芳
兄から甘い香りがすると気付いたのは、兄が痣を発現させてからの事だった。
甘い、甘い、香り。
熟れた果実のような香り。
今を逃したら食べごろを逃してしまうという焦燥感を焚きつけるような香り。
香を焚いているのかと思い訊いてみると、眉を顰めて否と返された。では、桃でも食べたのかと訊けば、桃を食べたとて身体から桃の香りがするわけないだろうと他の者に笑われた。では、この香りは兄そのものの香りということだろうか。
決して嫌な香りではない。むしろずっと嗅いでいたいとさえ思う。酒に酔ったことなどないが、きっと酩酊するとはこの事に違いない。縁壱はそう思った。
その話を聞いて難しい顔を作ってみせたのは煉獄だ。
煉獄は言った。
「縁壱殿は【陰】と【陽】と呼ばれる者らのことは知っておるかな」
「イントヨウ?」
首を傾げる縁壱に煉獄は「やはり知らぬのですな」と言って声を潜める。
「我々ひとには【陰】と【陽】がある。この者らは非常に数が少ない。【陰】は子を孕むことに秀でた者らのこと。そして【陽】は【陰】のために作られた【陰】を孕ませるための者らのこと。彼ら【陽】は【陰】に選ばれるため――孕むのに相応しい種を持つ、秀でた者と言われている」
「……はあ」
縁壱はまるで馬の話でもしているようだと思った。鬼狩りは馬を使わぬが、そのような話で花を咲かせていた者たち――兄と煉獄、それから産屋敷を思い出す。
「【陰】には発情期というものがあり【陽】を誘う香りを放つ。【陽】がそれに抗うことは困難であるとか」
煉獄は不意に口をつぐみ、不安げにきょろきょろとあたりを見回した。
「あまりこのようなことを口にするのもはばかられるが……もしやすると、巌勝殿は【陽】であられるのではないか? ――そして、縁壱殿。あなたも」
「なぜその事がはばかられるのだ」
縁壱が問うと煉獄はバツが悪そうな顔をした。そして言いにくそうにしながらも口を開く。
「巌勝殿から香る甘い香り、というのは【陰】が放つものであろう。我々には感じ取れぬ。そうであるのならば、おそらく巌勝殿は【陽】であり、思いを通わせた【陰】がいるのだろう」
「兄上が【陽】であるなら、【陰】の香りがするのはおかしい」
「っ……つまり、あなたが嗅いだという巌勝殿の香りは【陰】との逢瀬で移った香り、ということだ」
煉獄は「これ以上は私の口から言わせてくれるなよ」と釘を刺す。
「他人の色事に口出しをしたり詮索したりするのははしたない。それに縁壱殿が【陽】であるのなら……くれぐれも、兄弟で【陰】の取り合いなどということにならぬように」
血を見るのはごめんだ、と煉獄は付け足した。
雌の取り合いで雄が戦う。なるほど。よくあることかもしれぬ。
縁壱は、ふむ、と頷いた。しかしながら、兄が発情期の馬のように雌を孕ませようとするなど想像もつかない。それどころかドロリとした不快感と言いようのない焦燥感を覚えた。
縁壱はきゅ、と唇を引き結んで不快感をやり過ごす。
鼻にはまだ熟れた桃の香りが残っていた。
芳しいのに、兄を誘惑する雌の匂いだと思うと、叫びたくなるような身を引き裂かれるような思いがした。
***
数ヶ月後、湯治に出るという産屋敷の護衛に巌勝、縁壱兄弟二人が選ばれた。それは二月ほどの旅路になる予定であった。
その道中、縁壱は気が狂いそうだった。
兄が側にいると漂う鼻孔をくすぐる香りに胸がざわつく。
兄から香る桃の香り。酩酊するような芳しい香り。人を狂わせる香り。しかし、兄を狂わす雌がいるのだという不愉快な証。それを四六時中嗅がされたのだ。
夢に見るのは兄が雌――女か、あるいは男、どちらにせよ己ではない誰かをうっとりと見つめ優しく微笑み口を吸い、そして獣のように腰を振り求められるがまま胤を与える。
なんという悪夢だろうか!
