main(5000〜) NOVEL

憐れみ給え、祝福せよ


 朝日がのぼる。  
 鬼の血が砂となり線香の煙のようにゆらゆらと線を描きながら空に還ってゆく。巌勝はそれを目で追う。先ほどまで獣の顔で牙をむいていた鬼。かつての人間。その末路が砂となり空へ還るのだとすれば我々とそう変わらぬ。違いと言えば命の循環から外れていることだろうか。そんなことを思いながら朝焼けの空を見る。  
 そしてその燃えるような赤い空に黒い影を見つけ眉をひそめた。一羽の鴉だ。

 巌勝が腕を差し出せば鴉はひと鳴きしてふわりと降り立った。  
「巌勝殿。産屋敷邸へお越し下さい。当主がお呼びです」  
流暢に言葉を操る鴉――産屋敷家当主の伝令は言う。  
「―――すぐに向かおう」  
 身にまとわりつくような視線を振り払い巌勝は歩いた。  
 背にささる視線。憧憬と羨望と、それから嫉妬と好奇の視線。先程まで共に鬼を狩っていた仲間からの視線だ。  
 ああ、煩わしい。巌勝は目を細めて舌打ちをした。


 産屋敷は頻繁に巌勝を屋敷に呼ぶ。  
 それは巌勝が彼にとって暇つぶしとしての相手として丁度良く、また、彼一番のお気に入りである縁壱の兄だからだ。  
 屋敷に巌勝を呼ぶ時、その多くの場合で縁壱も屋敷に呼んでいる。それは縁壱に対する褒美ということである。


 それを知ったのは例の如く産屋敷に呼ばれた時のことだった。巌勝を出迎えた産屋敷の下人が言ったのだ。  
「縁壱さまはあなたのことをお慕いしておるのですよ」  
 その声色は、ねっとりとまとわりつくようなものだった。


 下人は言う。  
 そもそも巌勝は鳴り物入りで鬼狩りに加わった。  
 あの縁壱の双子の兄――それもどこぞの武家の元棟梁が家を捨てて鬼狩りとなるらしい。その兄とやらは弟の縁壱のように人間離れした強さの男であるのか。武家の棟梁というのであるからして、まさか高飛車な男ではないだろうか。家を捨てたというのはまさかワケアリということか。  
 剣士たちの噂は尽きることがなかったそうだ。

 それもそうだろう。あの縁壱の双子の兄なのだ。期待もするはずだ。巌勝は眉をひそめる。

「それで、お前は何が言いたいのだ」  
「あなたは縁壱さまに匹敵する才能をお持ちだった」  
「あれと比べてくれるな」  
苦虫を嚙み潰したような顔をする巌勝に、下人は「あなたは何も知らないんだ」と言った。

 巌勝は呼吸術をすぐに会得した。日の呼吸が向かぬと知れば派生の剣技を生み出した。それを巌勝は驚くべき速さでやってのけたのだ。他の者ならば何年もかけて為しえるか否か、という事を。  
 縁壱の日と対を為す月の剣をあやつる巌勝は他の凡庸な男たちの心を折るのに十分なほどであった。

 一方で巌勝は縁壱とは決定的に違う面も持ち合わせている。  
 縁壱は駆け引きを知らない男だ。人の善意を信じすぎるきらいがあり、政治にはむかない。  
 巌勝はというと、煩わしい駆け引きを好まぬ性格と思われたが、産まれと育ちが彼に人の悪意と《政治》の駆け引きを覚えさせたことがうかがえた。  
 加えて教養があり品がある。鬼狩りとなる者らは武家の出の者ばかりではない。ましてや棟梁をつとめていた者など滅多にいない。

 それ故に、巌勝は武家の流れをくむ煉獄と同様に重宝されたのだ。  
 鬼狩りに加わってすぐに柱と共に地図を広げて剣士の配置を議論をした。鬼狩りに協力する者らと《政治》をし、筆をとり文を送った。

 その姿を見て気取っている、と言う者もいた。住む世界が違うのだ、と気後れする者もいた。


「話が見えぬ」と巌勝は言う。  
下人は「つまりあなたは俺たちとは違う人間だったんですよ」と返した。  
「あなたと縁壱さまは、おれたちとはまるで違う。神さまみたいなお人だった」  
 それは縁壱だけだろう、と巌勝は心の中だけで毒づく。

「けれど、縁壱さまだけは違うんです。あなたのことを、慕っているんです。縁壱さまを通して、俺たちはあなたを一人の人間と思えたし、あなたを通して縁壱さまが人の子だと感じられた」  
「……」

