NOVEL short(1000〜5000)

月に望みて遠きを懐う


 巌勝は私用スマホにメッセージが届いているのに気がついた。弟の縁壱からだった。トーク画面を開くと月の写真が送られている。真っ暗闇の夜空に浮かんだ黄金の月。そして彼からのメッセージ。それらに目を通した巌勝は指を画面の上で彷徨わせる。そして、今は仕事中だから返信は夜に、とスマホを仕舞った。
 同じように返信を後回しにしたままにしてしまったメッセージが幾つもあることには見ないふりをした。

 夜中に帰宅してスマホを開く。そして縁壱からのメッセージ――月の写真とそこ写真に添えられた「砂漠の町で見た兄上も美しかったです」というメッセージに思わず顔を歪めた。顔が熱くなり、ぱたぱたと手のひらで顔を扇ぐ。恥ずかしげもなく送られる彼からの好意。それを真正面から受けるのは、とんでもなく恥ずかしい。
 火照る顔を冷やすために巌勝は缶ビール片手にベランダへと出る。ひんやりと頬を撫でる冷たい夜風に、ほう、と息をついた。
 彼からのメッセージはいつもこうだった。

 縁壱がどのような仕事をしているのか、あるいはしていないのか、巌勝には判らない。しかし彼は日本中、そして世界中を飛び回っている。そしてそこで撮った写真を巌勝に送っては口説き文句のようなメッセージを添えるのだ。
 しかしながらそれに対して巌勝が返事を送ることは稀であった。それでも縁壱がめげずにそれをし続けるのは無視が巌勝の照れ隠しであると知っていたからである。巌勝本人は断固として照れ隠しではないと主張するが、縁壱からしてみれば巌勝が縁壱のことを嫌っているどころか自分たち兄弟は相思相愛に違いないとすら思っている。
 もっとも、珍しく帰国した縁壱が巌勝の家に上がりこむ度に彼を思うままに愛したとしても、巌勝もそれを受けいれているのだから縁壱がそう思うのも無理はないのである。巌勝自身は気が付いていないが、むしろ前後不覚になった彼は積極的に縁壱を求めている。
 そうはいうものの、巌勝はそれを認めるわけにはいかなかった。彼の矜持がそれを許さないのだ。彼はあくまでも『双子の兄に行き過ぎた愛情を向ける困った弟』に『仕方なく』付き合って『やっている』という姿勢を崩さなかった。それは防衛本能とも呼べるものである。

 そうであったから巌勝は今回のメッセージも返信をせずに放置しようと思っていた。返信に迷うのなら送らなくてもいいだろう。そういつものように思っていたのだ。
 それをしなかったのは、気まぐれとしか言いようがない。

 巌勝はビールを飲むと夜空を見上げた。生憎の曇り空で、星はおろか月すらも姿を隠していた。
 再度スマホを見る。縁壱の送った写真の月を親指でなぞる。
「――――…………」
 そして、なんとなく。なんとなく、縁壱に電話を掛けた。

 一コール。
 二コール。
 三コール。

 巌勝は数え、六を過ぎて「何をしているんだか」と自嘲し切ろうとした。しかしそう思ったその時に「兄上?」と縁壱の声が鼓膜を揺らした。
「兄上。どうしたんです?」
随分と戸惑ったような声色に、巌勝は柄にもなく焦った。
「…………………いや。その……。お前が、ラインを送ってきたんだろう?」
「ええ。ええ………そうです。でも、今まで電話なんて……」
そこで縁壱は口を閉ざし、そして次の瞬間には打って変わって弾むような口ぶりで言った。
「ご安心ください。あと三日で、兄上のもとに帰りますから」
「っ、その言葉の……どこに、安心しろと……」
「ふふふ。三日です。三日ですから……。ですから兄上。寂しくても我慢してくださいね?」
「何をっ! 言っているのだ。そもそもお前が先に連絡を寄越したのだろう?」
「そうですとも。俺は寂しゅうございましたから……」
はあ、という縁壱のため息――熱のこもったそれに巌勝は思わず生唾を飲み込んだ。弟の悪ふざけには付き合ってられない。そう思っていたはずなのに、気付けば彼の言葉を待っていた。
「夜、空を見上げると月が見えるでしょう? そうするとあなたが側にいる気がするのです。俺は『寂しがり屋』なので、あなたを感じていたくて空を見る。
 でも月の光を腕いっぱいに満たしても兄上に贈ることはできない。だから、俺は兄上との逢瀬を夢見て眠るのです」

 ――兄上も、俺の夢を見てくださいますか。あと三日……俺の夢……俺との逢瀬を夢を見て、お待ち下さいませ。

 囁かれた言葉のドロリとした甘さに、思わず巌勝は電話を切った。
 キン、と夜風が耳を冷やす。鼓膜を震わせるのは夜の静寂だけだ。巌勝はベランダから部屋へと戻るとさっさと寝て忘れてしまおうと思った。
 しかし顔を水で洗おうと洗面所に行き、鏡に映った自分の顔を見て座り込んでしまう。真っ赤な顔の己の顔は、とてもじゃないが見れたものではなかった。

 あと三日。
 あと三日。落ち着いて眠れるだろうか。夢に縁壱を見ずにいられるだろうか。

 巌勝は負け戦になることを予感して大きなため息をつくのだった。