おしえて、先生
唇に当てられた葡萄――皮の剥かれた実は柔らかく、みずみずしい。その冷たさに、きゅっと唇を引き結ぶ。すると「せんせい」と咎めるような声で呼ばれ、巌勝は仕方がなく口を開けた。
口の中に広がる甘さ。濃厚なその味。ゆっくりと味わってから、ごくんと飲み込む。それをじっと見詰められるのは少しだけ居心地が悪い。
しかしながら「美味しいな。ありがとう」と、そう言えば、巌勝に葡萄を食べさせた子ども――縁壱が嬉しそうに笑う。それを見ると、行儀が悪いと怒る気もしゅるしゅると萎んでしまうのだ。
今年で大学四年生になる継国巌勝は同級生の煉獄杏寿郎からの紹介で家庭教師のバイトをしていた。生徒は小学三年生の“縁壱”という子ども。彼は今年で六〇歳を迎える杏寿郎の大叔父の養子であるらしい。
縁壱は口数がとても少ない子どもなのだと杏寿郎が言っていた。杏寿郎の弟である千寿郎なんかは彼は耳が聞こえないと勘違いしたほどである。そんな縁壱には友人と呼べる友人はいない。己の世界にこもっているような子どもなのだと杏寿郎は言っていた。一方で、とても優しい子どもとも言っていた。
縁壱の養父は家を空けることが多いため彼の家庭教師兼シッターを探していたのだが「縁壱は繊細な子どもだから」と言って誰か信頼できる人物を紹介してくれと大学生の杏寿郎に頼んだらしい。そこで白羽の矢が立ったのが巌勝だったというわけだ。
なぜ俺なんだ、と巌勝が問うと杏寿郎は自信あり気に言う。
「直感だ」
理由になっていない。巌勝はそう思ったが「そうか」とだけ返した。そして「時給が高くて、生意気な子どもでなければやってもいい」とも思った。
一度ぜひ会させてほしいと伝えると杏寿郎は「君なら引き受けてくれると思っていた!」と破顔する。
「縁壱はきっと君を気に入る。そして、君も縁壱が気に入る」
「なんで分かる?」
すると杏寿郎は呵呵と笑った。
「直感だ! 君はきっと縁壱の“兄さん”になれると思った」
―――兄さん、か。
なぜだか喉の奥に鉛を詰められたような心地になった。巌勝は笑みを作ろうとしたが、上手く笑えていたか自信はなかった。
その数日後、杏寿郎の大叔父の家で巌勝は彼ら親子と顔を合わせた。屋敷とも呼べるその家の客間でその子ども――縁壱は呆けたような顔で巌勝を見ていた。
「継国巌勝です。よろしく」
ぽかんと口を開けてこちらを見る子どもに笑いかける。怖がらせないように、敵意はないのだ、と伝えるように。
すると、幼い顔がみるみるうちに赤く染まっていった。
赤みがかったガラス玉のような瞳――目の前の風景を映すだけの空虚な瞳が光を宿す、その瞬間を巌勝は見た。
彼の養父が「縁壱」と促し、慌てて子どもは「縁壱です。よろしくおねがいします」とペコリと頭を下げる。
そして、ぱちりと縁壱と目が合った。縁壱は今度こそゆでダコのように顔を赤くさせ俯いてしまった。
そんな縁壱の頭をぽん、と撫でる。巌勝自身もほとんど無意識の己の行為に驚いていてしまったのだが、縁壱は弾かれたように巌勝を見上げ、へにょりと笑った。その顔に巌勝は手を引っ込めることも出来なくなった。
「縁壱はあなたのことが気に入ったようだ」
そう言う縁壱の養父は満足げだった。
「宜しくお願いしますよ。先生」
杏寿郎によく似た彼は、やはり杏寿郎と同じように快活に笑った。
それから数ヶ月が経った。
口数が少ないと言われていた縁壱は、存外によく話す子どもだった。拙いながら必死に好意を伝えようとするのだ。生徒に好かれることは悪いことではない。「先生。好き」と、そう好意を向けられることはこそばゆかった。
先生には沢山話すのだな、と杏寿郎にからかわれた縁壱は巌勝にだけ「この世界に俺の話し相手はいないって思ってた。居場所がないって。だから誰とも話さなかった。でも、先生は特別」と囁く。