縁壱は悪夢を見るのが恐ろしく、眠ることをやめた。そうすれば夢を見なくて済むから。
しかしながら、それを心配したのは巌勝だ。
体調が優れぬのか、なぜ眠らないのか、と顔を近づけ覗き込む。―――桃の香りがむわりと縁壱を襲う。
芳しい。いや、臭い。堪らない。消し去りたい。もっと欲しい。不愉快だ。
ぐるぐると相反する思いの渦に、縁壱はどうすればよいのかも分からず、ただ貝のように押し黙るほかなかった。
一方、困り果てたのは巌勝だ。
何を聞いても能面のような顔で、眠りたくないのです、の一点張り。見るからに食欲不振で夜は一睡もしない。倒れてしまうのではないかという弟への心配と同時に、平生と変わらぬように見える人智を超えた縁壱への不気味さを感じる。
そしてそれは産屋敷も同様だった。
産屋敷は巌勝を呼び、縁壱の様子を聞くと暫く沈黙した後に言った。
「少し僕が縁壱と話してみよう。そうしたら、その後に二人で話してみてほしいんだ」
巌勝は是と答えた。
さて、産屋敷であるが、彼にはある思惑があった。彼は縁壱がどうやら陽であるらしいということを煉獄から聞いていた。そして縁壱が巌勝から香る«芳しい桃の如き香り»に悩まされているらしいことも。
産屋敷家の男は代々陽である。そして陰の娘を娶り、己が死ぬまでに子をなすのである。
そうであるからして、縁壱の言う香りが陰の放つ香りであることは確かであろうと思われた。
しかし、解せぬのはそれが巌勝から放たれているということである。
移り香、ということもあり得よう。事実、巌勝は過去に陰の剣士に付き纏われたことがある。その時の陰は巌勝に己の香りを纏わせんとあらゆる手段を講じた。あの陰は巌勝に随分と執心していたのを産屋敷はよく覚えている。
最終的には「私が番となれば発情期の心配もなくなり彼の心も落ち着きましょう」と巌勝が折れる形となったのだが、その晩に剣士は鬼との戦いで命を落としたはずだ。
閑話休題。
つまり、もしも再び巌勝が陰に付きまとわれているのならば己にも陰の気配が感知されなければおかしいのだ。
と、そこで産屋敷の頭にある一つの可能性――それも荒唐無稽な代物である――が浮かんだ。
真実、縁壱の言う通り、香りは巌勝から放たれていたものであり、巌勝は陰――縁壱ただ一人のために用意された特別な陰、つまりは«運命の番»ではなかろうか。
「ふふ……ふふふ……」
産屋敷はうっそりと笑う。
もしそうならば、番わせてしまえば良い。
一対の陰陽、太陽と月。似合いの二人だ。きっと彼らの子は優秀に違いなく、鬼狩りの役に立つ剣士に育つだろう。そして産まれた子は産屋敷と彼らを繋ぎ止める強固な鎖となろう。
天女のような笑みを浮かべ、産屋敷は縁壱を呼んだ。
そして、幼い子どもに言い聞かせような声色で言葉を紡ぐ。
「縁壱。«運命の番»というのを知っているかい?」
***
巌勝はその日、運命はどこまでも無慈悲であると知った。
新月の夜のことだった。産屋敷と話をしたという縁壱が巌勝のもとを尋ねた。
このところ、ろくに食事もせず一睡もしない弟のことは巌勝も気にかけていた。同時にそれでもなお平然としている彼に薄ら寒いものを覚えもしたが、彼自身が忘れていた弟への兄心とでも呼ぼうか。どうしても何かに思い詰めている様子の弟の世話を焼いてやりたくなってしまったのだ。
だからこそ妙に興奮した様子の縁壱を招き入れた。
産屋敷の湯治の旅路、鬼狩りの協力者が屋敷を貸してくれた。護衛の者一人につき一つの部屋が貸し出され、巌勝は産屋敷の寝所にほど近い部屋が与えられていた。
縁壱に与えられていた部屋は産屋敷の寝所からだと巌勝の部屋から遠いはず。
何事があったのだ、と縁壱を座らせ、落ち着かせるように――幼き日にしたように両手を握ってやる。
すると、弟はその手を握り返し、唇を寄せ、悍ましいことを口にした。
「兄上は、俺の運命の番だったのですね」
その瞳には陰を我が物にせんとする陽の、ぐつぐつと煮えたぎる本能があった。
言葉を紡ぐことは許されなかった。
脱兎のごとく逃げ出そうとする巌勝を羽交い締めにした縁壱は巌勝の抵抗など軽くいなして彼を組み敷いた。
「私は陰ではない。
何がお前を狂わせる。兄さんに教えてくれ。助けてやるから。だから、やめてくれ」
全身に接吻の雨をふらせ、後ろをぐちぐちと解す弟に、兄は必死に語りかける。しかしそれも虚しいだけだった。
「俺を狂わせるのは貴方だ。兄上、貴方なんだ。兄上が俺を狂わせる。俺を――俺を――ああ、俺の番。兄上」
縁壱はそう言って、ついに巌勝を貫いた。
悲鳴すら縁壱の口に吸い込まれた。
熱い。苦しい。そして、ほんの少しだけの快楽。身を貫かれ、揺さぶられ、湯だった頭ではなにも考えることができない。
「あにうえ、あにあえ……ああ。この香り…兄上のこの香りが俺を狂わせる…それなのに、嫌がって、泣いて……ひどいひと。俺にこうさせるのは貴方なのに……それにしても、ああ、いい香りだ」
饒舌に言葉を紡ぐ縁壱は不気味であるのに、憎らしいのに、抵抗ができない。圧倒的な陽の前では己如きは抵抗さえも許されぬというのか。
項を何度も噛まれる。何度も、何度も。しかし巌勝は陰ではないのだ。噛んだところで番になれるはずもない。
それなのに縁壱は自分の陰であると印をつけるかのごとくしつこく項を噛む。
憎い。憎い。憎い!