 それは巌勝が鬼狩りに加わりしばらくして産屋敷邸で催されたささやかな宴の夜のことだったそうだ。  
 新月の夜――鬼狩りには向かぬ夜の宴。

 皆が酒に酔った頃、誰かが言った。  
「それにしても、巌勝どのはつれないお人ですなあ。風柱とともにすぐに帰ってしまった。風柱は所帯持ちで子煩悩だから、すぐに帰るのはいつものこととして、巌勝どのはもっと我々と親睦を深めるべきではないか」  
それに対して他の者も言った。  
「お上品なお方だから、おれたちと飲む酒などうまくないのだろう」  
「いくらお綺麗な顔をしているからと言っても俺たちは取って食ったりしねえって言ったのになあ」  
「お前、それを巌勝殿に言ったのか」  
「まあな」  
「怒ったんじゃあないか」  
「ひひひっ。普通の顔をしてたがな。おれは耳が真っ赤になっていたのは見逃さなかったぜ」  
どっと笑いが起きる。

 下卑た笑みを続け浮かべる剣士は、珍しく酔っているらしい縁壱に「縁壱どのは、兄上さまとは仲がよろしいので?」と聞いた。  
 それは好奇心からであろう。  
「何年も会っていなかったのでしょう? それでも兄弟と実感するんですかい? 他人と思うことはないのですか?」

 すると、珍しく酒に酔った縁壱は見たこともないような笑顔を浮かべて言った。  
「兄上は、おれの大事な人だ。  
 手の届く場所に…鬼の現れぬ……藤の下で……大事に、お守りする。…花嫁のように」  
 その言葉に水を打ったように静まり返る。  
「おれのたった一人の家族だ。兄上が鬼に襲われているのを見て…今度こそ、守らなくては、と。  
 ……それが叶って嬉しい」

 舌ったらずの縁壱の言葉に男たちは顔を見合わせた。  
 彼らは彼ら自身の家族を思い出したに違いない。鬼に食われた家族。故郷にいるはずのわが子。あるいは弟。友人。仲間。  
 誰しもが大切な人を失っている。だからこそ、縁壱の言葉が分かる。守るべき者がいるから鬼を狩る。類稀なる才能を持った彼もそうであるのだと知った。

「巌勝殿が鬼狩りに加勢し、縁壱殿はさぞ心強いでしょうな」  
 誰かが言った。他の者も頷いた。  
 ようやく守ることのできた家族。その大切な家族が共に戦い、己を助けてくれる。そんなことは滅多にない。  
「兄上はいつもおれを助けてくださっていた」  
縁壱はどことなく自慢げだった。

「縁壱さまにとって巌勝さまは天から与えられた贈り物のようなもの、というわけですな」  
下人――当時、岩柱のもとで剣をふるっていた年嵩の男は縁壱に笑いかけた。  
「――もしも、そうだとしたら、天は意地が悪い」  
「……え?」  
「兄上は……決しておれだけのものにはなってくださらないから…」  
しかしそこが美しい、と縁壱は微笑んだ。  
 男は夢見るような縁壱の瞳に魅入られた。  
「あなたさまは、巌勝さまを慕っているので?」  
その問いに、縁壱は照れたように俯くばかりであった。

 それを見たのは男だけだった。  
 少なくとも、男はそう思っていた。

 精霊のように――あるいは神に仕える者のような美しい剣技をあやつる縁壱。彼の密やかな恋ごころを知っているのはこの自分だけなのだ。仄かに赫い瞳を甘くとろけさせるその恋ごころはこの世の何よりも尊いに違いない。  
 そう夢想した。


「おれは考えたのです。なぜ縁壱さまのその恋ごころを知ったのがおれだったのか。  
 ――――考えて、考えて、分かりました」  
下人はずい、と巌勝に詰め寄る。  
「おれは縁壱さまの恋を叶えるために産まれてきたのです。そのために天はおれの故郷に鬼を襲わせ、おれを鬼狩りの道へと導いた。  
 そしておれの左腕を奪って、お館様の下人にしてくだすったんだ」

 どうぞ縁壱さまのものになってください。  
 下人はそう巌勝に向かって両手を合わせた。


「なんと哀れな」  
 巌勝は鼻で笑う。  
「お前の命を縁壱になすりつけるのか」  
下人ははっとしたような顔をして巌勝の顔をまじまじと見た。  
「お前は私を『神』への『供物』にすることが天命だとでも思っていると、そういうことか。馬鹿馬鹿しいな」  
それを聞いた下人は顔を真っ赤にさせて震える。  
「おれには分からない。縁壱さまから、あれ程の心を向けられてなお、それを受け入れないのか。縁壱さまを受け入れることを供物だなどと言うのか。あんたは冷たい人だ」

――ああ不愉快だ。不愉快極まりない。  
「どうとでも言うがいい」  
巌勝は吐き捨てた。

 不愉快だった。  
 この下人のように縁壱に心酔する者の中には己の運命と命の意味を彼に委ねる者がいる。巌勝からすればそれは縁壱に寄生しているに等しく、そのような有象無象には吐き気がするのだ。  
 加えて縁壱のこころを己だけが知っているとでも言うようなこの男の傲慢さ。まったく不愉快であった。ほとんど殺意にも近い感情が巌勝の腹にぐるぐると溜まる。  
「お前と話すべき言葉を私は持ちえない」  
巌勝は歩みを早めた。

