ゴシップ狂騒曲
「賭けをしようじゃないか」
童磨が言った。
一体何のだ、と猗窩座もとい狛治が至極面倒くさそうに問う。空は夕焼けに染まり、部活動に勤しむ少年少女らの声が遠くに聞こえていた。二階の教室にいるのは狛治と童磨の二人だけ。この男と二人になると現実がまるで夢であるかのように感じられた。
かつて人に産まれ鬼となった彼ら――童磨と猗窩座は再びヒトとして生を受けた。それもかつての記憶を持ったままに。そして彼らは同じ高校に通っている。そこにはかつての宿敵や始祖の元で十二鬼月の冠を戴いた者たちもいた。それは見えない因果という糸に導かれたようだった。
なんとも業の深いものを背負ってしまったものかと狛治は頭を抱えていたが今ではどうでもよくなってしまった。ひとえにこの男――童磨の存在がある。この男は刹那的な快楽主義者を自称し、事あるごとに記憶を持った者たちへとちょっかいを掛けていたのだ。狛治も初めこそ記憶のない振りをしていたのだが、そのような演技が童磨に通用するはずもなく、むしろ余計に絡まれるようになってしまったというわけだ。
「そんなに警戒しないでおくれよ! 賭けるって言っても食堂の定食を奢るだとか、そんな程度の実に少年らしいお遊びさ!」
「……………話だけは聞いてやる」
「なんだい。一緒に楽しもうじゃないか。ねえ? 冷たくされると俺も悲しいぜ」
「……………………検討だけはしてやる」
「ふふふ。そうこなくては」
ここで童磨を無視すればそちらの方が後々面倒なのだと狛治は良くわかっていた。それに怒鳴ってしまったり感情的になったりしてしまえば、それこそ童磨の思うツボなのである。そんな狛治の様子を虹色に光を反射させる瞳で観察した童磨はわざとらしく声を潜める。
「それでねぇ、賭けっていうのは黒死牟――継国巌勝のことさ」
「断る!」
黒死牟という名を聞くや否や狛治は怒鳴ってしまった。狛治はあまり我慢が得意ではなかった。
継国巌勝。
前世における黒死牟。上弦の壱。鬼殺隊の裏切り者。貪欲に力を求め続けた鬼。
その黒死牟は狛治にとって、今も昔も近づきがたい存在である。尤も己が猗窩座であったときに黒死牟に感じていた言いようのない不快感は彼が『刀を振るう』侍であったことも少なからず影響していたやもしれない。剣術道場の息子に最愛の人と恩人を殺された怨みは記憶を失ってなお染み付いていた。
ただ、そのことを差し引いたとしても黒死牟――そして現世における継国巌勝は近寄りがたいのだ。
現世における彼は優等生であった。
文武両道、品行方正を絵に描いたような彼。ともすると冷たい印象を与えるが、話してみれば思いの外人当たりがよく柔和な微笑みを浮かべてみせる。誰しもが彼を『いい人』だと言った。
薄ら寒かった。どいつもこいつも継国巌勝に騙されているのだ。いや、彼は騙しているなどとは思っていまい。求められている『継国巌勝』を演じているのだ。その優等生の面の下には辛気臭い顔の男がいるということを知らない。
狛治を始めとして童磨といった前世で鬼であった者たちの前では気が緩むのだろう。ごっそりと感情を削ぎ落とした顔をするのだ。おまけに不躾なほどじっとこちらを見たかと思うと、ふぅ、と悩ましげなため息をつき「何故またこうして生を受けてしまったのか。何を償い何を為せば私は輪廻から解放されるのか。地獄の責苦の延長ということか」と呟くのだ。そんな彼の言葉を聞かされるとこちらの気も滅入ってしまうというもので、面白がっている童磨が変態なのである。
ちなみに巌勝は狛治が恋人と生をまっとうする姿に「猗窩座と違って私はずっと過去に囚われて前に進めぬつまらない男だ」と自己嫌悪しつつ、青春を謳歌する姿を慰みにしていた。
