狐の嫁入り
空は晴れているのに雨が降っていた。げ、と黒死牟は顔をしかめる。天気雨――別名、狐の嫁入り。黒死牟を待つ『彼』が目を輝かせて雨にうたれているに違いなく、その予感にどうしようもなく苛立った。黒死牟は恨めしげに空を睨みつける。ご丁寧に虹まで天気雨の空を彩るその偶然はもはや嫌がらせのようだった。
ふう、とため息を一つ。
黒死牟は覚悟を決めて『彼』のもとへと向かう。雨粒をよける三日月文様の蛇の目傘は『彼』からの贈り物だ。しかしその傘は黒死牟の『尾』までは雨避けにはならない。『尾』を隠すことも出来たが黒死牟はそれをしなかった。彼の妖狐として矜持であった。
黒死牟は狐のあやかしである。
毛先にかけて赤く色を変える黒い毛並みの狐である彼は戦乱の世に産まれた。彼は人に化けると『巌勝』と名乗り、人を化かし、人と遊び、時に助けて、時に人を喰らっていた。人を喰っていたのは喰えば喰うほど力を得るからだ。そして力を得た彼は六つ目姿となり『黒死牟』と名を変えた。そうは言ってもすることは同じで、気まぐれに人を化かしたり遊んだり喰らったり、自身の長い長い命をもてあそんでいたのだった。
百余年あまりを生きた後、彼は力ある侍により調伏させられ刀の中に閉じ込められた。不覚であった。強い侍に出会ったと浮き立つような心地で一戦したらあっさりと調伏させられた。その侍の額に浮かぶ炎のような痣と、赫く染まった刀を思い出すと胃が痛む。何処にも行くことが叶わぬと不貞腐れて日がな眠って過ごす日々が続く。
しかしながら、驚いたことに人間は刀の中に閉じ込められた黒死牟のことを『神』と同一視し小さな祠をたてた。豊作の神だとか勝負の神だとか、色々なことを言い始めた人間を黒死牟はせせら笑う。笑えなくなったのは、次第に祠が力を持ち始め刀に閉じ込められていたはずの黒死牟が祠から十歩以内であれば動けるようになってからだった。どうやら人の信仰が強まれば彼は力を得るらしい。己の力が人間の心に左右されるなどらなんとも心許ないものだと歯噛みした。時代がめぐり、人々が祠の事を忘れ始めるとともに黒死牟が己の力を失い始めた時、このまま消えてしまうのかもしれぬと諦念と恨みを抱いたものだった。
そして今。
何故か黒死牟は一人の人間の男のもとに『嫁入り』しようとしている。かつては妖狐として、六つ目のあやかしとして、恐れられていたというのに。
「はぁああ………」
大きなため息をついて黒死牟はピタリと足を止める。目的地である日本家屋と門に立つ男――縁壱が輝かんばかりの笑顔でこちらに手を振っているのが目に入ったからだ。
縁壱は黒死牟を調伏した侍と同じ魂を持つ青年だった。それ故にか、人々から忘れ去られ消えかけていた黒死牟を『視る』ことが出来た。そればかりかすぐに黒死牟が『狐』であることを見破った。
六つばかりの幼い子どもだった縁壱が黒死牟の祠に迷い込んだとき、すぐにこの子どもがあの侍だと気づいた。この子どもを喰ってやろうかとも思った。しかし黒死牟はそれをしなかった。気まぐれに、この小さな子どもと遊んでやったのだ。
子どもは黒死牟によく懐いた。大きな尾を抱きしめ、ピクピクと動く耳を触り、ふくふくとしたまろい頬を赤くそめて喜ぶ。その幼い縁壱の姿に毒気を抜かれたのだ。それにもう人間から忘れ去られればこの世から消え去る運命の中、この子を喰ったところで何になろうか。
そんなふうに思いながら、ひと月ばかり遊んでやっていると幼い縁壱は黒死牟に言った。
「もうこのままお家に帰らなくてもいい。ずっとお兄さんと遊ぶ」
それを聞いて黒死牟は「ああ」と気がつく。うっかり黒死牟は縁壱を『神隠し』させていたらしい。
ふむ。と考えた黒死牟は縁壱を家にかえすことにした。そしてそのときに泣いて嫌がる縁壱が面倒で適当な約束をしたことを後悔することになるなど、このときの黒死牟は思ってもみなかったのだ。
縁壱は言った。
「俺が立派な男になったら、お兄さんを迎えに行くから。そしたら俺とずっと一緒にいて」
それを聞いた黒死牟は言った。
「ふふ。お前が私を『覚えていれば』、そして私をこの地に縛る鎖を『断ち切ることが出来るのであれば』、お前の側にいてやろう」