 すると、産屋敷が待っているであろう指定された部屋へと向かう巌勝の背に男の「あんたは兄貴なんだろう?!」という悲鳴のような――責め立てるような声がぶつけられた。  
「どうして兄弟なのに、弟を受け入れてやれないんだ。弟があれだけ想っていたら、受け入れてやるのが兄貴ってもんだろう。兄貴は弟のことを慈しんでやるもんだ。一番に思ってやるもんだ。違うのか」

――あれ程の心を向けられることこそが苦痛だという事など、お前には分かるまい。  
――実の弟だからこそ、なお憎い。  
――実の弟だからこそ、なお。  
――実の弟だからこそ、愛しい弟であったから、なお。なおも――憎い。

「お前に何が分かる」  
巌勝は声を絞り出し、そして振り返らずに歩き続けた。背後の喚き声が煩わしかった。


 巌勝を待っていた産屋敷はいつものように人を安心させるような笑みを浮かべていた。  
 いつものように簡単な戦果の報告をしながら巌勝は思う。  
 何故、お館様はあの男を下人として屋敷に置いているのか。前線を離れた年嵩の剣士たちは多くの場合は鬼狩りを去る。故郷のある者は故郷へと。そうでないものは――どこかへと身を寄せているのだろう。鬼狩りを助ける商人を頼る者もいるという。育手として若い剣士に剣技を教える者もいるが、それは一握りの実力者だ。  
――よほどお館様の信頼を得ていたとでも言うのだろうか。あの男が?  
――考えにくい。ならば、何か……何かあの男を使った策でも?


「巌勝。彼を許してやっておくれ」  
巌勝が思考の海に沈んでいると、不意に産屋敷が言った。  
 どきりとした巌勝が彼の顔を見る。産屋敷は小首をかしげて「君たちの会話が聞こえていたんだ」と申し訳なさそうな声を出した。  
「彼はね、悪気はないんだよ。ただ、君たち兄弟に仲良くしてほしいと祈っているんだ」  
その言葉に巌勝はわずかに眉をひくりと動かしてしまう。それを見た産屋敷は困ったように笑った。

「彼にはね、弟がいたんだそうだ……ずいぶん前に死んでしまったらしい」  
「……鬼に?」  
「いいや。流行り病で。目の前で死んでいったと言っていた」  
とても仲が良かったそうだよ、という言葉に、巌勝は今度こそ眉をひそめて不快感をあらわにした。  
「恐れながら。我々には我々の兄弟の“形”というものがございます」  
「彼は弟を失っているからこそ、君たち兄弟に仲良くしてほしいと思っている。それだけは理解しておあげ」  
産屋敷は「君の言うことも、もちろん正しい」と加えた。

「彼はね、君に嫉妬しているんだよ」  
「嫉妬?」  
きょとんとしたような顔の巌勝。産屋敷は殊更に優しく、言い聞かせるように言う。  
「巌勝。君は、強い。縁壱に匹敵するほどの強さを持っている」  
そんなことはない、と言おうと開かれた口は産屋敷の人差し指により止められる。

「月の名を冠するに相応しいその冷たい気高さ。生まれついての支配者と思わせる。君にその気がなくとも君に傅く者――喜んで傅く者は少なくない」  
 詠うような産屋敷の声にめまいに近いものを感じる。ばかばかしいと思う反面、彼に言われるとその通りのような気がしてしまう。現実がとろけてぐちゃぐちゃになるような感覚。

 内容ではない。そう、声だ。声が惑わせる。  
 巌勝は耐えきれずに目をそらした。

「だからね、彼は君に嫉妬している。強く、美しい君に。そして君が縁壱に慕われていることに嫉妬している。……彼は縁壱のことを信仰しているから」  
「意味が、分かりません」  
「分からない? 目をそらしてはいけないよ」  
産屋敷は言った。

「もしも君が縁壱に守られる存在であるならば、彼は安心したのだろうね。それどころか君を守ろうとさえしただろう。縁壱が鬼狩りに出ている間、守るのは自分の役目だ、と。  
 しかし、君はそうではなかった。縁壱に匹敵するほどの力を得た。その才能は輝かしい。縁壱はそんな君を見て、ますます君への思慕を深めている。君は縁壱に追いつかんとますます君自身を磨き上げる。  
 そんな君達を見て、僕らは気付かされたのさ。  
 縁壱は君しかいらない。君だけが縁壱の特別なんだってね。

 皆のことを平等に大切に想ってくれているが、つまり君以外は有象無象だったんだよ。  
 ……彼は誰にだって優しいから勘違いしてしまうが、言い換えれば誰だって特別にはなれないということだから。君がいるからそれに気付いてしまった。  
 ねえ。巌勝。それは君だって分かっているのだろう?」

