Dear MY Brother
姉が結婚をすることになった。
相手は父親が見繕った男だそうだ。父は強権的な男であったから、縁壱は父の選んだ男が姉を幸せにしてくれるのか甚だ疑問であった。もしも姉を泣かせるようなことがあれば、姉を連れて姉弟ふたりで逃げてしまおうとさえ思っていた。
姉はとても優しい素敵な女性だった。
双子だがあまり似ていない。亡き母のような、人形のようなおっとりとした女性。自分が助けてやらねばと思わせるような、どこか作り物めいた女性であった。
「姉さんは、どんな人と結婚したい?」
縁壱が問うと姉は「私を不幸にしない人」と言った。それから、笑って「縁壱が好きだと言ってくれる人なら、姉さんも結婚して良かったって思えるわ」と言った。縁壱は顔を赤くして俯いた。姉とその男は既に婚約していたからだ。
姉がその男と見合いをしてからトントン拍子に事は進んでいた。もとより婚姻は決められたものであったに違いない。縁壱にとって救いであったのは姉がその男を憎からず思っていることだろうか。
そうして河津桜が満開を迎える頃、縁壱も姉の婚約者と顔合わせをすることになった。婚約者は婿となり姉夫婦は共に暮らすことが決まっていたからだ。
「一緒に暮らす人と一度会わなきゃ駄目よ」
もっとも縁壱は姉がそう言わなかったら会う気などなかったが。
場所は某ホテルのレストラン。
「無礼はするなよ」
会場に向かうタクシーの中で父は言った。ムッとして口をへの字にする縁壱に、父は苛ついたように舌打ちをして「お前の大好きな『お姉さま』に恥をかかせたくなければ行儀よくしていろ」と釘を刺す。
「……姉さんに迷惑はかけない」
渋々言うと、父はため息をついた。
「お前がいくら彼を嫌っても、お前には家にいてもらう。無礼の無いよう、実の兄だと思って礼節を尽くせ」
父が縁壱のことを疎ましく思っていることは明らかであったが、亡き妻が死に際に言った『どうか家族は仲良く、共にいて』という言葉により追い出すことはしなかった。
本当は縁壱だって、父と反目し合うことも、反目し合ったまま共に暮らし続けることも望んではいない。ただひとえに母がそう願ったから同じ屋根の下に暮らしている。ただそれだけ。
縁壱は眉を顰め、そして「姉さんが幸せなら、それでいい」と自分に言い聞かせた。今の姉さんは幸せそうだから、きっとこれでいい。そう何度も心のなかで呟いた。
ホテルにつくと、姉が「いらしたわ」と弾んだ声を出した。嬉しそうな声。縁壱は姉の視線を追う。
こちらに背を向けている紺色のスーツの青年。側に立っている男――彼の父親だろうか――はこちらに気がつくと柔和な笑みを浮かべ青年に何事か言う。
青年はくるりと振り返って縁壱らを見た。そして目を見開いて、驚きを顕にする。まるで幽霊でも見たかのような顔だ。
「彼よ。彼が、巌勝さん」
「みち……かつ?」
縁壱は呆然としたように聞き返す。
彼もまた、青年――巌勝同様に幽霊でも見たかのような顔をしていた。
「ちょっと縁壱。ぼうっとしないで。何度も名前聞いていたでしょう?」
姉は心配そうに縁壱の顔を覗き込み、言う。
「時透巌勝さん。私の婚約者で、縁壱のお義兄さんになる人……とっても、素敵な人よ」
くらり。
目眩がした。
それは足元から崩れ落ちるかのような感覚だ。たとえるなら縁壱の身体中に絡まっていた無数の糸、両手で握っていた筈の糸がスルリとほどけていくかのような感覚。この世界に産まれ落ちた時から繋がっていた筈の糸が消え去る感覚。
そして全ての糸から解放されていく中で、たった一本の糸だけが縁壱の手の中に現れた。見たこともないその糸。
それを辿った先にいるのはこちらを見ている青年。
先程会ったばかりの青年。
姉の婚約者。
時透巌勝と呼ばれた青年。
たった今思い出した、前世の兄。
縁壱の手の中にあるその糸は赤く、赤く、鮮血のように赤く、縁壱と巌勝を繋いでいる。
これこそが『運命』と呼ばれるものであると縁壱は確信した。
顔合わせの食事会は恙無く終わった。
縁壱はあの後で自分がどうやってレストランまで行ったのか、何を食べたのか、何を話して何を話されたのか。何も覚えていない。一日ゆめうつつの中にいた。
覚えているのは巌勝の声。目線。笑顔。箸をあやつり食べ物を口に運ぶ仕草。小さな口を開いた時に見えた舌。咀嚼し、嚥下していた。縁壱の父を見て笑みを浮かべる口もと。けぶるような睫毛の震え。
その日の夜、寝る前にベッドの上で事細かに思い出せば笑みが溢れる。
――ああ、ああ! おれの目の前にいたのは、あの兄上に違いない!
