願い継ぐ
炭十郎には十五歳になる長男がいる。長男――炭治郎は妹や弟たち想いの優しい子に育った。その十五歳になった息子を見ていると、炭十郎はある少年を思い出す。継国巌勝という少年だ。
彼は優等生で生真面目で、一度懐に入れたものにはとことん甘く世話焼きな性格をしていた。そして、炭十郎が息子と同じ歳――十五歳だった時、巌勝はいなくなった。
炭十郎はそのことが何時までも喉の奥に刺さった小骨のようにひっかかっている。
炭十郎が九歳になった年の夏の終わりの日に曽祖父が亡くなった。曽祖父である炭吉はとても穏やかな人で、とても明るい人だったらしい。らしい、というのは、実際のところ炭十郎は元気だった頃の炭吉のことはあまり知らないからだ。当時の炭吉は家から出ることはあまりなく、そして炭十郎のことをずっと『よりいちさん』と呼んでいた。
「よりいちさんってだあれ?」
炭十郎が祖母に訊ねると、祖母は「ばあばも知らないの。でも、ばあばのお父さんの大切なお友だちなのね」と微笑んだ。
炭吉は炭十郎を見るとしわくちゃの手で両手を握り「よりいちさん、来てくだすったんですね」と破顔する。そして縁側へ通して炭十郎に色々な話をしてくれた。畑仕事のこと。娘のこと。妻のこと。色々な人との出会いを話してくれる。その話を聞くのが炭十郎は大好きだった。
炭吉が亡くなる数ヶ月前、夕日が美しい日に炭吉は炭十郎に――いや、よりいちという男に言った。
「よりいちさん。あなたとの約束を果たすのは私ではないようだ」
炭十郎が「え?」と訊き返すと炭吉はハッとしたような顔で炭十郎をまじまじと見る。
「お前が代わりに約束を果たしてくれ。縁壱さんはお兄さんに会いたがっている。どうか、どうか。うちの屋根裏の奥に眠っているんだ。ずっとずっとお兄さんと再会するのを眠ったまま待っているんだよ。かわいそうな縁壱さん。お前が会わせてやってくれないか」
曽祖父のその様子に炭十郎は言葉を失った。曽祖父の瞳はらんらんと輝き、声はしゃがれだいつもの優しいそれではなく青年のように快活としている。目の前にいるのが己の曽祖父だなんて思えない。しかし炭吉は続ける。
「俺はもうながくない」
「そんな………こと、言わないでよ」
「ああ……炭十郎。お前は優しいんだね。でも自分の命のながさは分かるんだ。だから――あの舞や耳飾りを――太陽の『祈り』を継承してくれたように、縁壱さんの『願い』もつないでおくれ―――。
―――いいかい。縁壱さんのお兄さん――巌勝さんが現れたら、どうか蔵にある『彼』に会わせてやってほしい。二人きりで……きっと巌勝さんなら分かるはずだから」
「『彼』って誰のこと? 屋根裏に何があるの?」
「『彼』は箱の中で眠っている――お前なら見つけられるはずだ」
そう言って炭吉は炭十郎に鍵を握らせた。
「これは?」
「再会の為の『鍵』だ」
炭吉は炭十郎の手を握り、何度も「必ず約束を果たしてくれ。何年経っても構わない。何世代に渡っても構わないから」と言った。それが炭吉の遺言になった。
炭吉の葬儀の夜、炭吉の言葉が頭から離れなかった炭十郎は屋根裏に行って炭吉の言う何かを探した。窓から差し込む月明かりに照らされた屋根裏はどこか神秘的だった。そして――その時のことは何年経っても彼自身にも説明がつかないのだが――炭十郎は屋根裏の奥にあるものを見つけ出した。まるでそこにあるともとから知っていたかのように、まっすぐにそれに向かって手を伸ばしたのだ。
大きな箱だった。炭十郎よりも大きな箱だ。
箱には『縁壱零式』とあった。
中を確かめると、そこには人形が眠っていた。耳飾り――炭十郎の父が大切にしており、ゆくゆくは己が受け継ぐそれと同じ意匠の耳飾りをした侍の人形だ。左の顔が壊れてしまっており、そこからは埋めてあるはずの瞳が剥き出しになっている。そして額には鮮やかな文様が描かれていた。炭十郎の額に薄らとある痣に似ている。だから曽祖父は己のことを縁壱と呼んだのだと気づいた。