僕の目を見るんだ、と、産屋敷が言った。

「君もそうだ。君の特別は縁壱しかいない。  
 太陽と月は互いを追いかけ、昇り、沈む。  
 僕たちはそれを眺めるしかない。  
 そのことが……彼を嫉妬させる」 

かわいそうにねえ、と産屋敷は困ったように笑った。いや、嘲りだったのかもしれない。あるいは苛立ちか。

「僕は君が強い剣士で喜ばしいと思っているんだよ」  
産屋敷の視が巌勝の目を射抜く。その目の奥に宿る光は決して柔らかい光ではなかった。  
「“花嫁”に自分の身を守ることができる以上の強さがあるなら縁壱も安心だろうから」  
「…………は?」  
「君は縁壱が守らなければならないようなか弱い“花嫁”ではなかった。もしも君が呼吸術すらままならない剣士だったとしたら縁壱は気が気でなかっただろう。鬼狩りの任務を放棄したかもしれない」  
産屋敷は「でもね」と低い声を出した。

「僕は思うんだ。縁壱が鬼狩りをするには……守るべき花嫁が必要なんじゃないかって」  
ひゅ、と息を飲む音。息ができない。巌勝の肺が、喉が、呼吸の仕方を忘れてしまったようだった。  
「任務から帰還して、君がいる。君が待っている。それが縁壱にとってどれだけ心強いか。  
 他の剣士を見てもそうだが、護るべき者がいる男はとても強くなれるものだ。それが愛するひとならなおさら、ね。  
 君は家族を捨てているから解らないかもしれないけれどね。戦いから帰れば愛しい妻がいる。男にとってこれ以上ない幸せだと言うことは理解できるだろう?」

 巌勝には解らなかった。  
 己にとって戦は責務であり政治であり高めた剣技の成果を確認するだけだった。妻を守るのは同じく当主としての責務である。戦から帰って己を癒やすのは――ひとりになる時。すべてを忘れられる時間だけだった。  
 だが、縁壱は違う。そう、縁壱は人格者だから。誰かを守ることに喜びを覚えるのだろう。例えば母。例えば顔も知らぬ多くの無辜の民。そして――この兄である。

「縁壱には君が必要だ。花嫁のように守るべき者が」  
じっとりと汗が出る。  
「私に……何を、求めて……お館さまは、私に、なれ、とおっしゃるのか。その…縁壱の、」  
次の言葉を紡ぐことは出来なかった。その様子に産屋敷は満足げに笑う。  
「そろそろここに縁壱が来る。僕が呼んだんだ。  
 鬼との戦いで疲弊した弟を、ちゃあんと、労って、褒めてあげるんだよ?」

ねえ、縁壱の花嫁。

 唇がそう動くのを巌勝は茫洋と見た。  
 そこから先は霧がかかったようだった。現れた弟はいつものようにわずかばかりの微笑みを浮かべていたような気がする。ただ茶を飲んだり、庭を眺めるだけの時間。ぽつぽつとだけ言葉を交わす。いつも通り。だが、いつもと違う。  
 縁壱の視線――甘ったれた子供のような視線。頭に響く産屋敷の言葉たち。いつもなら無視を決め込むが、その日は産屋敷の言葉に導かれるように、手のひらを彼の頬に伸ばして撫でていた。瞬きを繰り返す縁壱。そして頬を染めて、両目をうるませて手のひらに頬を擦り寄せる。  
「わたしは幸せ者です」  
縁壱が言った。  
「兄上が待っていてくださる」  
そして微笑む。

 気味が悪かった。


 それからというもの、巌勝は産屋敷の鴉が己を呼ぶ時、腹の奥に少しずつ泥のようなものが溜まっていくのを感じる。褒美だと突きつけられる前は、それでもまだ兄弟であったのに。弟の視線に見て見ぬ振りが出来ていたのに。

 巌勝は昇りきった朝日を睨みつけ、重い足をなんとか産屋敷邸へと向かわせた。


 産屋敷邸に到着すると例の下人が舐め回すような視線をよこす。無礼者。そう言ってやりたいのを堪らえて当主のもとへと向かった。  
 産屋敷はいつも通り巌勝を迎え、巌勝も儀礼的に戦果の報告をする。いつもと違うのは産屋敷が茶を点てていたことだろうか。  
「巌勝は、茶は?」  
「嗜みとして。しかし、お見せ出来るほどではありません」  
「そう……今は茶の道に通じている方が信頼を得ることが出来るのだけれど」  
巌勝に向き直り、産屋敷は言った。  
「巌勝はなんでも卒なくこなすから、僕も頼もしいよ」  
居心地の悪さに巌勝は頭を垂れた。  
「先日助けた商人が茶器の収集にご執心なお方でね。随分感謝してくれて、援助もいとわないそうだ」  
「……西の方の者ですか」  
「いいや。しかし、彼の母親の実家は西の名のある商人の家でね」  
「それは力強いご縁ですね」  
「人の優しさを感じるだろう」