巌勝は己の腕を噛み、痛みでもって縁壱から与えられる感覚の一切を排除した。
それからどれほどの時が経っただろうか。
星星が月のない空で輝いていた頃からこの行為は始まったが、空は白みはじめている。
もう幾度も縁壱の精を腹に受けた。どれだけ出せば気が済むのだろうか。
同じ陽ではあるものの、性に淡白であった巌勝には考えられぬことであった。
「最後……さいごです。兄上。番に…おれの、番になりましょう。あるべき姿に」
縁壱はそう言って巌勝を貫いたままぐるりと体勢を変えさせ向かい合わせとなり、ぐちゅりと奥まで繋がりを深くする。
「あ゛っ……う……む、むだだ。縁壱…わたしは、陽だから……お前の番には……なれぬ」
「…意地悪をおっしゃる」
含み笑いとともに、縁壱は囁き腰の動きを激しくした。
ああ、また、出される。巌勝はぎゅうと目を瞑り衝撃に耐えんと息をつめた。これで最後なら、もう終わり。縁壱も朝になれば正気に戻るはず。
そうだ。縁壱のことだ。愛情深い縁壱。俺の弟。番のいないことが絶えられぬのだ。だから暴走した。俺は兄さんだから、受け止めてやらねば。そうすればきっとだいじょうぶ。
明日になれば、すべて元通りになっている。
きっとそう。
しかし、巌勝のその希望は打ち砕かれる。
縁壱が巌勝の首筋――ちょうど痣の浮かんだ場所を噛んだのだ。
その時の衝撃と言ったら!
噛まれた場所が燃えるように熱くなり、次にその熱が全身を駆け巡り疼きを残す。じんじんとした感触に目の前が真っ白になって涙と唾液が溢れ出す。
まさに身体を作り変えられていく感覚。
己を貫く縁壱の性器をぎゅうと締め付けてしまい、ありありとその存在を感じ取って思わず声があふれる。縁壱もまた噛み付いたままで獣のようにうなり締め付けの衝撃にたえていた。
そして遂に、どぷり、と精が放たれた。奥の奥まで侵食する精。巌勝はその衝撃に全身を緊張させ、絶頂に至った。
途端、ぶるりと悪寒が走る。
次いで、猛烈な飢餓感。
噎せ返るような芳香。縁壱の、香り。
――嗚呼、嗚呼!!
巌勝は悟った。
己が何になったのかを。
何にさせられたのかを。
「よりいち」
信じたくなくて、目の前の男にすがる。
しかし、縁壱は嬉しそうに巌勝を抱きしめて言った。
「やっぱり、兄上は俺の運命の番だったのですね」
「あ、あ……あ……」
「は……あ…ン……ふふ。兄上、まだ俺が足りぬのですか?」
反射的にぎゅうとその身に埋められた欲望を締め付けてしまう。気持ちがいい。腰が勝手にくねくねと蠢いてさらなる快楽を追ってしまう。なんと浅ましい体か!
じわりと両目に涙があふれる。なんという恥だろうか。そう思うのに、縁壱がいたずらに腰を降るのが気持ちよくて堪らない。
ぱちゅぱちゅと水遊びのような音が部屋に響く。先程とは違うのは、そこに巌勝の嬌声が混ざっている点であろう。
空には朝日がのぼっている。
太陽の光が生まれ変わった巌勝の体を照らし出す。巌勝は太陽から逃れるように見をよじった。太陽よ、浅ましくも番を求めうち震えるこの体を曝け出してくれるな、と、そう思った。
「美しい……兄上は、この世の何よりも美しい。光の中で見るあなたは特に。ああ、俺は幸せ者だ」
涙にぼやける視界の中で、巌勝は恨めしく太陽を睨みつけた。