地獄とは☓☓の不在なり
狭い告解室に女が入ってきた。
「天使さま。私は罪を犯しました」
すすり泣きと共に女は懺悔を始める。曰く、夫がいる身で別の男と愛しあってしまったのだという。それが辛く、苦しいのだと女は泣いていた。
天使と呼ばれた男は彼女の話を聴いていた。男の背には大きな翼が生えており、それを小さく折りたたみ彼女から顔を隠していた。天使は天国へと導くための助言を彼女に与え、そして最後に決まり文句を口にする。
「あなたの罪をゆるします。父と子と聖霊の御名において」
それを聞いた女は涙を流して感謝しながら告解室を出ていった。
「――――はぁ」
告解室に残された天使――縁壱はため息をつく。そして足を組み頬杖をついた。酷くつまらなさそうな――実際につまらないのであるが――顔をしている。とても信者には見せることのできない顔であったが、彼にその自覚はなかった。
天使が降臨するようになってからというもの、全世界の教会の半分程は神父やら牧師やらが担っていた役割を天使が担っている。当然といえば当然であるが、天使というものは気まぐれで慈悲深く包み込むようにゆるしを与える者もいれば厳しく罪を裁く者もいる。
縁壱はといえば――そのどちらも性にあわなかった。
あるがまま生きれば良いと思う。自分が思うままに生き、その後に天国に迎えられるか、はたまた地獄におとされるかは裁きの時に分かれば良いではないか。天国に行きたくば己の善なると信じる道を行けば良い。過去の罪を悔い改めたのならば、そののちに善なる道を行けば良い。己の与えるゆるしなど、断罪など、神のそれに比べれば価値などないのだから――。
そう思うのに、なぜ彼が教会に身を置いているかと言えば、それはとてもシンプルな理由だった。恋だ。
縁壱は告解室から出ると礼拝堂を見回した。そして一人の男が長椅子に座っているのを見て顔を輝かせる。長い黒髪を後頭部で結い上げたスーツの男は祈りを捧げているのか、目を閉じてうつむいていた。
「兄上っ!」
縁壱の恋する男――兄上と呼ばれた彼、巌勝はゆっくりと顔を上げる。
「来てくださったんですね」
「………ああ」
縁壱は巌勝の肩を抱いて立ち上がらせると、礼拝準備室へと連れて行った。
「縁壱。私は今日は――っ、ん、ンン!」
準備室の扉を閉めるや否や、縁壱は巌勝にキスをする。ぴちゃぴちゃと音を立てて彼の腔内を荒らしていると、巌勝がトントンと胸を叩いた。名残惜しく口を解放すれば二人の間を銀の糸が伝い、やがて弧を描きプツリと切れた。
「兄上……今まで何処にいらしたのです? もう一週間も会えず……俺は気が狂ってしまいそうでした」
「……お前はたったの一週間も待てぬのか」
「縁壱は寂しゅうございました」
その言葉にフイと目を逸らす巌勝にむっとして、縁壱はぱくりと彼の耳を食んだ。びくりと跳ねる肩。それに気を良くすると、耳を舐めあげてから言葉を吹き込むように囁いた。
「血の匂いがします。こんなに『死』を纏わせて……兄上は、罪深い御人だ。この一週間で、どれほど人を斬ったのですか」
その問いに「たくさん」と巌勝は小さく答えた。
巌勝が何を生業としているのかについて、縁壱は詳しく知らない。ただ、黒いスーツを着て刀を振るい、時々『死』を纏わせている。天国の門は彼のために開かれることがないことだけは明白であった。
「しかし………今回はそれほど殺しはしておらぬ」
言い訳をする子どものような口調に、縁壱はむぅ、と頬を膨らませて言った。
「兄上。兄上……危険なことはなさらないで。このままでは兄上は天国にいけません」
「別に天国に行きたいなんて思ったことなど――」
「いいえ。それは、駄目だ」
「……ふん。お前は『お優しい天使様』だものな」
「俺は……兄上を失いたくないだけなのです。あなたが地獄におちてしまったら、俺は堪えられない」
――だって地獄に堕ちたら、貴方の魂を俺のものにすることができないじゃないか。
縁壱はぎゅうと巌勝を抱きしめた。
「本当は、貴方をここに閉じ込めたい。この教会で俺と――貴方が死ぬまでずっと」
「そんなことをしたら、私はお前を嫌いになるよ」
巌勝は言って、縁壱の頬を抓る。そして縁壱にもたれ掛かり、甘えるように頬ずりをした。
「縁壱。私は今日、疲れているんだ。静かなところに行きたい。眠りたい。
―――お前は、私を癒やしてくれるだろう?」
「っ! ええ、ええ。貴方が求めてくださるなら、いつだって」
ぶわりと縁壱の羽根が膨らむ。
「どうしますか。羽根の中でお休みになられます? 縁壱の羽根の中は気持ち良いですよ」
「いや……ベッドでいい………」
「そんなこと仰らず」
縁壱は巌勝を大事そうに抱きかかえた。
「こうやってずっと抱きしめていたい」
「……縁壱。私のことが好きなら、私の言う事を聞けるよな」
「む。では、ご褒美にキスをください」
巌勝の唇を指でなぞりながら縁壱が言うと、巌勝は片方の眉をピンとつりあげる。
そして、一転、妖艶に微笑むとその指をぱくりと咥えた。じゅるじゅると音を立てて指を舐め、唇で扱き上げて指先を舌でくすぐる。最後にちゅ、とリップ音を立てて指を解放した巌勝は言った。
「前払い分」
「〜っっ!!」
縁壱は顔を真っ赤にさせ声にならない叫びを上げると、巌勝を連れて司祭館――彼の住居である別館へと連れて行った。そうしてスーツを脱がせベッドに寝かせると、巌勝はよほど疲れているのかすぐに眠りについた。
その寝顔を見ながら、縁壱は嬉しそうに微笑む。
天使は恋をしない。しかし縁壱は恋をした。恋をした天使は死ぬのだという。ならば、巌勝とともに死なせてほしいと縁壱は希う。恋する者のいない世界など地獄に違いなく、恋する者がいればそこが天国なのだから。