てのひらに恋
縁壱は巌勝の手が好きだった。六つになる縁壱と十五も歳の離れた兄の手は硬く節くれだっている。その硬さが好きだったのだ。
縁壱が覚えている巌勝の一番古い記憶は庭で木刀を振る姿だ。一心不乱にまっすぐ前を向いて剣を振る姿は綺麗だった。飛び散る汗はキラキラと輝いていて、彼の息遣いだけが耳に入る。縁壱はそんな巌勝の姿から目を離すことができなくなる。いつだってそうだった。そして巌勝は縁壱の姿を見つけると柔らかい顔で「縁壱」と名を呼ぶ。そして汗を拭いポンポンと頭を撫でくれるのだ。縁壱はその手で触れられるとドキドキと胸が高鳴り、これが「恋」だと知った。そして埋められない年齢の差に眉を下げてしまうのだ。
一方の巌勝は「縁壱の手は柔らかく、優しい手だな」と微笑む。
「唇のように柔らかい」
「唇?」
縁壱が不思議そうに首を傾げて己の唇をふにふにと触ると、巌勝は「ふふふ」と笑う。そして「柔らかく、美しく、触れてみたくなる」と言い、人差し指で一瞬だけ、唇に触れた。巌勝が触れた場所が熱くなり、その熱が全身にまわる。顔が熱くなり頭がぼうっとなった。
ふと巌勝の唇が目に入る。弧を描く唇は薄く、そしてとても魅惑的に見えてきた。縁壱は無意識にごくりと唾を飲み込み「兄さんの唇は、柔らかい?」と指を伸ばす。
「どうだろう」
しかし巌勝はいたずらっぽく笑い縁壱の指から逃げてしまう。
そして、そっと縁壱の耳に顔を近づける。縁壱の小さな耳に湿った息がかかった。縁壱は「あっ」と声を上げ、その様子にくすりと笑いをこぼしてから巌勝は囁いた。
「また今度……今度の土曜日の夜、九時に兄さんの部屋においで。確かめさせてあげるから」
――――父さんと母さんには秘密だ。
それだけ言って巌勝はするりと縁壱から離れていった。縁壱の耳には巌勝の息遣いがいつまでも残っていた。