宵闇遊歩
ある夜のことだった。
新月の晩のことだ。
巌勝は縁壱を散歩に誘った。時計は十二時五分前を指している。「こんな真夜中に?」と訝しむと巌勝は笑って「星が綺麗だから」と言っていた。
「珍しいこともある」
「何が?」
「散歩」
「よく行くんだ。お前が知らないだけで」
「違うよ」
「じゃあ、何が?」
「兄さんがこうして誘うなんて、珍しい」
そう言うと、巌勝は目を細めて笑う。そして、手を差し出して
「気まぐれだ」と言った。
縁壱は巌勝――双子の兄のことが昔から好きだった。
この“好き”は少々やっかいだ。
巌勝さえ幸福であるならば、彼に降りかかる全ての不幸が己に降りかかれば良いと思う時もある。反対に、彼を人の目につかぬよう何処かに閉じ込めで自分だけのものにしてしまいたいと思う時もある。
笑ってほしいと思う。しかし自分に向ける感情が一番のものであるなら、たとえ憎しみでも構わないと思う。
体の温もりを感じるように抱きしめるだけで良い。いや、もっと深く深く――獣のように、燻る肉欲をぶつけてしまいたい。
巌勝は縁壱のそれを知ってか知らずか、いつだって“むこう側”にいた。
気まぐれに微笑みかけ、縁壱が手を伸ばせば去っていく。不躾なほどじっと縁壱の顔を見つめたかと思うと、興味を失ったようにふいと顔をそらす。熱に浮かされような瞳で縁壱の頬をそっと――壊れ物に触れるような手付きで触れ、次の瞬間には恐ろしいものでも見てしまったかのような顔をする。
そして、太陽の昇っている真昼中に巌勝は縁壱にキスをするのだ。ちゅ、ちゅ、と音を立ててキスをして、かぷりと唇を食む。にんやりと目を三日月の形にゆがませ笑い、息さえも奪うように腔内を蹂躙した。
一方で、太陽が沈めば巌勝は極めて貞淑な面持ちでいる。けぶるような睫毛をふるわせ、頬に触れるだけのキスをして照れたように微笑んでみせた。
昼と夜とで異なる巌勝の姿に縁壱は惑わされる。
薄いベールの“むこう側”から巌勝に観察され、弄ばれているような、そんな感覚になるのだ。それが悔しいようでいて嬉しくもあった。
てくてくと二人で夜の街を歩く。
「何処行くの?」と訊けば
「海の見える場所」と返される。
二人の手は握りられたままだった。ぎゅう、と強く握ると、ちらりと一瞥を送られ、フフンと笑われる。
それから二人は黙って歩く。月のない空だというのに星々は控えめに輝いていた。星が綺麗だって言ったじゃないか。縁壱はそう思いながら、もう一度、ぎゅうと握って、ついでに爪を立てた。
海の見える場所――果たしてそこは港を一望することのできる公園だった。
巌勝は縁壱の手を引いてベンチに座る。
そしてキスをした。呼吸を奪うようなキスだった。夜なのに、と縁壱は思った。
ぴちゃぴちゃと音がなる。シンとした公園。
頬に夜風が刺さる。しかし体に熱はこもるばかりだ。
舌と舌とを絡め合う。
唇を離すと縁壱はベンチに押し倒された。
見えるのは、墨を流したような真っ暗な夜空と、泣き出しそうな顔をした巌勝の顔。
その顔は、とても綺麗だった。
「にいさん、かわいそう」
思わず口から言葉がこぼれる。
「俺なんかに好かれて。かわいそうだ」
その言葉に巌勝はますます苦しそうな顔をした。縁壱は巌勝の肩を押して起き上がると、もう一度深いキスをする。ぽろぽろと溢れる巌勝の涙を舌で拭い「甘い」と呟いた。巌勝は「ばか」と呟いた。
二人は輝きの少ない空を見上げる。まるで呆けた人のように。
「なんで、散歩に誘ったの」
縁壱が訊く。
「気まぐれ」
巌勝が答える。
「ウソでしょう。どうして?」
結んだままの手を、もう片方の手で包み込む。もう逃さないぞ、とでも言うように。
すると、それが巌勝に伝わったのか、彼は「参ったなあ」と、ちっとも参っていないような声で言った。
「お前と歩きたかったから」
「……なんで、夜?」
「………夜に、お前と…今度は俺がお前の手を引いて…」
巌勝は目を伏せて、囁く。
「ずっと実験してるんだよ。俺が何をしたらお前が昔みたいな……」
そこで少し言葉をつまらせ、やがてため息を付き「俺の想像するお前になるか」と続けた。
「兄さんの想像する俺って何?」
「……そうだなぁ。
俺のことを兄と……いっそ、哀れなぐらいに……俺を兄と呼ぶお前。
太陽の下にいるのが似合っていて…たまに俺のことを……抱きたいって目で見る。でも目が合うと逃げる」
健気だろ、と巌勝は笑った。
「俺は、兄さんの期待はずれ?」
縁壱は言った。すると巌勝は怒った顔をして「そんなわけあるか」と語気を強めた。
「俺はお前が……」
巌勝は続きを言わずにうなだれる。
「俺は兄さんのことが好きだよ」
縁壱は言った。
「何度だって言う。俺は兄さんのことが好き」
巌勝は返事をしない。
頬を刺す夜風は相変わらず冷たかった。