縁壱の心は震えていた。巌勝を見て全てを思い出したのだ。かつて彼ら兄弟に何が起こったのか。そして縁壱自身の歩んだ人生は如何なるものであったか。
巌勝の瞳の中に、己と同じ過去の光を宿していないかを探っていた。
しかし、巌勝は縁壱となかなか目を合わせようとしなかった。
――きっと兄上は戸惑っておられるのだ。
縁壱は思った。
――あの驚いたようなお顔はおれと同じであの瞬間に全てを思い出されたに違いない。しかし兄上は優しく、自分に厳しいお人だ。鬼となり人を食らった記憶を思い出されて……あのように殺し合ったおれと再会して、戸惑うに決まっている。
――ああ、しかし。
――しかし、なんたる僥倖だろうか!
――再び兄上とおれは『兄弟』になる。ひとつ屋根の下……。うれしい、うれしい、うれしい!
ほう、と熱い吐息をもらす。
思い出されるのは、蜜月のような共に鬼を狩っていたころの記憶。
離れていた時間を取り戻すように、一つの個体になるように、体温を分かち合うように、濃密に、頻繁に、身体を重ねた。言葉はいらなかった。引き寄せられるように、それがあるべき姿かのように、二人は身体を重ねた。
きっと今度もそうなる。
それは確信に近い願望であった。
目を瞑ると巌勝の姿が浮かぶ。
お前がほしい、おくれ、おくれ、と泣いてよがって懇願する姿。兄さんの全てをお前にやろう、と妖しく誘う姿。おれしか知らない夜の姿。
思い出すだけで身体に熱がこもる。縁壱はうっとりと下半身に手をのばした。
次の日、縁壱は姉に言った。
「姉さん、巌勝さんはとても良い人だ」
すると、はにかみながら姉は言う。
「巌勝さんはね、私達と同い年なのだけど、お兄さんみたいでしょう」
「うん」
「幼い頃にご両親を事故で亡くしてしまったのだそうよ。それからは叔父様のところに身を寄せていたそうなのだけど……叔父様には双子のご子息がいらして。だからお兄さんのようなのね」
「……姉さんが結婚したらおれが『正式』な『弟』になるわけだ」
姉は、まあ、と顔を赤らめた。
「巌勝さんのLINEを教えてくれるか? もう一度会いたいんだ」
「ええ。巌勝さんにもあなたのLINEを教えておくわ」
でも、と姉は笑う。
「縁壱は最初、巌勝さんのことこころよく思っていなかったでしょう? だから嬉しい」
「おれ、巌勝さんが好きだよ。早くあの人の『弟』になりたい。きっととても仲の良い兄弟になれると思うんだ」
「巌勝さんもきっと縁壱のことが好きになるわ」
姉の言葉に縁壱は蕩けるような笑みを浮かべる。
――ええ。そうなるでしょう。だって兄上はおれの、おれだけの兄上だ。そして、おれをいちばん愛してくださる。
――早く。早く貴方の弟になりたい。
――そうしたら。また抱きしめて。撫でて。甘やかして。叱って。
――そして、愛してくださいますよね?
「結婚式が楽しみだ」
縁壱は心からそう思った。