鴉の呪い
この土地はかつて継国家の敷地であった。継国家は士族であったが、今ではこの地に継国の者はいない。
長く放置されていたその土地を買い取ったのは産屋敷という男だった。彼はその土地をひと目見て気に入り、現在の土地の権利者であった時透という男から破格の値段で買い取ったのだという。産屋敷を物好きの金持ちだと言う者もいたが、古くからその土地を知る者はサッと顔を青くさせた。何故ならばその屋敷は呪われていると言われていたからだ。
そうとも知らず、産屋敷は何度もその土地を訪れる。彼は幼い少年を連れてやってくることもあり、少年に何事か楽しそうにひそひそと話していた。利発そうなその少年は恐らくは彼の息子で、家族でそこに住む心積もりなのであろうことが伺えた。
そうして幾度目かの下見に訪れた際、ある男が産屋敷を訪ねた。竈門と名乗るその男は真面目くさった顔をして産屋敷に言った。
「あの屋敷は呪われています。お祓いをしても無駄でした。あの場所に住もうとする人は皆呪われてしまいます」
すると、産屋敷は片眉をひょいと上げてまじまじと竈門を見るとゆっくりと口を開いた。
「それは、興味深いね」
「冗談ではありません。本当の話なのです」
「ふふふ。古い土地というのは謂われがあるものだ」
くすくすと笑う産屋敷に、竈門は眉根を寄せて大きな黒目をくるくると動かす。
「あそこには人が住み着きません。呪われて自ら命を絶つか、発狂してしまうから……嘘だと、お思いでしょうけれど……」
尻すぼみになる彼の言葉。口惜しそうに目線を下げる彼は、その「呪い」とやらを信じて疑っていないのだろう。
産屋敷は「竈門さん……良ければ、その呪いの話を聞かせてはくれないかな」と微笑む。
「僕もね、この子と一緒に住むのであれば、きちんとこの場所について確認しておきたい」
竈門はパッと顔をあげると柔和な微笑みを浮かべる産屋敷と、彼の隣に座る少年を見比べた。そしておもむろに口を開いた。
この家の呪いは明治から大正にかけての時代から始まります。
昔、この場所は継国家の土地でした。地主さんだったんです。当時、継国家には一人息子がいて、その息子はたいそう優秀だったため将来を期待されていたそうです。
ただ、その息子の出生にはある醜聞がありました。それは、本当は彼は双子として産まれでその片割れは産まれてすぐに死んでしまったのですが――その片割れは父親が殺してしまったというものでした。
なぜ父親が我が子を殺したか。
それは鴉の呪いを恐れたのです。
父親は彼の妻を娶ったその日、一羽の鴉を殺していました。花嫁に向かって狂ったようにカアカアと鳴く鴉を不吉な鴉だと言って下人に殺させたそうです。
しかしその日からというもの彼の様子がおかしくなりました。なんでも、どこに居ても鴉の鳴き声が聞こえると言うのです。カアカア、カアカアと責めたてるように鳴くのだと言って、鴉を見るなり殺してしまえと激高するようになってしまいました。しまいには、妻の腹に鴉が入っていく夢を見たと言い始め、身重の妻を神社に連れていき、寺に連れていったそうです。
しかしながら、妻はといえば、「鴉は太陽の神様の化身」と言って鴉を見れば手を合わせ深々と礼をするのです。そして彼女は言うそうです。いつでもどこでも鳴き声が聞こえる、神様が見ていてくださる、と。
彼ら夫婦以外に鴉の鳴き声が聞こえる者はおりませんでした。
そのような二人がうまくいくはずもありません。二人は次第に仲違いを始め、臨月には夫婦仲は冷え切っていきました。
そして、彼女は双子を産み、父親はその赤ん坊を見るなり「鴉の生まれ変わりだ」と叫んだそうです。そして「その証拠がここにある」と宙を睨みつけて暴れまわったのです。
……彼に何が見えていたのかは誰にも分かりませんでした。
父親が暴れたのは皆が見ている前のことでしたから、その双子の片割れの死因が何であったのか本当のところは分かりませんが、父親が殺したのだと噂がたつのも当然のことだったのかもしれません。
その後、双子を産んだ彼女は早々に死んでしまい、父親もみるみるうちに弱っていきました。父親は常に耳栓をして太陽から逃げるようにしながら息を潜めているような有様だったそうです。
一方、彼らの息子ですが、母親が死に父親も廃人のようになってしまったものの、立派に育ち、士官学校で優秀な成績をおさめて将来を期待されていたそうです。
やがてその息子に縁談が舞い込みました。相手は商家の娘でした。なんでもその娘の一目惚れだったらしいのです。彼としても、お家のために娘の持参金は喉から手が出るほどほしいものだったのでしょう。トントン拍子に事は運びました。これには廃人同然の父親もいたく喜んだそうです。
しかし、結婚当日の夜のことでした。
本当ならば初夜を迎えるべきその夜、息子はこつ然と姿を消したのです。花嫁は呆然とするしかありません。慌てた使用人は急ぎ彼の姿を探しました。――彼ら使用人は主人が狂ってしまったのをいいことに、主人の財産を横領していたそうで、そんな彼らは花嫁とその実家には継国家がもはや普通ではないことを隠していたのです。
ようやく息子を見つけた時、彼は山奥に居たそうです。
なんと彼は白無垢を着て、ぐったりと倒れながらもブツブツと宙に向かって話しかけていたそうです。
使用人に運ばれて屋敷に戻ると、彼はこう言いました。
「私はおとうとと契りを交わしてしまった。今も聞こえる。声が」
その言葉に震え上がったのは父親と、それから使用人でした。父親だけが息子が《何》と契りを交わしたのか理解したらしく、叫び声をあげて逃げていったそうです。そして使用人は両親と同じく、息子もまた狂ってしまったのだと確信したといいます。
父親はその日に死んでしまい、その顔は恐怖に引き攣っていたそうです。
さて、その息子の花嫁ですが、彼女はそれでも夫を慕い、支えていたそうです。
しかしながら、彼らの間には子は生まれませんでした。何故ならば、彼女の夫は夜な夜な山に行くからです。山に行って、宙に向かって話しかけているのですから。その姿は正気とは思えないものだったそうです。
……実のところ、これは、私の祖父から聞いた話なのです。
私の祖父は哀れな花嫁から狂ってしまった夫が山奥で死なぬように後を付けるよう命じられていました。
狂ってしまった彼は、何かに向かって話しかけ、笑い、そして悶えていました。まるで見えない相手から愛撫を受けているかのように、身をよじり、喘いでいたそうです。
え? いいえ、まさか。祖父はとてもじゃないけれど、花嫁に伝える事はできなかったんです。まさか、結婚したその夜に、夫が狂人となるなど――人ならざる者に寝取られてしまったなどと、誰が言えるでしょう!
