら巌勝の頬にキスをしていた。
背後に立つ弟は彼の腰を押さえ腰をせわしなく打ち付けている。そして正面の弟にもたれ掛かるように身をあずける巌勝のうなじに舌を這わせたり耳を甘噛みしたりしていた。
伊藤は声を上げそうになるのを必死に堪えて限りなく存在感を消した。
巌勝は「やだ」とうわ言のように繰り返し、口の端からツウと唾液を垂らして身悶えている。溢れた唾液は弟らが大きな口を開けてべろりと舌で舐め取り、その感触にまた巌勝は身悶え頭を振っていた。
伊藤は持ち上げられた足の先がゆらゆらと揺れているのを呆然と見つめてしまう。
「ぅ、や、ああ、あ! やだっ…ん、ぐぅ」
背後の弟が巌勝の口に指を差し入れかきまわし舌を二本の指で挟み、正面の弟がその舌をじゅるると吸う。
巌勝の背が波打ち大きく痙攣する。
舌を解放した正面の弟は鼻をかぷりと噛み「イッちゃった?」とからかうような声で聞いた。
巌勝はいやいやをするように首を振り「ちがう」と涙目で睨みつけていた。
「果ててしまったのなら教えて下さい。下着の中、濡れてしまって気持ち悪いままは嫌でしょう」
後ろの弟が巌勝の股間を撫でる。巌勝は子犬のような甲高い鳴き声を上げて正面の弟に「イッてないぃ…」とすがりつく。
すがりつかれた弟はにっこりと微笑み、ちゅっと頬にキスをして
「早く、兄上の中に入りたいです」と言った。
「ここ、お好きでしたよね」ともう一人の弟も後ろから巌勝の腹に手を回して撫でながら言う。
「ここです。この奥……分かりますか? 兄上が俺のものをすっかり咥えると入ってしまう場所だ」
「兄上はいつもここで極めておられた」
どうやら戦国時代の頃からこの兄弟はそういう仲だったらしい。心底知りたくなかった情報だった。
「だま、れ……!」
気丈にも巌勝は弟を睨みつける。殺気が少しも衰えていないのは流石であった。しかし、こういった時には逆効果であると思い至らないのは、やはり判断力が鈍っているのだろう。
二人の弟はすぅ、と目を細め、そして正面の弟がふとももを巌勝の股間に押しあてガクガクと激しく揺さぶる。
「あ゛っ! ン、あ゛、あ゛!」
背後の弟は暴れる巌勝の腰を押さえつけ耳もとで何事か囁き、そのたびに巌勝は唇をかみしめて首を振る。
巌勝はやがてぐずぐずと泣き出して「もういやだ」と言う。
「もういやだ。お前が一人でも、俺は、お前の熱に堪えられなかったのに、二人なんて無理だ。死んでしまう」
「死にませんよ」
「ええ……死なせませんとも」
二人の縁壱は「降参ですか?」と訊く。
「…………やだ。降参だけは、いやだ」
ぐずぐずと巌勝は駄々をこねた。やだ、やだ、と子どものように繰り返す彼を縁壱は床に座らせる。
「分かりました。……ふふ。縁壱の負けです」
「あ……う…?」
こてんと首をかしげる巌勝の顔は、涙と唾液まみれのひどいものだった。
縁壱は両側から動物がするように頬を舐めあげる。
「俺も、もう我慢出来ないので……」
「ね? 続きはお家でいたしましょう」
「荷物を取ってまいります」
ぱたぱたと軽い足取りと、楽器庫の扉の音。
ぐずぐずと涙ぐむ音。ちゅ、ちゅ、というリップ音。そして己の心臓の音。
「……彼女と別れる」
巌勝は不貞腐れたように言った。
「お前のせいだ。全部。縁壱のせいだ。ばか。ばか、ばか」
「そうです。縁壱のせいです。……でも、兄上のせいです」
「………ばか」
「でも…兄上は…、――――」
ヒソヒソと縁壱が巌勝に耳打ちをする。巌勝はカアッと顔を耳まで真っ赤にさせた。
「〜〜〜っ! ばかっっっ!! このっ……出ていけ!」
ビリビリと怒鳴り声が響きわたる。それは間違いなく照れ隠しであった。
縁壱は楽しそうに「外でお待ちしております」と告げ、ちゅ、と音を立ててキスをして出ていった。
巌勝は縁壱が出ていったのを見送ってから頭を掻きむしって唸り声をあげる。それから大きくため息をついて「ばか……」と呟いていた。
そして指先で唇をなぞり、頬を赤らめて「ばか」とまた呟く。
その響きの甘さに伊藤はオエッと舌を出す。
(………なんだよ。痴話喧嘩か…………)
と、その瞬間。
「…………え?」
「………………あ。……」
座り込んだ巌勝と彼を覗き見していた伊藤の目があった。
「?! 〜〜〜〜?!?!?!」
巌勝の顔が再び茹で蛸のように赤くなる。
「ち、ちがうのです巌勝殿。ちが……っ、」
伊藤の言葉が終わらないうちに視界が回転した。
眼の前に見えるのは天井と、こちらを見下ろす半泣きの巌勝。
「…………………………ここで見たことは、忘れるように。
さもなくば…………………………。
………………………………………………殺す」
伊藤は恐怖のあまり気を失った。
気づいたら楽器庫の扉の前、廊下に寝転がっているところを教師に起こされた。
もう継国兄弟とは絶対に関わらない。そして、今日見たことは墓場まで持っていく。
帰路につく伊藤はそう誓った。