菊と繊月
柱に叙された剣士たちに菊酒がふるまわれた。
重陽の節句には、剣士たちと産屋敷家の人間の無病息災を祈るために、こうして宴が催される。太陽の昇りきった時間から日没まで、鬼狩りと縁のある寺院の庭園で催される宴だ。
もともとは煉獄家の当主――炎柱であった男が取り仕切り始まったと巌勝は聞いている。そうであるから柱の剣士たちには貴重な菊酒が、他の剣士たちにも滅多に飲むことの叶わない良質な酒がふるまわれる。
菊酒――長寿を祈る酒。
産屋敷家当主から賜った盃を巌勝は見下ろす。
黄色い花びらの浮かべた盃。透明な清酒に浮かぶ花びらはえもいわれぬ優美さがあった。なるほど、産屋敷家当主の宴に相応しい。
巌勝はせせら笑う。今年で二十四となる彼の寿命はあと僅かだ。
――――無病息災とは、笑わせてくれるじゃないか。
盃を煽り菊酒を飲み干した。
酒精が身体にまわり、顔が火照る。
喧騒から逃げるように巌勝は庭園を歩いた。それから石橋の上でぽつねんと立ち尽くし、池の鯉をぼんやりと眺める。独りであることは巌勝の心を一時的であっても慰めた。
「巌勝」
ふと、名を呼ばれる。産屋敷だ。その側には縁壱が控えている。産屋敷は巌勝が膝をつこうとするのを手で制し、一輪の白菊を持たせた。
「ほら。巌勝によく似合うだろう」
産屋敷は楽しげに縁壱に言う。縁壱はこくりと頷き、上目遣いに巌勝を見てはにかむ。
「うつくしいです」
「…………有り難く頂戴いたします」
巌勝は産屋敷に一礼した。
「巌勝は花をたてるのが得意だと聞いた。明日、屋敷で花を立ててくれないかい?」
産屋敷の言葉に是と答えながら、巌勝は焦燥感にとらわれる。
―――そんなことをしている暇はない。時間がないのだ。花の美しさなど……そうとも、この花の美しさが失われるのと同じように私の命は失われる。どうして花など愛でられようか。
産屋敷は何事かを縁壱に耳打ちする。すると縁壱は頬を赤らめ俯いた。
「産屋敷家の男は短命だ。そして、僕を残して男子は皆死んだ」
産屋敷が言う。
「だからこそ、君たち二人には仲良くしてほしいと思ってしまうのだよ」
巌勝は思わず目をそらしてしまった。しかし産屋敷は巌勝の名を呼び、目をそらすことを許さなかった。
産屋敷は巌勝を手招きして上体を屈ませ耳もとで囁く。
「縁壱にも伝えてあるが、人払いはしている」
それから、くすくすと笑って
「時というものを大切に使いなさい」
と言って去っていった。
残された巌勝は、手の中で美しく咲き誇る白菊をただただ見るより他になかった。
「兄上」
縁壱が呼ぶ。
「この先に小屋があるそうです。
………その、俺たちのために、“整えてある”と、お館様が……」
消え入りそうな声だ。
巌勝は白菊から目を離さずに、そうか、と言った。
縁壱は、あの、だとか、その、だとか口ごもり、とうとう巌勝の手から白菊を奪い、彼の口を吸った。
「縁壱」
巌勝が咎めるように呼ぶと、縁壱はもう一度、唇を奪う。
「お願いいたします」
甘ったるい声で懇願しながら、白菊を持っていない方の手が巌勝の腰にまわされる。その手は細かに震えていた。そして下半身を押し付けるように距離を詰め、もう一度懇願してみせる。
―――下手な誘い方だ。
巌勝はふっと笑う。
「……少し、休もうか」
そう耳もとで囁いてやると、縁壱は嬉しそうに首筋に頬ずりをした。
甘えるような縁壱の背をぽんぽんと叩きながら、巌勝はじんわりと身体が火照る感覚に目を細める。
酒精によるものではないその感覚。
身体中の神経をむき出しにするが如く過敏になってゆくその変化に、先程の菊酒の盃を思い出す。
―――飲み口に薬を塗られたか。
自覚してしまうと余計に神経は過敏になっていった。
「よりいち」
こうなってしまえば、早く終わらせてしまったほうが良いだろう。そう思い、わざと吐息をふんだんに混ぜた声で弟の名を呼ぶ。
その己の行動の浅ましさには見ないふりをして、もう一度名を呼び、こめかみに唇をおとす。
「ええ……ええ……。分かっております……。お辛いのでしょう」
縁壱はそう言って巌勝の肩を抱いて歩き出した。
「限りある時を共に過ごしましょう。同じ時の中で甘い夢をみましょう」
二人は連れ立って小屋の中に消えてゆく。
巌勝が小屋の中で目覚めると、窓から繊月が浮かんでいるのが見えた。
寝転んだままの彼を、背後から縁壱が抱きしめている。巌勝は後ろ手に縁壱の頬をくすぐってやる。
「夢を見たよ」
巌勝が言った。
「白菊が舞う―――そんな夢」
縁壱は、美しい夢でしたか、と訊く。
「さあ、どうだったかな」
巌勝は瞳を閉じ、再び眠りについた。