しかし彼女もまた狂ってしまったと祖父は言っていました。
数年後、彼女はにっこりと微笑みながら、祖父に言ったそうです。
「兄弟が仲良くすることは素晴らしいことだわ。だから、あれは正しいことよ」
祖父には言っている意味がわかりませんでした。
やがて彼女は鴉を見ると親しげに話しかけては「わたくしの息子は偉大な剣士の子孫なのよ」と語るようになっていったそうです。……息子なんて、居ないのに。
そうして夫が夜な夜な山に行っている間――人ならざる者との逢瀬の間に、可哀想な彼女は死んでしまいました。首を吊って死んだのです。
困りはてたのは使用人です。持参金も食い潰した彼らに遺されたのは狂った主人だけ。彼らは話し合い、主人を閉じ込めることにしました。
可哀想に、彼は物置部屋のような三畳の部屋に閉じ込められました。しかし閉じ込められた彼は抵抗することはなかったそうです。
三畳の部屋にいる彼はずっと誰かと話しているようだったと言っていました。そして夜になると、あられもない声がその部屋から聞こえたそうです。使用人の中には、誰かが主人に夜這いをかけているのではないかと疑いをかけるものもいたそうですが、誰もその部屋に行く者はいませんでした。
正真正銘、彼は一人だったはずなのです。
祖父はあんまり彼が哀れで、そっと小さな戸を開けると彼に欲しいものはないか、逃げたくないかと聞きに言っていたそうです。
そうすると、彼は言います。
「弟のために笛を作ってやりたいから、丁度いい木と、道具をおくれ」
ええ。祖父は持っていったのです。そして彼は笛を作り、気まぐれにその笛を吹いたと言います。
他に?
そうですね、後は凧揚げがしたいだとか、双六がしたいと言っては祖父に持ってくるように言っていたと聞きました。みるみる衰弱していく彼は、もう長くないと悟った祖父はできる限り叶えていたそうです。
そして、満月の夜に彼は死んだそうです。
こうして継国家の者は皆、死にました。
けれど、次は使用人たちが狂っていきました。ある者は笛の音が聞こえると言い、ある者は鬼が出たと言ったそうです。そうして皆、事故や自殺で死んでいきました。その後も、あの家に近づく人間は尽く死んでしまいました。だから、皆言うんです。あそこは呪われているって。
え? 祖父? 祖父は……どうだったのでしょうか。
祖父はよく言っていました。あの人達を引き離したから呪われた、縁壱さんはお兄さんが恋しかったんだ……って。
……ああ、はい。きっと祖父も狂ってしまっていたんでしょうね。
だって継国の人間に縁壱なんて男は居なかったのですから。
竈門が話し終えると、産屋敷は満足げに頷き「やはりここを買うよ」と言った。
「確証はなかったが、ここで正しかったようだからね」
「え?」
「ふふふ。その呪いのために、ここに来たと言っても過言ではないんだよ。君の話を聞いて確証が持てた」
産屋敷は竈門に「ありがとう」と笑って隣りにいる少年の肩をポンと叩き、囁いた。
「長い間縁壱を待たせてしまったのだから、最初にちゃあんと謝らないといけないよ。分かったかい、巌勝」
巌勝と呼ばれた少年はぐるりと黒目を回すとコクリと頷く。
竈門は何がなんだか分からず、パチパチと瞬きをするしかなかった。
それから数年が経った。
産屋敷は巌勝という少年とともに今でもそこに住み続けている。
やはり呪いだなんて、ばかばかしいものだったのだろうか。夕暮れ時に学校から帰る巌勝を見ながら竈門はそんなことさえ思う。
「巌勝くん、こんにちは。もう新学期かい?」
竈門が声をかけると巌勝はぺこりと頭をさげてから「今日からですよ」と言った。
「うひゃあ。もう新学期だなんて、早いなあ」
「本当ですね」と笑う巌勝に、そういえば、と竈門は思い出す。
「巌勝くんが学校に行っちゃうと、縁壱くんも寂しくなるね。彼はいじけていないかい?」
「いじけてますよ。だから今日も早く帰って機嫌とらないと」
「そりゃあ、大変だ!」
早く帰ってあげなさい、と巌勝を急かす。
本当に彼らが来てくれて良かった。ああ、呪いだなんて、ばかばかしい!
帰路を急ぐ巌勝の背を見ながら、竈門はそう思った。
空は夕焼け色に染まっていた。