 産屋敷は「しかしね」と苦笑を浮かべる。  
「少しばかり気難しいお方で……彼を助けたのは縁壱だったのだけど」  
思わず眉をひそめる。農民として過ごすことの長かった縁壱と商人。相性は良くないだろう。かと言って己のような武家の人間との相性も良いとは言い難いが。  
「縁壱が茶室にもてなされてね。こういった場には慣れていないだろうから、煉獄をつけさせたんだ」  
「茶室……ですか」  
思わず繰り返す。  
「そう。そうしたら、縁壱が中に入るなり固まってしまったそうなんだ。話すこともせず、石のようになったらしい。煉獄がなんとかその場をおさめたそうだけど、怒らせてしまったそうで……。だから君を呼んだんだ」  
「茶の……作法、を、縁壱に…仕込みます」  
 巌勝は言いながらも心臓が早鐘を打つのを抑えられなかった。

 茶室。縁壱。  
 三畳の間はもともと茶室として作られた。作ったはいいが茶の道は性に合わなかったらしく先代の浪費と配下の者からは陰口を叩かれていたのを知っている。その後、縁壱の部屋として使われ、失踪した後は物置きとして使われていた。  
――茶室に呼ばれて、そして、そこで動かなくなった縁壱。ああ、きっと、動かなくなったのではない。動けなくなったのだ。  
 それは確信に近いものだった。  
――ああ、ああ。縁壱。お前はあの場所を。あの場所での日々を。お前にとって、あの場所は――!

「いいや。違う。縁壱は茶を覚える必要はない。彼の相手は君の役目にするから」  
「……え?」  
「そうではなく、僕は心配なんだよ。縁壱が。きっと彼は助けを必要としている。  
 家族からの……愛しい人からの助けが」

 はっとなる。聞いてはいけない。彼の声を、これ以上。  
 巌勝は両手で耳を塞ぐ――いや、塞ごうとした。  
「だめだよ。巌勝。僕の声を聞くんだ」  
しかし、手首を掴まれ言葉を流し込まれた。  
「あ、」  
「うん。いい子……僕の言うことをちゃんと、聞くんだ。いいね?」  
コクリと頷く巌勝に産屋敷は「いい子だ」と囁き、両手を降ろさせる。

「巌勝。縁壱がここにいるから、君は鬼狩りをしている。  
 ……ああ、責めているのではない。むしろ、感謝しているのだよ。縁壱も、君がここにいるから鬼狩りを続けているようなものだから」

 巌勝の手首は産屋敷に掴まれたままだった。スルリと彼の細く白い指が手首を這う。まるで、白い蛇のようだ。そう思った。  
「ねえ…僕は君たちが生家でどのように過ごしていたかは知らない。けれどね、縁壱を見ていると、思うことがある。きっと、巌勝がいたから、縁壱は生きることが出来ていたのだろうって。  
 でなければ、あの境遇で、君を慕うことは難しいだろう?」  
 巌勝は目を見開いた。知っている。この男は。だが、どこまで?

「僕はあまり外には出られないけれど、その分、ありがたいことに協力してくれる人が大勢いる。君も知っているだろう。中には噂好きな者もいるからね。  
 縁壱の境遇は聞いているよ。  
 ……きっと君が縁壱を守っていたのだね。やはり君は優しく、縁壱の理想の兄さんだ」  
恍惚とも言える産屋敷の声。深く思い出したくもない怨毒が生まれたその時のことを思い出す。

「しかし……妻子を失った縁壱は再び君を得て、非常に……不安定だ」  
「不安定、ですか」  
「ああ」  
指が手の甲を舐め回し、指と指の股に入り込む。蛇に囚われているような、そんな心地。  
「時に君に置いていかれることを恐れ、時に君の強さに安堵し、また、時に己の預かり知らぬところで兄を取られてしまうのではないかと悋気に震える」  
産屋敷はふう、と息を吐く。心配そうな、憂い顔だった。  
 そして上目遣いに巌勝の目を射抜く。

「未だ縁壱は過去の孤独に震えている。過去の幽霊に怯えているようなものだ」  
巌勝の心臓にちくりと棘が刺さる――いや、過去に刺さった棘が痛みだす。  
「それを癒せるのは君だけだよ」  
「ぁ……」  
「君は縁壱の兄さんで、縁壱を孤独にしない。そして縁壱の帰りを待っていてくれる、大切に守るべき、縁壱の”花嫁”だ」

 産屋敷は言った。  
「気付いていないとは言わせない。君は縁壱のあの視線――狂おしく君を求める視線から目をそらしている。  
 ね。分かるだろう? 君が縁壱のために何ができるのか」

 巌勝、と名を呼ばれた。  
 拒否するという選択肢が奪われた。  
 言葉が巌勝を縛る。  
 非力な産屋敷の、唯一にして最大の武器。

 目の前に茶が差しだされる。  
「これには眠り薬が入っている。君が眠る頃に、縁壱が来るよう手はずを整えている」  
巌勝は手の中の茶器を覗く。捌かれる前の魚のような己の顔が写っていた。

「これを飲まなくても良い。逃げてもいい」  
あ、と口から声が出る。  
「わたし、は…縁壱に……。いえ…縁壱は、私のこと、を……」  
――――縁壱は私のことを抱きたいのでしょうか。抱くつもりなのでしょうか。本当に?