教えれば教えるほど、渇いた大地が雨を吸収するがごとく知識を吸収する彼。とても優秀で、どこか浮世離れしている彼。見ていると“守ってやりたい”という庇護欲と慈しむ心が生まれるのが不思議でならない。先生、と呼ぶ熱っぽいその声にぞくりとしたものを感じながらも無条件のその好意――彼から与えられる“特別”に満たされるものを感じていたのも確かだった。
その日、巌勝が家に来ると縁壱はニコニコと微笑みながら居間へと手を引いた。いつもなら早く早くと部屋へと通すのに。
「果物が送られてきたから、一緒に食べましょう」
そう言ってソファに座らせる。ソファの前のローテーブルには葡萄にカットされたメロン、林檎、洋梨が大皿に盛り付けられラップがかけられていた。
「先生はどれが好き?」
「ええと……」
縁壱の期待に満ちた目に急かされるように巌勝は大皿の上のフルーツを見る。
「じゃあ、林檎を頂こうか」
フォークは、と問う前にずいと林檎が差し出される。縁壱だ。彼は林檎を手で取るとソファに座った巌勝の膝の上に乗り、口元に運んだのだ。
「……行儀が悪いぞ」
眉をひそめて巌勝が嗜める。しかし、縁壱はにこにこと笑うばかりだ。
仕方無しに口を開けて一口齧る。口の中に甘酸っぱい香りが広がる。美味しい。巌勝はもう一口、と齧り差し出された林檎を食べた。まるで餌付けされているようだった。
そしてその次は葡萄を手に取り巌勝の口元に差し出す。巌勝がそれを食べ「ありがとう」と言えば縁壱は葡萄を持っていた指をぺろぺろと舐め満足げにしていた。
「指を舐めるのは、やめなさい」
巌勝が言うが、縁壱はそれを無視して「おれは、洋梨が良いです」とねだる。
「フォークは……」
「手でいいですよ」
「だから、行儀が悪いだろう?」
「構いません」
「俺が構うのだ」
「……今は俺と先生しかいないから。ね? 今だけ。他の時は、いい子にするから」
「…………」
巌勝はため息をついてローテーブルに手を伸ばし、洋梨を手で掴むと膝の上の子どもに「ほら」と差し出した。
縁壱は嬉しそうに頬を赤く染めてパクリとそれを口に入れる。もぐもぐと食べて、美味しい、と微笑む姿に毒気を抜かれた。もう一口、もう一口と口に入れ、そして最後に縁壱は巌勝の指ごと口に含む。
驚いた巌勝が指を抜こうとするが、ぱしりと手首を掴まれた。
「―――っ!」
縁壱の舌が巌勝の指を這う。舌全体で指を味わうようにして、指先をしゃぶり、甘噛みをする。そしてそのまま口を開けてねっとりと指の股を舌先でくすぐりながら上目遣いに巌勝を見た。
びくり、と巌勝の肩が跳ねる。幼い子どものはずの縁壱の視線に、巌勝は磔にされたように動けなくなってしまった。縁壱は目を細めると舌先をゆっくりと指の股から先へと這い上らせる。巌勝の背筋にビリビリと電流が走り、思わず唇を噛む。しかし閉ざされた口のその奥から震えた吐息が漏れてしまう。
いつの間にか縁壱の舌は手のひらをねぶり、最後にかぷりと小指の付け根を噛まれた。
「あっ」
思わず声が出る。
縁壱はようやく巌勝の手を解放し「甘い」と囁いた。
そして、息を荒くさせる巌勝の唇に、指を押し当てる。
「先生、何が欲しい?」
「あ……え………?」
その問いに、巌勝は答えられない。
「ねえ先生? 欲しい物はなあに?」
「あっ、あ、ん……」
するすると唇をなぞる小さな子どもの指。やがてその指は口の中に挿し入れられ、逃げ惑う舌をとらえてもてあそぶ。
くちゅ、ピチャ、と響く水音に、震える巌勝の声。
「かわいい、せんせい……かわいい。かわいい」
縁壱は熱っぽく呟き、唾液にまみれテラテラとした指を巌勝の口から引き抜く。うっとりとその己の指を舐めしゃぶり、もう一度巌勝に訊く。
「せんせい、何が欲しい?」
ふるり。
巌勝の身体が震えた。
巌勝は何も言わず、口を開けた。視界が涙でぼやける。だがしかし、目の前の子ども――縁壱の嬉しそうな顔だけは、やけにはっきりと目に焼き付いたのだった。