さて、話は冒頭に戻る。
狛治は童磨が何に関してを賭けようとしているのか、すぐに解ってしまった。おそらく巌勝の恋路についてである。童磨がそれをネタにしないわけはない。
しかし彼の恋路というのはなんともまあ辛気臭い顔にお似合いの一般倫理に悖るものであった。それというのも彼のその相手というのは実の弟――小学生の時分に生き別れた弟でかつては刃を交わしたという双子の弟であったのだ。生き別れた弟は今年入学した後輩である。どうやら現世では双子としては産まれなかったらしいが、その弟というのはあの鬼の始祖の宿敵というではないか。
いったいどういう神経で弟の話をしながら継国巌勝は頬を赤らめているのか。肉体美がどうのこうの、人格者でうんぬんかんぬん。意味がわからない。全身に鳥肌が立つ。間違いなく奴は変態だ。関わりたくない、いや、関わるものか。狛治はそう誓っていたのだ。
「俺はゴシップには興味がない。ましてやアイツのことなど知りたくもない」
「ツレナイねえ。でもまだ俺は賭けの内容について何も言っていないじゃないか」
酷いなぁと童磨は悲しそうな顔を作る。そのわざとらしい表情に狛治はイライラと舌打ちをして「おおかた奴と奴の弟の事だろう」と吐き捨てた。
「人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死ぬという。ましてやあの黒死牟だ。奴の恋路を邪魔しようものなら本当に馬に蹴らせて殺そうとするに違いない」
余談であるが継国巌勝の実家は裕福で彼は乗馬を習っていた。
「あっはっは。やっぱり猗窩座殿は面白い」
馬鹿にしているのか、と狛治が凄むが意味はない。
「話を戻そう。確かに黒死牟殿と弟君の恋路にまつわるのだが、邪魔しようってんじゃあないぜ」
だって黒死牟殿の弟は怖いもの、と童磨は加えた。
「賭けにすること自体、あいつが知ったら怒るだろうが」
「いいや。黒死牟殿って意外とそういうのは気にしないよ。ちょっとお小言食らうだけさ」
そうじゃなくて、と童磨は瞳を輝かせて再び声を潜めた。
「俺はね、あの兄弟の痴情の縺れに無惨様が巻き込まれるまであと三ヶ月と見た」
「お前なぁ」
はあ、と大きなため息をつく狛治。鬼舞辻無惨は教師である。もちろん記憶もある。ちなみに継国巌勝のクラスの担当教師でもある。意外にも鬼舞辻先生の授業は分かりやすく、少し高圧的だが生徒たちに慕われていた。外面がいいのは前世からだ。
「………………………………………俺はもっと早いとみた。三週間だ」
「大きく出たね。まだ黒死牟殿と弟君は付き合ってもいないのに?」
「付き合ってないからこそ男は暴走する」
「なるほどね。しかし黒死牟殿は弟君の手綱を握っているようだし弟君も黒死牟殿の言うことをよく聞く子犬ちゃんだぜ」
「解ってねえな。子犬のような面してるが所詮男は狼だぜ」
「君こそ解っていないな。弟ってものは可愛がられる術を識っている。ここで無惨様を巻き込んだら嫌われるってことぐらい本能で解っているはずさ」
「悪いがこの賭けは勝たせてもらおう」
「猗窩座殿に奢ってもらう定食が今から楽しみだよ」
「言ってろ」
外を見る。ちょうど継国兄弟が並んで歩いていた。絶妙な距離感。むず痒くなる。
ふと、弟がこちらを見る。ゾクリと背筋が凍る。黒死牟の弟は目を細め器用にも殺意を送ってきたのだ。
しかし次の瞬間にはそれも霧散する。どうやら黒死牟に話しかけられたらしい。
―――やはりこの賭けは俺の勝ちだな。
きっと遠くない未来、鬼舞辻無惨は見に覚えのない罪で黒死牟の弟の操る馬に蹴られてしまうのだろう。
しかし鬼舞辻無惨もただでは起きない男だ。心配はあるまい。
狛治は勝ちを確信したのだった。