 言葉として紡ぐことができない。言葉にしてしまって、産屋敷に肯定されるのが恐ろしい。  
 産屋敷が言葉にしてしまえば、きっとそうなる。縛られる。

「そうだよ。君が思っている通りだ」  
びくりと肩が跳ねた。それを見た産屋敷は「大丈夫だよ」と幼い子をあよすように、優しく、甘やかに口にする。  
「君が選べばいい。選んでもいいんだ」

 さあ、巌勝。君はどうする?

――嘘つき。私には選択肢など用意されていないのだ。  
 巌勝は一息に茶を飲み干した。  
――ああ、違うか。俺は一つだけ、選んだことがある。

 まぶたの裏に浮かぶのは、こちらを見る、太陽の如き男、弟の姿だった。


***


 気が乗らない。  
 縁壱は憂鬱だった。産屋敷からとある屋敷の茶室に向かうように命じられていたからだ。

 憂鬱を払うように鬼を斬り、夜の森に静けさが戻る。縁壱が空を見上げると満月が煌々と輝いていた。つたかずらを照らす月を見ると兄を思い出す。憂鬱な気持ちが少しだけ晴れる。

 縁壱の憂鬱の原因は向かう先が茶室であるということだ。彼自身、理由が分かっていなかったのだが、その場所は体が拒絶するのだ。

 茶室に招かれたのは初めてではなく、以前もとある男に屋敷に招かれ茶室へと通された。  
 屋敷の主は縁壱に助けられたのだという。あまり彼のことを覚えていなかったのだが、ふくふくと太ったその男は縁壱を見て両手を合わせて拝むような仕草をしてみせた。  
 時々こうして縁壱をまるで神仏か何かのように勘違いしている者がいる。その度に縁壱は腹の奥がズンと重くなる。まるで縁壱という男が別の人間となってそこらを歩いているような感覚。俺は果たして誰であったろうか。

 こんな時はいつも兄に会いたくなる。  
 巌勝はいつも兄でいてくれた。弟扱いをする巌勝の側にいると己が誰であったか思い出すのだ。  
 そんなことを思っていたら、男が縁壱に「あの、縁壱さま?」と声をかけてきた。その目には戸惑いと、あまり好意的ではない色。しまった。俺は何か失敗してしまっただろうか、と縁壱は俯く。  
 この目で見られることはよくあることだった。たいていはおそらく縁壱が何かをしてしまった時。その何かが何であるかは解らないのだが。多くの場合、兄か、煉獄か、あるいは他の者が助け舟を出してくれる。そして後に「俺は何かしてしまったのでしょうか」と聞いても「縁壱はそういう男だから」と笑って「そのままでいろ」と言われてしまう。

「お疲れのご様子ですな。さぁ、参りましょう」  
男が気を取り直したように言う。  
「申し訳ない」  
縁壱は一言、詫びを入れてから男に付いていった。

 そして連れられたのは狭い部屋だった。  
 三畳のほどの、狭い部屋。茶室、と呼ばれる場所。

 ドクン、と心臓が跳ねる。制御が出来ない。その場に立ち尽くしていると共にいた煉獄が心配そうに覗き込む。駄目だ。足を動かして、中に入らなければ。縁壱は意を決してにじり口を見た。まるで怪物が口を開いているようだった。

 そこから先はあまり覚えていない。  
 ぼんやりと覚えているのは、ひどい緊張と孤独感、それから叫びたくなるほどの渇望。ここにいる時に助けてくれる存在――兄を求めた。同時に目の前の男が笑顔のまま顔色を赤くさせている。顔面の引きつり。怒っている。

――ああ。ああ。兄上。助けてください。あなたは言った。いつでも助けに来てくださる、と。

 屋敷を後にして、それぞれの住まいに帰るその道すがら、縁壱は煉獄に謝った。己のしくじりで彼を怒らせたばかりか煉獄にも迷惑をかけた、と。  
 煉獄は言った。気にすることはない、きっと縁壱殿にも事情があったのだろう、お館様も分かってくださる、あとのことは任せなさい、と。  
「申し訳ない」  
「あまり謝らないでくれ。私達は友だろう」  
 本当に、己には身に余る友だ、と縁壱はそう思った。


 それから幾日か過ぎ、とある屋敷に行くように、と産屋敷の鴉が縁壱に伝えた。そしてその屋敷の茶室で待っている、とも。  
 気が乗らない。でも、お館さまの命だ。  
 縁壱は昇る朝日に救いを求めながら、指定されたその場所へと重い足を運ばせた。