炭十郎は息を呑んだ。
懐かしいような、恐ろしいような、悲しいような、嬉しいような、相反する感情が一度に炭十郎を襲う。たまらなくなって炭十郎は箱を閉じる。いや、これはただの箱ではない。棺桶だ。眠りについている人形のための棺桶なのだ。炭十郎はそう思った。
同時に奇妙な使命感がむくむくと胸の奥から湧き出てくるのを感じる。眠り続ける『彼』を『彼の兄』に会わせてやらねばならぬと思った。でなければ、あんまり可哀想だ。炭十郎は自室に戻ると曽祖父から渡された『鍵』を月明かりに照らす。まるで自ら薄く光を放っているかのような不思議な美しさをまとっていた。
炭十郎はその夜に誓った。曽祖父の遺言――約束は、必ず自分が果たす、と。
それから六年が経ち、炭十郎は十五歳になった。
日曜日の昼――よく晴れた初夏の日。炭十郎は友人である煉獄が所属する剣道部が他校と練習試合をするというので応援しに行った。そこに彼がいた。炭十郎はひと目見て彼が巌勝だと分かった。まとう雰囲気こそ違えど、きっと彼が成長したら『縁壱』によく似た青年になるだろうと思われたからだ。
彼と接触するのは容易かった。煉獄を通して彼と会うことができたのだ。彼らは部活動を通して交友があったそうだ。巌勝は生真面目で優等生然としていた。警戒心が強く、しかしながらどこか隙のある人。それが炭十郎の印象だった。
煉獄は信頼できる男だと炭十郎を紹介した。それ故に巌勝は炭十郎を信用しているようだった。巌勝は言っていた。
「炭十郎は、まるで植物のようだな」
「それは褒めているのかい」
炭十郎が苦笑すると、巌勝は「褒めている」と至極真面目くさった顔をする。炭十郎はその顔を見るとなんだかおかしくなって弟たちにしてやるみたいにぐりぐりと頭を撫でてやるのが常だった。そうすると巌勝はキョトンとする。そんな顔をすると幼く見えるのが炭十郎は好ましく思っていた。
炭十郎が巌勝を『縁壱』に会わせたのは彼を見つけてから半年経ってからであった。初対面で炭十郎は巌勝に訊いた。
「もしかして、親戚に『縁壱』って人はいないかい?」
すると巌勝は首を傾げて、いないと言う。
「君にそっくりの『人』を知っていたから。もしかしたら何か縁があるんじゃないかと思ったんだ」
「ああ。なるほど……。聞いたことはないが、母方の親戚とは暫く会っていないからもしかするとそちらの親戚かもしれないな。竈門とはその『縁壱』さんはどんな関係なんだ?」
炭十郎は言葉に詰まらせ「曽祖父の」と答えた。
「炭十郎のひいお祖父さんか」
巌勝は「流石にそこまで遡ると縁者にいるか分からないな。すまない」と困った顔をしていた。
それから炭十郎は巌勝に『縁壱』のことを話しだせずにいた。いざ巌勝に会うと『屋根裏にある人形に二人きりで会ってくれ』と言い出すことは出来なかったのだ。そうして季節が巡り、秋になって炭十郎は巌勝にとうとう打ち明けた。炭吉の七回忌を行った時にやはり曽祖父の遺言を、約束を、果たそうと思ったのだ。
炭十郎は巌勝を自宅に招いて言った。
「巌勝は俺が変なことを言っていると思うだろうが、聞いてくれないか」
曽祖父の遺言で『巌勝』という男と『縁壱』を引き合わせて欲しいと言われたこと。『巌勝』は『縁壱』の兄であるらしいこと。その『縁壱』は屋根裏にある人形であること。それらを巌勝は黙って聞いてくれた。最初は驚いたような顔をしていたが、茶化すこともなく真剣な顔で炭十郎の言葉を最後まで聞いていた。
「……炭十郎はひいおじいさんの事を慕っていたんだな」
巌勝は訊く。
