見ざる聞かざる
男には歳の離れた弟がいた。十も離れたその弟は誰に対しても従順で、人形のように物静かだった。仲が良いわけではなかった。しかし、仲が悪いわけでもない。男兄弟なんてそんなものさとずっと思っていた。
気がかりなのは、弟がやや意志薄弱であるように思われることだった。小さい頃からわがまま一つ言わず優等生な弟は、何かに心を動かされている様子がなかった。まるでロボットのようであると、男は弟のことを密かにのように思っていたのだ。
そんな弟が血の通った人間であると実感したのは男に子供ができたときだった。
男に赤ん坊を見せたとき、弟は赤ん坊を見て酷く驚いていた。それがなんだか物珍しく、男は「ほっぺた柔らかいぞ」と促した。十六になる弟の心が確かに動いているのが嬉しかったのだ。弟は男の言葉に従い躊躇いがちに人差し指を赤ん坊に近づける。すると赤ん坊は弟の指をしっかりと握ったのだ。
「あ」
「こいつ、お前のこと好きみたいだぞ。こんなに笑って」
男が言うと弟はぱちぱちと瞬きを繰り返した。そして弟は「縁壱。よりいち、よりいち…」と赤ん坊の名を何度も呼び、赤ん坊――縁壱は嬉しそうに笑った。それを見て、弟はぽろぽろと涙を流し始めた。
自分の弟はこんなに感じやすい子どもだったのか。男は驚いた。
「巌勝。可愛いだろ。お前の甥っ子だぞ」
男は弟に訊いた。
「………うん」と弟は答えた。
それから十八年が経った。
男の息子――縁壱は大学進学とともに下宿を始めた。巌勝が近所に住んでいて、男の妻は「安心だわ」と笑っていた。
「縁壱は本当に巌勝さんのことが好きなのね」
妻の言葉に男は曖昧に笑った。
縁壱は幼い頃から巌勝のことを「兄さん」と呼び、よく慕っていた。弟も彼のことを可愛がっていてその姿は本当の兄弟のようだった。今でも居間には幼い縁壱を抱き上げて微笑む巌勝の写真が飾ってある。
巌勝は穏やかで従順な男だった。生真面目な優等生で、縁壱は彼の言う事ならよく聞いたし、彼になら大事な息子を任せることができる。
そうだ。何も不安に思うことなどないのだ。
小学生の時分、縁壱が眠る巌勝にキスをしていようが、巌勝が男の家に泊まりに来た時に縁壱の部屋から巌勝のすすり泣きが聞こえてこようが、何も不安に思うことなどない。ただの仲の良い親戚同士だから。生真面目な弟と自分の息子が『間違い』を犯すはずがないのだ。
男は憂いを振り払うように、頭を振った。
そして妻に言った。
「巌勝は俺の弟にしては出来たやつだし、縁壱もあいつのことが好きだから、何の不安もない。安心だ」