 屋敷に到着した縁壱を迎えたのは産屋敷家の下人だった。確か、この男は剣士だった男だ。何度か話したことがある。下人は嬉しそうに――やや興奮気味に縁壱を迎え、茶室へと通す。

 茶室のにじり口を開けると、やはりぽっかりと怪物が口を開けたようだった。大きく息を吸い、中に入る。  
 そして、狭い三畳ほどの茶室の中。産屋敷が「待っていたよ」と微笑むのを見て縁壱は目を見開いた。産屋敷の膝に頭をのせるようにして、兄が横たわり眠っていたからだ。

「あの……これは……?」  
縁壱はにじり寄って巌勝の顔を覗き込む。けぶる睫毛に囲われた瞳は閉じられたまま。  
「巌勝はこうして眠っていると幼い顔をしているのだね」  
縁壱はむっとして巌勝の頬をつつく。その顔を見ることができるのは己だけの特権だと思っていた。

「今日はご褒美をあげようと思ってね」  
「ご褒美?」  
「そうだよ。いつも頑張ってくれている縁壱への、僕からのご褒美。  
今から明日の夜まで、ここで二人で過ごすといい」  
縁壱はぱちぱちと瞬きを繰り返した。  
「どういうことでしょうか……それに、兄上はどうして眠ってしまっているのでしょう。お体の具合に問題はないようですが」

産屋敷は縁壱の問いには答えずに「巌勝は不思議な子だね」と言った。  
「他の剣士たち――僕の子どもたちと馴染めるか、最初は心配していたのだけど。全く心配はなかったようだ。彼は強く、優秀な剣士だ。  
 他の者を寄せ付けない冷たさ。しかし、その冷たい輝きは人を惹き付ける」

 産屋敷の指が目元にかかった巌勝の髪を払い、そのまま頬をなぞってゆく。白魚のような彼の指が、つつ、と滑り唇をつつく。  
 巌勝の、ほんの少しだけ開けられた口元。唇は渇いている。そこを産屋敷の指がこじ開ける。赤い舌がのぞく。縁壱はその赤に心臓を跳ねさせた。  
 産屋敷を見ると彼はとてもやさしい顔をしていた。まるで慈しむような顔で、口の中に指を挿れてかき混ぜている。  
「おや……。ふふ。今ね、赤ん坊のように指を吸われてしまったよ。巌勝もこうして眠っていると、いつもの姿が嘘みたいだね」  
「っ、おやめください」  
縁壱は思わず声をあげる。しかし産屋敷は笑みを崩さないまま「手を貸してごらん」と縁壱に命じる。

 産屋敷の声は不思議だった。抗いがたい何かがある。縁壱は何かに操られるように手を差し出した。そして産屋敷はその手をつかみ、指を二本、巌勝の咥内に挿れさせる。  
 温かい咥内を、産屋敷の指に導かれるように蹂躙する。縁壱の口の中に唾液がたまった。巌勝は苦しそうに眉をひそめ、舌で押し返そうとする。そのやわらかい舌を産屋敷は器用に縁壱の指と挟みもてあそんだ。巌勝の口の端からは唾液がこぼれていく。  
 指が口蓋をかすめた。その瞬間、巌勝が「ん」とむずがるような声をあげ、指が吸われる。指を包み込む粘膜にぎゅうと圧迫される感覚、舌のうごめきに目の前が赤くなった。


 気が付くと、縁壱は横たわる巌勝に馬乗りになって咥内を蹂躙していた。小さな口に節くれだった指を三本も咥えさせられ苦しそうに眉をゆがませている。目じりには涙を浮かべ、頬を赤らめ、口元を唾液でべとべとにさせて。まるで乱暴させられているみたいだ。しかしその目が開かれることはない。  
 巌勝の頬に、ぽたり、水が滴る。  
 己の口から唾液が糸をひいて垂れていた。まるで獣のようだと、どこか他人事のように思った。いや、間違いではない。確かにおれはこのひとを蹂躙せんとする獣である。

「いいんだよ」  
産屋敷が言った。  
「なにが……でしょうか」  
「巌勝はすべて承知してくれた」  
は、と縁壱の口から問いとも吐息ともいえぬ音が漏れる。その様子に産屋敷は笑みを深くさせた。  
「いいんだよ。巌勝はね、自分が縁壱のものになることをゆるしていた。  
 いいかい、縁壱。それはつまり彼が縁壱を求めているという事と同じなんだ」  
産屋敷の言葉が縁壱の鼓膜から脳を揺さぶる。  
「巌勝は、君を求めている。君に求められることを望んでいる。では、縁壱。君はどうする?」  
「おれ、は……」  
後頭部に産屋敷の手が伸ばされ髪が解かれた。己の髪が巌勝を囲うように重力に従って垂れ下がる。  
「君は、ゆるされている。手を伸ばしていい。だって巌勝は今、君だけのものだから」  
そう言って産屋敷は部屋を出て行った。

