絵画13点、フレスコ画4点
とある美術館に展示された十三の絵画と四のフレスコ画。
前衛的なこれらの作品を生みだした男の名前は縁壱という。姓は不明だ。一世を風靡したこの男の消息もまた不明。記録に残っているのは数年前に仮釈放となったということだけだった。
縁壱は二人の男を殺害した罪で服役していた。その前にはいくつかのスケッチが残されているが、彼がどういった人物であったかについて知る者はいない。バーテンダーの頭を二つ、トマトのように潰した彼は刑務所で拘束衣をまとって死んだように生きていた。
転機が訪れたのは彼が刑務所で拘束衣をまとってから五年後のことだった。
刑務所の壁に飾られた彼の描いた絵に目をつけた男がいたのだ。脱税の罪で服役していた男だ。その男の名は産屋敷という。
美術商を営んでいた産屋敷はすぐさま看守に賄賂を贈り縁壱と面会した。大きな体を拘束衣に包みこみ体を縮こませる縁壱のことを、産屋敷は大きな熊のような男だと密かに思っていた。
「君が描いた絵を見たよ」
「そうか」
「あれは、何を描いたんだい?」
「……ひと」
「人?」
燃えさかる炎のようにも見えるその絵画を人を描いたのだという縁壱に、産屋敷は人好きのする笑みを浮かべる。
「一体、誰を描いたんだい?」
その問いに縁壱は頰を赤く染めて俯いてしまった。そして口を開いては閉じ、上目遣いに産屋敷を見て、ちらりと扉――扉についた小窓からこちらを覗く看守を見る。
「……まあ、いいさ。僕はね、君の絵を買いたいと思う」
このぐらいの金で、と産屋敷は紙にさらさらと金額を書き縁壱に見せる。
「君の絵は、売れるだろう。それだけの値打ちがある」
「そうなのか」
縁壱は興味なさげに返した。
「俺は金などいらない。だからこんな金など貰えない」
「それは困るな。君が金などいらないと言っても、君には絵を描き続けて貰いたいんだよ。そして私は君の絵の専属の美術商と言う訳だ」
産屋敷は言った。
「絵を描き続けたいと思わないかい」
「……ああ。絵は、描き続けたい」
「そうしたら金を受け取っておくれ。それで絵を描き続ければいいさ。モデルが必要なら用意するよ」
「モデルはいい。描きたいのはたったひとりだから」
縁壱はそう言って微笑んだ。そして拘束衣に包まれた身体をもぞもぞと動かす。
「ありがとう」
「いいのさ。君は絵を描いてくれさえすればいい」
そうしてその約束どおり出所した産屋敷は縁壱の専属の美術商となったのだった。
この抽象画であるが、誰の目にもヒトなんて写らないこの絵画は同じ人物が描かれていた。
そのモデルの名は巌勝。姓は継国といったが家を捨てたのでただの巌勝。この刑務所の看守をしている。
巌勝は裕福な家庭に育った。しかし家を捨てた。家を捨て、刑務所長の鬼舞辻に拾われ、看守となった。
彼には生き別れた双子の弟がいた。生れつき痣があり、ろうあ者と勘違いされていた弟。本当は才に溢れていた弟。母に愛され父に疎まれ、兄を慕う弟は、迷信深い父親が出ていけと行った日に出ていってしまった。
その弟こそが縁壱である。
縁壱は巌勝を愛していた。
己の兄として愛し、ひとりの人間として愛し、そして肉欲をぶつける相手として愛していた。幼い日の初恋は監獄の中で芽吹き拘束衣の下で育っていく。兄上、と小さい声で呼んだら戸惑ったような視線を寄越した巌勝。いつも不機嫌そうな顔をしている巌勝のあの視線は確かに兄であると認めていた。
そして縁壱が服役してから三年、巌勝と再会してから半年後、彼は巌勝を抱いた。夜の巡回をしていた巌勝を待ち伏せしてリネン室に連れ込んだのだ。
突然に抱き込まれ部屋に連れられ押し倒された巌勝は怒りに震えた。
「脱獄か。それとも私を人質にする気か」
「とんでもない」
「なら、なぜ」
縁壱の拘束衣を引き千切られていた。素手で男二人の頭を潰したという噂であったが、案外噂とも言い切れぬと巌勝は冷や汗を流す。
「あなたが……兄上が、あんな目で俺を見るから」
「…………」
「兄上が求愛するから」
「していない」
「していました」
「していない……力を緩めろ。腕を潰す気か」
「潰しません」
縁壱は巌勝の首筋に舌を這わせた。
「好きです。ずっと前から」
巌勝は何も答えず、目を逸らした。