「ああ。……俺のことをどこまで分かっていたかは判らないが、優しくて明るい人だった。俺は曽祖父のことが好きだったよ」
そうか、と巌勝は目を伏せて言った。
「そうか。じゃあ、その『縁壱』とやらに会うよ」
「いいのかい?」
「ふふ。そのために俺を家に招いてくれたのだろう」
巌勝は微笑む。
「それに、ひいおじいさんの遺言を叶えてあげたいという、炭十郎、君の気持ちはとても素晴らしいと俺は思うから」
屋根裏で『縁壱』の入った箱をあける。何年ぶりだろうか。炭十郎は改めて『縁壱』の姿を見て、心がざわめいた。やはり『縁壱零式』は物言わぬ人形なんかではなく、命を宿しているような気がしてしまう。ちらりと巌勝を見る。彼は目を見開いて『縁壱』を見ていた。
「似ているな。…俺に」
炭十郎は巌勝に『鍵』を渡して「二人きりで会わせてやって欲しいというのが曽祖父の遺言だったんだ」と告げる。
「あ、ああ……そうなのか……では、しばらくしたら俺がこれを仕舞っておこう」
巌勝は言う。その目は『縁壱』を見つめたままだった。どこか浮ついたような彼の様子にぞくりとした。取り憑かれてしまうのではないかと、何故だかそう思われたのだ。
「俺も様子を見に行くから」
それだけ言って、炭十郎は屋根裏を出た。
一時間が経っても巌勝は降りてこなかった。しびれを切らした炭十郎が屋根裏に近づくと、微かな声が聞こえてきた。
「ぁ……は、あ……ン、っ、より…ぃ……う、ぅ……」
うめき声のような喘ぎ声のような、艷やかな巌勝の声だ。炭十郎は顔に血が集まるのを感じた。見ないほうが良いのかもしれない。そう思い手が震える。しかし少しの逡巡の後、炭十郎は階段を昇った。
おそるおそる屋根裏の様子をうかがい、そして巌勝の姿をみつけると思わず「巌勝!」と大きな声を上げてしまった。巌勝は『縁壱零式』の下敷きになるような形で倒れていたのだ。慌てて駆け寄り真っ青な顔をしている巌勝に声をかけるが、その瞳は炭十郎を捉えることがなかった。
炭十郎は覆いかぶさる『縁壱零式』の下から巌勝を救い出そうとした。すると『縁壱零式』はピクリと動き、巌勝に六本の腕を絡ませ炭十郎の方を見た。丸い目、水晶の嵌まったそれが炭十郎をとらえたのだ。カラカラ、キリキリと歯車の音を立てながら『縁壱零式』は何か言いたげに口を開けては閉める。まるで生きているかのようだった。
「たん…じゅ……ろ」
「っ! 大丈夫かい?」
「ん……すまない………鍵をさしたら、倒してしまって」
真っ青な顔の巌勝はずるずると『縁壱零式』の下から這い出て、それから『彼』を丁寧に座らせる。
「よく出来た―――からくり人形だな」
そう笑う巌勝の笑顔はあまりにも歪だった。炭十郎は返事もできずに、ただ巌勝の手を握った。握っていないと、今にも消えてしまいそうだと思ったのだ。
それから数ヶ月が経った満月の夜。屋根裏で眠る『縁壱零式』が壊れた。何かが落ちるような物音がしたので炭十郎が見に行くと、首が壊れ顔が崩れ落ちた『縁壱零式』が月光を浴びていたのだ。侵入者の痕跡はなく両親は経年劣化が原因だろうと言っていた。炭十郎だけは『彼』は兄に会うという願いを叶えたから旅立っていったのだと確信していた。
壊れた『縁壱零式』は人形供養に出されることとなった。両親は鍵も一緒に供養するつもりらしい。炭十郎は巌勝と連絡を取ることにした。電話で『縁壱零式』が壊れたこと、供養に出すこと、そして鍵を返してほしいということを伝えるためだ。しかし彼の家の電話番号は既に使われていないと無機質な声が炭十郎に告げる。炭十郎の胸にポツンと黒い墨汁が落とされ、瞬く間にそれが広がっていく。言いようのない不安に駆られ煉獄に連絡を取ると、彼にとっても寝耳に水だったようだ。
