霧の中
俺のことをずっと忘れないでいて。
縁壱はそう言って巌勝を抱いた。己の存在を刻みつけるように。
縁壱はぶるりと身を震わせて巌勝の中に幾度目かの精を吐き出した。
荒い息のまま巌勝の口に舌を差し入れて唾液を啜る。ごくりと嚥下するとぞくりと背筋に電流が走った。たまらなくなった縁壱はぐりぐりと擦り付けるように腰を押し付ける。ふうふうと息を整えながら、多幸感に包まれた。
巌勝の下腹部は二人の精が混ざりどろどろに汚れ、結合部は泡立っている。性器を抜くとひくひくと蠢くそこから精が溢れ出た。縁壱は頬を赤らめ、そして甘えるように気を失っている巌勝の首筋を甘噛みする。
空には一番星が輝き始めている。つまりは鬼が蠢く時間――鬼狩りの時間が始まるのだ。
丁度ひと月前の新月の夜の事だ。鬼狩りに加わったばかりの巌勝は兄弟子を庇い血鬼術を受けた。
その鬼は池の底に潜む女の鬼だったそうだ。
新月の夜にしか現れず、池の生き物を操り村人を何十人も一度に食べる。しかし、不思議なことに食われた者を覚えている村人が一人たりともいないのだ。村人はまるでそんな人間など存在しなかったかのような顔をする。唯一食べ残された遺体からかろうじて彼らが生きた痕跡を見つけることができた。
おそらくは鬼の血鬼術だろう。しかし、村人らにどうやって術をかけたのか、とんと分からない。
鬼狩りたちはその術のせいで鬼の棲家を探るのに多くの時間を費やした上に池の畔での戦いは苦戦を強いられた。結果として鬼は朝日とともに池の底へと逃げてしまったのだ。討伐は次の新月の夜へと繰り越しとなり、術にかけられた巌勝は縁壱の私邸で療養することとなった。
巌勝は悔しそうにしながらも
「術の詳細を。そして討伐を」と縁壱に頭を垂れた。縁壱は慌てて顔をあげさせ「必ず」と約束した。
「お前には助けられてばかりだな」
巌勝が言う。
「俺は兄上をお助けすることができるなら、何処へでも行きましょう」
縁壱にとって巌勝はこの世界にのこされたたった一人の寄す処だ。巌勝が縁壱の“家”だった。
そうして新月の夜に向かった池で、縁壱は女の鬼を追い詰めた。酷く怯えながら命乞いをする鬼に縁壱は「兄上にかけた術を解け」と言った。
「お前の血鬼術は記憶を奪うのか。兄上から何の記憶を奪った」
すると鬼は言った。そうではないのだ、と。
曰く、術にかかった者の記憶を奪うのではなく、かかった者の死後にその者に関わる全ての人間からその者の記憶を奪うのだそうだ。
縁壱はほんの少しだけ目を見開く。
「では、兄上は」
「お前の兄の記憶は何も変わらない。お前の兄が死んだ時にこの世にそいつのことを覚えている者がいないだけだ」
「……お前を斬れば術が解けるのか」
その問いに鬼は観念したように言うのだ。
「わたしの本体は、腹の中の子だ。術はわたしを媒介して人間にかける。わたしを斬ったものは術が解けるが…腹の子を斬らねば術は解けない。
………わたしが死んで腹の子は死なぬが自ら動くこともできずに死に絶える。しかし術を解かずに腹の子が死ねば永遠にそれが解かれることはない」
諦めきったように鬼は言う。
“あの方”――鬼舞辻無惨は胎児を鬼にした。人間の女の腹で育った鬼の赤子は太陽に耐えうるのではないか、と。しかし鬼となった胎児は母親を吸収した。鬼の一部となった母親は他の鬼同様に太陽を克服することはなかった。母親が死ねば本体である胎児の鬼も死ぬ。始祖の計画は失敗に終わったのだ。
「赤子を鬼に……?」
縁壱はぴきぴきと額に血管が浮き出るのを自覚する。
すると、鬼は馬鹿にしたように縁壱をせせら笑った。
「何を怒っている?」
「むごいことを」
「でも、お前も兄を助けるために、わたしの腹の子の首を斬るのだろう」
「わたしの腹の子。かわいそうな子。お腹がすいたと言うからわたしは人間を食べた。外に出られないからわたしが食べてあげるの。わたしが命をあげるのよ。
でもお前は殺すのね。
かわいそうなわたしの子。生きるしあわせ何も知らずに鬼となり腹から引きずりだされて死ぬの。
憎まれて死ぬのよ。わたしの腹の子」
歌うような鬼の言葉に、ひゅっ、と、縁壱は息を呑む。
動揺したすきに鬼は最期の足掻きと縁壱に向かって牙を剝いて襲いかかった。縁壱は鬼の首を撥ねた。
鬼はぎゃあと叫びのたうち回り、なおも縁壱を襲う。本体ではないから塵となることがないのだ。ならば、狙うは本体である胎児のいる“腹”だ。
今度こそ縁壱の剣が鈍り、返り血を浴びた。
母親は塵となり、本体だけが残された。目も開かない赤子が地べたで蠢いている。
「………術を、解け」縁壱は言った。
赤子は唇をもごもごと動かすが、こたえはない。
