月隠し
縁壱はソファにもたれ掛かったまま、ほんの少しだけ開けたカーテンの隙間から覗く満月を見た。
中秋節の夜。満月は煌煌と輝いていた。
縁壱の腕の中には巌勝がいる。一糸まとわぬ姿で縁壱に向かい合うように跨り体を預けうつらうつらとしている彼――双子の片割れ、たった一人の兄とは久方ぶりの逢瀬だった。
巌勝の身体は月光をその身に纏っているかのように青白く輝いている。満月に呼応しているのだと縁壱はぼんやりと想う。同じ腹から産まれたというのに、巌勝の身体は特別に神聖なもののように思われる。それが妄想だということは知っているから口には出さないが。
朝が来て月が姿を消せば縁壱の目の前から去ってしまうだろう。それがどうにも苦しくて、月が永遠に留まれば良いと思わずにはいられない。
名残惜しく月を見ていると、キンモクセイの甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。縁壱はそれを肺いっぱいに吸い込み瞳を閉じる。そして巌勝のこめかみにキスをした。
巌勝の身体からはキンモクセイの香りがする。昔から変わらない。
満月のころ、月では桂花――キンモクセイが開花する。その満開の花々が満月の輝きとなり地上に届くのだ。
巌勝と縁壱は月で産まれた。兎の耳と尾を持つ半人半獣の彼らは“玉兎”と呼ばれる。
玉兎の勤めとして幼き日より桂花の世話を命じられていた巌勝はいつもその身から甘い香りを漂わせていた。艷やかな黒髪を後頭部で括り、長い耳を震わせて桂花の世話をする彼の瞳には与えられた勤めへの誇りに満ちていた。
一方の縁壱は十になれば耳と尾を奪われ地上に追放となることが定められていた。日輪の痣を持っていたからだ。追放が定められた縁壱は“不吉の象徴”として桂花に近寄ることが許されなかったが、他でもない巌勝だけはこっそり連れて行ってくれていた。
この花が満開になると、地上では月が黄金色に輝く。縁壱はそう巌勝から教えられた桂花の芳しさに酔いしれた。
兄と同じ香りのする花。地上におとされたとしても、満月を見れば兄を思い出せるだろう。縁壱は兄を抱きしめて、ちゅう、と接吻した。
「おれはもう寂しくなどありませぬ。地上におとされても、兄上がいつだって見守ってくださるから…」
きょとんとした巌勝に胸が高鳴り、もう一度接吻をした。
十になりただのヒトとして地上におとされてから、縁壱は巌勝への想いが恋であると知った。
気付くと同時にその恋心を胸の奥に凍らせておくことにした。凍らせておけば、恋は枯れることはなく美しいまま永遠になると思ったからだ。
それなのに、巌勝は成長した姿で縁壱の前に現れた。
なぜ彼が月と地上を頻繁に行き来しているのか理由は知らない。共にいる鬼舞辻無惨という男との関係も知らない。時折、血の匂いをまとう理由も聞いていない。
転がり落ちるように縁壱は巌勝に溺れた。綻びとなるものは目に入れたくなどなかった。
すっかり大人になった巌勝の身体からは幼き日と同じく芳しい香りがした。縁壱はその香りに酔いしれ、強い強い衝動にかられる。そんな時、巌勝は敏感にそれを感じ取って縁壱の腕を引いて接吻を施す。
そうなってしまうと縁壱には我慢ができなくなる。唾液を啜り、咥内を我が物顔で蹂躪するのだ。長い兎の耳がぴくぴくと動くのが愛らしく、震える耳を甘噛みをしてやれば甘い声を出す彼にくらくらとする。
初めて睦言を交わしたのは春分の日から数えて最初の満月の夜だった。巌勝は初めこそ戸惑いを見せたが、すぐに月光のように柔らかく微笑み身を差し出すようになった。
しかし巌勝は縁壱に、睦言を交わすのは「満月の夜だけ」と言う。それでは寂しいと言っても巌勝は頑なだった。
それどころか意を決して
「おれはあなたに恋をしているので、もっと同じ時を過ごしたい」と言うと巌勝は「恋など!」とせせら笑うばかりだった。
中秋節の夜もそうだった。
「好きなんです。あなたに恋をしているのです」
そう縁壱は言った。
「玉兎は恋をしない。ヒトに堕とされたから性欲を恋などと勘違いをする」
巌勝はそう言いながら縁壱の腰を撫でソファに押し倒したのだ。
「私の身体で満足するなら、飽きるまで抱けばよい。お前が私に飽きたとき、これが恋ではなかったと知るだろうから」
「いいえ。これは恋です……あなたの芳しい香りに私の心が疼くのです」
「……ヒトというのはまったく、難儀なものだな。恋などと言うまやかしを発明するなど」
巌勝はこれ以上話すことなどないとでも言うように縁壱の口を己のそれで塞いだ。そして縁壱に跨り肉欲に溺れさせるのだ。艶めかしく腰をくねらせ、身体を跳ねさせる。兎の長い耳をぱたぱたと上下に跳ねさせるのが視界に入り縁壱は目眩がした。
二人が同時に絶頂を迎えたあと、巌勝は荒い息を整えながら言う。
「快楽を得るのは悪いことではない。しかし、快楽に溺れ、あまつさえ恋などと己のそれを履き違えるのは、正しくない」
「兄上は、ひどい人です」
「お前は、清いから……。…ヒトになって…恋などというまやかしを知ってしまったのは、お前の不幸だ」
巌勝はそう言う。
縁壱は彼を抱きしめ、もう一度肺いっぱいにキンモクセイの香りを吸い込む。甘い香りにくらくらと酩酊しながら
「まやかしなんかじゃありません」
とぎゅうと抱きしめる。
宵闇にはぽっかりと浮かんだ満月が輝いている。桂花が満開なのだ。もしも、兄を閉じ込めてしまえたら、桂花は花を咲かさずに、月は輝かなくなるのかもしれないと夢想する。それでも構わないと、縁壱はそう思った。