数日後、煉獄が巌勝の同級生から聞いた話によると、巌勝は両親との家族旅行中に自動車事故にあったそうだ。彼の両親は即死だったそうだが、彼は奇跡的に無傷だったらしい。そして彼は遠縁の親戚のもとに引き取られたということだ。
「その親戚というのが―――」
煉獄はふと思い出したかのように炭十郎に訊いた。
「炭十郎。君は以前、巌勝に『縁壱』という男を知らないかと聞いていたな」
『縁壱』という名にどきりと心臓が跳ねる。炭十郎が是と答えると煉獄はやはりと頷き口を開く。
「その親戚というのが『継国縁壱』という男らしい。なんでも、心労がたたったのか巌勝は学校で倒れたらしくてな。そんな時にふらりと学校に現れて巌勝を連れて帰ったという話しだ。大事そうに横抱きにして車まで運んだというので随分と目立っていたらしいぞ。背が高く、よく巌勝と似ていて……癖のある長い髪を後ろでまとめて、左の額には痣があったと言っていたな」
そして煉獄は声を潜めて言った。
「しかし――巌勝の事を『兄上』と呼びかけていたという話もあってな……教師と話しているのを聞いた生徒がいたらしいんだが……相当な変わり者だという噂だ。その日から巌勝も学校には顔を出していないらしいが、彼も縁壱という男と暮らすことには納得しているんだそうだ」
炭十郎は言葉を失った。
「ただ――誰も巌勝がどこに引っ越していったのか、どこに転校したのかは知らないんだ」
煉獄は言う。
「俺は思うのだ。炭十郎。君が巌勝と縁壱との縁を結んだ」
「――――え?」
「巌勝の身に起こった事故は不幸に違いないが……天涯孤独となるはずだった巌勝の前に、今まで会ったこともない親戚が現れたのは君のひいお祖父さんの遺言があったからなんじゃないかって、俺は思う」
縁というものは不思議だな、と煉獄は優しく笑った。
数日後、人形供養に出された『縁壱零式』は力を失い、ただのからくり人形のようだった。まるで魂の抜け殻のようになったそれを見ながら、炭十郎は何度も何度も煉獄の言葉を反芻していた。俺が『縁壱』と巌勝を結んだ。俺が結んだ――『縁壱』と巌勝を――曽祖父の遺言――『約束』――必ず果たすと約束した――『兄』との再会――壊れたからくり人形――絡み合うように倒れていた二人――巌勝の『喘ぎ声』――牽制するかのような『縁壱』の目――。
煉獄は「剣道を続けていれば彼にまた会える気がするよ」と言っていた。
しかし、炭十郎は思ったのだ。
きっともう巌勝に会うことはないだろう。なぜならば、『縁壱』が『兄』を見つけて連れて行ってしまったのだから。
それから何年も経ち、炭十郎は大人になった。葵枝という女性に出会い結婚して子宝にも恵まれた。長男は弟や妹思いの優しい子どもに育ち、十五歳になった。今年からは彼にもヒノカミ神楽を教えるつもりだ。
そう、息子は十五歳になったのだ。
十五歳といえば、炭十郎はいなくなってしまった巌勝のことを思い出す。からくり人形を思い出す。そして曽祖父の遺言を思い出す。
――あの舞や耳飾りを、太陽の『祈り』を継承してくれたように、『願い』もつないでおくれ。
炭十郎は息子を呼び、そして言った。
「炭治郎。今日からお前にヒノカミ神楽を教えようと思う。
―――いいかい。我々のつとめは『継ぐ』ことだ。太陽の神様の『祈り』と『願い』を『継ぎ』『つなぐ』ことだ。父さんも、そしておじいさんも、そのおじいさんも……そうやってきた。約束なんだ」
炭治郎は「約束?」と繰り返す。
「ああ。約束なんだ。果たさなくてはならない約束」
「じゃあ、父さんもずっと太陽の神様との約束を守ってきたんだね」
「………」
炭十郎の脳裏に、まるで生きているかのような『縁壱零式』の姿が浮かんだ。
「父さん?」と息子に呼ばれて我に返る。
「ああ。そうだ。父さんも約束を果たした。つとめを果たしたんだよ」
そう言って炭十郎は微笑むのだった。