白波と人魚
縁壱には海といえば思い出すものがある。白波と人魚だ。
中学生の時のことだった。
少年少女たちは『人魚』の噂でもちきりだった。なんでも『▲▲高校の某先輩が深夜に海で人魚を見た』らしい。それだけでなく『人魚を見たら人魚に連れ去られいなくなってしまう』なんて噂も広まっていた。怪談話のような幻想的なその噂は彼らの好奇心をくすぐり心躍らせたのだ。皆、刺激を求めていたのだと思う。
縁壱は鼻息荒く人魚の噂について語る友人の話をぼうと聞きながら、人魚はエラ呼吸か肺呼吸かについて思いを馳せていた。
その内の一人が「今度の土曜、人魚を探しに行こうぜ」と言い出し、次々と参加者が増えていった。人魚を探しに海に行く。彼らにはとても魅力的な非日常であったのだ。
「縁壱も行く?」炭吉が訊く。
「俺は行かない」縁壱は答えた。
「でも、巌勝は行くって言ってたぞ」別の同級生が口を挟んだ。
「えっ」
巌勝は縁壱の従兄弟だ。双子のように育った彼のことを縁壱は『兄』と呼び慕い、巌勝もまた縁壱のことを『弟』のようによくしてくれていた。親からはそれを咎められていようが縁壱には関係のないことだった。彼が本当の兄だったら良かったのにといつも思っていた。
「……兄さんが行くなら、俺も行く」
「お前ならそう言うって思ってた」
同級生は悪戯が成功した時のような顔で言って「人数は多いほうが楽しいだろ」と付け加えた。
土曜日になった。さすがに大人数で深夜の海に行くことは叶わず(保護者に止められた)、結局のところ昼間に浜辺をぞろぞろと歩いた。もはやただのハイキングである。それでも人魚がいるとかいないとか、騒々しく海を眺めて歩いていた。
縁壱と巌勝は彼らと少し離れたところを歩いていた。正確には巌勝のあとを縁壱がついて歩いていたのだが。
「なあ。人魚いるかな」
気まぐれに巌勝が声をかける。
「……どうだろう」
もごもごと口ごもる縁壱に巌勝は、ふ、と笑いを漏らす。
「冗談だよ」
そして巌勝は浜辺に座る。縁壱も隣に座った。
「あ。人魚」
巌勝が海を指して言った。
「え」
「ほら。そこ」
「……え。え?」
「ふふ……冗談だ」
縁壱はちらりと巌勝を見る。巌勝は縁壱を見ていなかった。彼は縁壱と目を合わせることがない。縁壱を忌避しているようだった。
縁壱は巌勝が好きだった。巌勝は優しくて、綺麗な人だったから。ずっと側にいてくれればいいのに、と思っていた。
「俺、来月引っ越すんだ」
巌勝が言った。まるで天気のことでも話すみたいに。
「……冗談だよね?」と縁壱が訊く。
「冗談じゃない」と巌勝が答える。こちらを見てはくれない。
「あ。また……人魚。ほら、そこ」
縁壱は膝を抱えて「冗談だよ」と言った。
「冗談じゃない」
巌勝は目を細めて笑いかけて、海を指差し言った。
「そこ。見えるだろ」
「あれは波だ。兄さん。あれは白い波だよ。人魚じゃない」
「人魚だろ?」
「兄さんが冗談言うの似合わない」
「冗談じゃないって」
なぁ縁壱、と、巌勝が呼ぶ。顔を上げると視界いっばいに巌勝の顔が広がった。キスされたのだと気付いたときには巌勝はまた海を見ていた。
「俺の母さんと叔父さんは仲が良すぎたんだって。だから俺は引っ越すんだ。敷地内にいるのは都合が悪いんだ」
「……冗談でしょう。そんなの聞きたくない」
巌勝は「そうか」とだけ言った。
「じゃあ、帰ろうか」と巌勝が立ち上がる。
「うん」と縁壱は慌てて立ち上がった。
「………なあ縁壱」
「なあに」
「人魚は本当にいたんだ」
「……………あれは白波だった」
「波なんてなかったじゃないか」
「人魚だっていなかった」
そんな話をして、二人は家に帰った。
その一ヶ月後、巌勝は去っていった。キスの意味ぐらい聞いておけばよかったと思いながら、後ろ姿を見送った。それから一度も巌勝には会っていない。
それが縁壱にとっての海だった。