縁壱は日輪刀の切っ先を赤子に向けた。その手がカタカタと震えた。
助けてほしい。誰か。俺はどうすればいい。鬼だと分かっていても俺には斬れない。恐ろしい。この手で赤子を斬る感触とは、どのような感触だろうか。
ああ、兄上。助けてください。
この赤子は世界から一度だって愛されることなく厭われて死ぬのだ。太陽から拒絶され美しい世界――真実、残酷な世界であると知る前の、美しさすらも知らずに。愛してくれるはずだった母親を吸収し、その母親すら殺された。俺が殺した。
しかし、俺は、純粋にはこの赤子の死を悼むことが出来ない。
つまり、誰もこの赤子の死を悼まないのだ。
縁壱は後ずさる。
殺せない。しかし、殺さなければ兄にかけられた術は解かれない。即ち、兄の死後、兄のことを覚えている者はこの世からいなくなる。それはあんまり寂しい。生きていた証がなくなってしまうではないか。
あの鬼の赤子の母親を殺した己以外が忘れてしまうなど―――。
そこで、縁壱は、ふと気づく。
この世界で俺さえ兄上のことを覚えていれば。兄上のことを覚えているのが俺だけであったならば。
それは素晴らしいことではないだろうか。
巌勝は真に誰のものにもならない。
その心はいつだって鉄で固く守り他人に明け渡すことはない。それが寂しくもあるが、それが気高いと縁壱は思っていた。
だからこそ、彼が死んだあと、覚えているのが己だけであったならば。それは巌勝という存在が己だけのものになるのではないだろうか。
本当は一緒に死んでしまいたい。大切な人のいない世界はいらない。しかし、もしも兄が先に天に召されることがあったとして、己ひとりのものになるのであれば、それは――――。
縁壱は甘美な妄想に酩酊する。
日輪刀を仕舞い、縁壱はそっと赤子を撫でる。
「次に生まれてくる時は、どうか幸せに」
独りよがりの祈りであると分かっていたが、祈らずにはいられなかった。生まれてくることを望まれなかったのは俺も同じだから、と思ったのだ。
すると、赤子はカッと目を見開きブルブルと震え口を動かした。
「お前たちに殺されるぐらいなら太陽を拝んで死んだほうがましだ」
嗄れた老人のような声だった。
縁壱は逃げるようにその場から立ち去った。
早く。早く兄上に会いたい。
生きている間、あなたのすべてを手にすることは出来ないが……ああ、俺は兄上、あなたのことが欲しかった!
ずっとずっと、俺だけのものにしたかったのだ!
縁壱は山を駆ける。
恋を自覚した。走り出さずにはいられなかった。
そうして縁壱はまだ空が白み始めた頃に床に臥せる巌勝のもとにあらわれた。
幽鬼のようにふらふらとあらわれた縁壱を見て、巌勝は「何があったのだ」と慌てたように縁壱の両肩を掴む。
「返り血も拭わずに…」
「あ……」
巌勝の指摘に縁壱は慌てて顔を手で拭った。
「こら。ますます汚れてしまうだろう」
顔を擦る手をつかみ、巌勝は安心させるように縁壱の背をぽんぽんと叩く。
「無事に戻ってなによりだ。よくやったな」
「兄上………」
縁壱は巌勝の顔を見つめて、ぽつりと言った。
「俺のことをずっと忘れないでいて」
「……? …何を……、っ!」
そして、顎を掴み唇を奪う。不意打ちを食らった巌勝は縁壱を振り払うこともできずに腔内への侵入を許してしまった。
ひとしきり腔内を舐め尽くすと、縁壱は敷布の上に巌勝を押し倒した。
「どうか俺に抱かれてください」
まるで許しを請うような声色だ。巌勝はそれに驚いたようだったが、
「お前の気が済むのなら、この身などくれてやる。抱きたいだけ抱け」と言った。
そこから先は、我を忘れ巌勝に溺れた。傷つけることは本意ではないから、ゆっくりと身体を明け渡させた。縁壱の目により詳らかになる身体はやがて持ち主ではなく縁壱に主導権を譲る。
己の身体に裏切られた巌勝は為す術もなく初めての快楽に翻弄され、最後は気を失ってしまっていた。
縁壱は巌勝を抱きしめ「お許しください」と囁き、ぬかるみに指を差し入れて己が吐き出した精を掻き出した。
首から胸、胸から脇腹、と順に唇を落とし、へそを舐める。ひくりと巌勝の腹筋が動き髪の毛が掴まれる。
「疲れた。もうしない。寝たい」
「はい」
縁壱は巌勝を抱き上げる。
「汗を拭います」
「……お前の体力はどうなっておるのだ」
呆れたような声だった。
「まあ、いい。好きなようにしろ」
「ありがとうございます」
そして、小さな声で巌勝は言う。
「お前のことなど、たとえ死んだって忘れるはずがない」
「………俺もです。俺も……俺だけは、たとえ死んでも兄上のことを忘れない」
巌勝からの返事はなかった。
それでも縁壱は構わなかった。
なぜならば、巌勝は永遠に縁壱ただ一人のものになるのだから。