さて、この巌勝であるが、彼は実のところ縁壱と同じかそれ以上に実の双子の兄弟のことを愛していた。同時に深く憎んでもいたので、己の感情にしばしば苦しめられていた。だから彼は看守をしている内は他の囚人に対するように徹底して不機嫌な顔をして心を鉄に閉ざすことにしたのだ。なけなしのプライドでキスの求めには断固として拒否を示し、抱かれている最中も人形にでもなったかのように振る舞うのだと決めていた。
しかしながら、目は口ほどに物を言うとは良く言ったものであり、彼は縁壱が言うようにほとんど求愛に近い視線を送っていた。おまけに、縁壱の手練手管により巌勝は甘美かつ苦い敗北を味わうことになったのだ。
つまり、弟に抱かれるのは非常に具合が良かったのである。次に抱かれるなら硬い床じゃなく柔らかいベッドがいいなどと思うほどに。
「兄上、次はベッドの上がいい。床は硬すぎて貴方の身体が心配だ」
縁壱が言った。
「勝手にしろ」
巌勝は返した。同じことを思ったことにほんの少し心を踊らせ、無理矢理に抱いたというのに次があることを当然と思っていることに腹を立てていた。
「それから……絵の具とキャンバスを」
「…絵の具と、キャンバス?」
「はい。……絵を描きたい」
こうして前衛的な絵画が一枚出来上がった。
これを買ったのが産屋敷で、塀の向こうでその絵は目玉が飛び出るような金額で取引された。産屋敷は律儀な男であったのでその対価に見合った金を縁壱に渡した。一方の縁壱は金に興味がなかったので、刑務所に預けていた。それに目をつけたのは刑務所長の鬼舞辻であった。鬼舞辻は巌勝を上手く使って縁壱が受け取る金を横領した。
ギシギシという安ベッドの悲鳴とぱんぱんという肉を打つ音とぐちゅぐちゅという水音と部下のあえぎ声に混ざって聞こえる
「お前の絵で受け取る金を寄付しないか?」
「構いません」
「沢山描いてくれるか?」
「貴方がモデルをしてくれるなら」
「それぐらい、構わないさ」
という会話を盗聴した鬼舞辻はすぐさま盗聴を切り静けさを取り戻した上でニンマリと笑ったというわけだ。
巌勝は縁壱の前で裸になり、ソファの上に座ってモデルをしている時にはいつだって縁壱を眺めていた。暇だったのだ。一度だけ、縁壱に許された自由時間(つまり絵を描く時間)が終わり、キャンバスを見せてもらったことがある。
「兄上を描いたのです」
と照れたように縁壱は言って、全裸のままの巌勝の肩に唇を落とした。巌勝の目には車に轢かれた猫の死骸があった道路に見えた。
巌勝には絵のことが解らない。絵のことは解らないが、縁壱がこの世に産み出したものだから、きっと良いものに違いないと思っていた。
自由時間が終わればさっさと制服に身を包み、次いで縁壱に拘束衣を着せる。自由を奪われた縁壱を連れて廊下を歩きながら、拘束衣のままヤるのも一興かと考えていた。
「これを着たまま貴方を抱いたら興奮するでしょうね」
縁壱が話しかけてきた。巌勝は黙秘を貫いた。
その晩は拘束衣を着せたままの縁壱を自分に与えられた休憩室に連れ込んだ。
このようにして縁壱は十三の絵画を世に送り出し、産屋敷と鬼舞辻は金を貯め、巌勝は縁壱を愛したり憎んだり愛されたりと忙しい日々を送っていた。それは約五年にも及んだ。
縁壱の最後の作品となったのはフレスコ画だ。これは刑務所の壁に描かれた。
産屋敷は壁に描かれては売れないだろうと落胆したが、彼はにっこり微笑んで、間違いなくこの作品は傑作だ、と縁壱を讃えた。
「もう、俺は絵を描きません」
縁壱は産屋敷に言った。産屋敷は驚かなかった。
縁壱はとても悲しそうな顔をして、フレスコ画をつまらなさそうに眺める巌勝を見ていた。
半年前、所長である鬼舞辻が贈賄罪に問われ雲隠れした。つまり巌勝がこの刑務所にいる意味がないのだ。巌勝は数日後に看守を辞めることを決めていた。
「失恋の痛みを絵にしてみないかい?」
「……酷いです」
「ふふ。冗談さ」
産屋敷の頭の中はどうしたら国の所有物であるこの刑務所の壁を引っ剥がして買い取ることができるのかの算段でいっぱいだった。
産屋敷がフレスコ画を見た三日後に巌勝は看守を辞めた。
その一ヶ月後、縁壱は仮釈放となり、行方をくらました。
その三年後、産屋敷はフレスコ画を壁ごと買い取った。
さらにその十年後、竈門という男が小さな美術館を建設し、縁壱の作品を展示している。
一世を風靡した縁壱の絵画は小高い丘の上にある小さな美術館で見ることができる。
人里離れた場所にあるその美術館の儲けのほとんどは館長である竈門一家の作るパンというのがもっぱらの噂である。