「絶対に?」
「お前が『忘れなければ』な」
黒死牟はそう告げて縁壱の口を食らった。舌を差し入れ、ちゅるちゅると『記憶』を吸い取りペロリと飲み込む。縁壱は「ンッ、んん……っ」と小さく喘ぎ、やがて記憶を吸い取られコテンと意識を失う。
黒死牟は小さな彼を森の出口に寝転がせてやった。彼を見つけた大人たちがけたたましい音を立てる車に乗せて去っていくのを見届けると、ふう、と息をついて祠に戻る。縁壱が神隠しにあったことで人々が祠のことを思い出したため一時的に力を得たのはなんとも言えぬ皮肉であった。
それから十年余りが過ぎ、驚べきことに縁壱は本当に黒死牟を迎えに来た。祠の前に現れた縁壱は黒死牟を抱きしめ接吻をして言ったのだ。
「俺は貴方のことを忘れる日は一日だってなかった」
確かに記憶を奪ったはずなのに、と驚愕する黒死牟の眼の前で縁壱はパキンと刀を折ってみせた。その刀は黒死牟を閉じ込めていた刀だ。
「……え、」
黒死牟を縛っていた鎖がとかれ、随分と忘れていたあやかしとしての全ての力が全身にわたる。
「お待たせしてしまい申し訳ありません。しかし、これで貴方を繋ぐ鎖は断ち切られました」
「は? …何を……っ!」
縁壱は有無を言わさずに黒死牟の唇を奪う。吐息さえも許さぬ接吻に黒死牟は爪を立てて縁壱を引き剥がそうとするが、それすら叶わなかった。その力に確かにこの男がかつて己を封じた侍であることを知らしめられる。
「?! ッン、んんん゛〜〜っ!!」
長い接吻の中、黒死牟は再び彼に鎖をかけられるのを感じた。
「っ貴様、私に何をした」
唇が解放されると黒死牟は縁壱を睨みつけ問う。しかし縁壱はあっけらかんと言った。
「俺は何もしておりませんよ」
「ふざけるな」
「いいえ。ただ、約束が果たされただけです」
「約束……?」
そこで黒死牟は思い出す。確かに彼は言った。縁壱が黒死牟のことを『覚えていれば』、そして黒死牟を縛る鎖を『断ち切ることが出来れば』黒死牟は縁壱の側にいる、と。
何も言えず金魚のように口をパクパクさせる黒死牟に、縁壱は「貴方にはこのような小さな祠ではなくもっと広い場所をご用意致しますから」と微笑んだ。
「い、いらぬ……」
黒死牟はぎこちなく首を振る。その様子に笑みを深くした縁壱ははっきりと宣言した。
「拒否権はございません。三日後、太陽が昇っている間に俺のもとにお越しくださいませ」
そして縁壱は夢見るような、とろけた笑みを浮べて言ったのだ。
「まさか貴方みずから俺のものになってくださるなど。俺は幸せ者です」
「ま、まて……待て。私はお前のものになるなど一言も口にしてはおらぬ」
「いいえ。貴方みずから約束をした。それが果たされた。貴方は俺のものです。そして、俺は貴方のもの。俺たちは、めおととなったのですよ」
全身を撫で回す縁壱の手を押さえ、黒死牟は「勝手を言うな…」と小さく呟く。そんな彼の抵抗をものともせず、縁壱はちゅ、と黒死牟の額に唇を落とした。フイと顔をそらすが、縁壱の言う通り『神』と『人』との間で交わされた『契り』に縛られてしまったことを、黒死牟は悟ってしまった。だからもう、黒死牟は縁壱の言う通りにするしかない。
これが数時間前のことだ。
黒死牟は改めて瞳を輝かせる縁壱を睨みつける。威嚇するように尾を膨らませてみせるが、縁壱は「愛らしゅうございますね」と微笑むばかりだ。
「言っておくが、もしもこの私を使役しようとすれば。すぐにお前の喉笛を食いちぎってやる」
「使役など! 貴方はそばにいてくださるだけで良いのです。………貴方に殺されるのも悪くないが」
うっとりとした縁壱の言葉に黒死牟は思い切り顔をしかめ、それから横柄に「早く部屋へ案内しろ」と命じた。縁壱は「かしこまりました」と嬉しそうに黒死牟の手を引くのだった。
「ずっと……ずぅっと昔から、貴方を俺のものにしたくて。俺がいない間に誰かの手付きにならぬよう、刀に閉じ込めておいたかいがありました」
そう呟いた縁壱の声が黒死牟に届かなかったのは、もちろん縁壱の意図するところである。