 残された縁壱は巌勝を見つめ、やがてうやうやしくその唇に接吻をした。

 兄が求めている。このおれを。

 天にものぼる気持ちだった。


***


 目が覚めた巌勝の視界に入ったのは見覚えのない狭い天井だ。寝ぼけていた脳が覚醒する。  
 三畳ほどの部屋に襦袢姿で眠っている。隣を見れば案の定、縁壱も襦袢姿で眠っているではないか。  
 背中から冷や汗が流れて止まらない。覚えているのは、産屋敷に求められ眠り薬の入った茶を飲んだこと。その後、花を生けろと言われ乞われるがまま花を生け――そこで記憶が途切れている。おそらく気絶するように眠りについたのだろう。  
 眠る己を産屋敷は襦袢姿にしてこの茶室に運ばせた。そして、縁壱を呼んだ。

 縁壱と産屋敷の間でどのようなやり取りがなされたのか、そして己が起きるまでの間、何があったのか、想像するだけで冷や汗が止まらない。  
 巌勝は目を瞑り、大きく息を吸った。生暖かい空気が肺一杯に広がり、不快感だけが残った。  
「……縁壱。起きなさい」  
目を開け、巌勝は縁壱を起こす。  
「ん……、あ…」  
「寝入ってしまっていたのか。疲れていたのだな」  
「お恥ずかしいところをお見せしました」  
 縁壱は少し気まずそうな顔で起きてポリポリと頬を掻く。  
 平生とあまり変わらないやり取り。  
 そうだ。このまま何事もなかったかのようにそれぞれの屋敷に戻るのだ。  
 巌勝はそう決めた。

 しかし、それはすぐに崩れ去る。  
「この、三畳の部屋……」  
縁壱は甘えるように巌勝に抱き着き囁いたのだ。  
「最初は恐ろしかったのです。ここにいたくなかった。息の仕方を忘れて、心臓が言うことを聞かなくて……」  
思わず巌勝は縁壱の頭に手を伸ばし、手入れのされていない髪を手で梳き甘やかした。  
 その感触に縁壱は、ほう、とため息を漏らしてすり寄る。

 そして言った。  
「兄上とこうしていると、忘れられる気がする。もう、恐ろしくありませぬ。あなたがこうしておれを側においてくださるから」  
その言葉に巌勝の全身の毛が逆立ち心臓が早鐘を打った。かつての罪を責め立てられているような――本来ならば己こそが三畳の部屋にいるべきであったのだと思い知らされているかのような心地だ。  
 しかし、無論、縁壱はそのようなことを思うはずもない。この弟は忌々しいことに兄のことを慕っているのだから。  
「ああ……あの時だって、兄上が来てくださっていたから。兄上がおれの手を握ったその温かさがあるのに、どうして孤独を感じるのでしょう」  
吐息交じりの縁壱の声の甘やかさは断罪の声だった。

 かぷりと鎖骨が食まれ、息をのむ。縁壱は巌勝の襦袢をはだけさせ安心仕切った顔で微笑みかける。  
「恐ろしいのは、あなたがいない三畳の部屋。そこは孤独だから。けれど――」  
両手が巌勝の体を這う。巌勝は動けない。  
「けれどお館さまがおれに教えてくれました。兄上が、おれの孤独を取り払ってくれると。ですから、ここに来てくださったのでしょう?」

 身体が引き寄せられる。  
「うつしい」  
縁壱はうっとりと息をついた。  
 胸の飾りを舌で弄ばれる。巌勝が身をよじってて逃げようとしたら、がり、ときつく噛まれた。目の裏にチカチカと火花が散る。  
「鼓動が早い……緊張しておられる」  
違う。恐ろしいのだ。これから起こることが。ああ、なぜ、眠っている間にすべてを終わらせてくれなかったのだろう。

 しかし、それを縁壱に悟られることは、もっと恐ろしい。  
 だから巌勝は縁壱の胸に震える手を当てて言った。  
「お前も、緊張しているじゃないか」  
それは巌勝のなけなしの矜持であった。  
 それを聞いた縁壱は頬を赤く染め、そして「ええ。だって、とても嬉しいから。ずっと――ずっと、ずっと、こうなりたかった」と言って夢見るようなとろけた瞳で巌勝を射抜いた。  
「眠るあなたではなく、あなたの声が聞きたい。瞳を見たい。おれを感じて、聞いて、触れてほしい」  
 その瞳は、巌勝の背筋を凍らせるのに十分すぎるほどであった。

 縁壱に抱きしめられる。ひとつにさせるように、密着させられる。  
 いっそ、ひとつになってしまったら、こんな恐ろしさはなかったのに。そんなことを思った。

「口付けをしてもいいですか?」と縁壱が問う。  
「それで、私とお前をひとつにしてくれるのなら」と巌勝は言う。

 縁壱は、可愛らしい人、と笑った。