愛してくれるな
悪い兄さんになろうと思った。
弟を傷つける、最低最悪の兄さんになろう。縁壱を手籠めにしてやろう。
生まれ変わった巌勝はそう決めた。高校三年生の一月、雪の降る日。寒さにほんのりと頬を紅く染めた縁壱から「産まれる前からずっと貴方のことが好きです」と微笑まれたその瞬間に決めたのだ。
かつて鬼であった長い時よりも前――弟と共に鬼を狩っていた数年間。その頃、巌勝は弟に抱かれていた。ほぼ弟に手籠めにされたようなものであった。それは痣を持つ者が皆死ぬ運命にあると判ってから始まった行為だった。どうすることも出来ない己の命の蠟燭の短さに心が乱され、居ても立っても居られなくなった巌勝は一人で剣を振っていた。何も考えなくても良いように、ひたすらに振っていた。
そこに現れたのが縁壱だった。
縁壱は言った。
「我々に残された時間はあまりにも少ない」
巌勝は言った。
「ああ。だから――私はじっとしていられない。少しの時間も無駄にしたくないのだ」
だからどこかに消えてくれ。そんな言葉を言外に含んでいた。しかし縁壱は静かに巌勝に近づくと、そっと兄を後ろから抱きしめた。
「私も同じ思いです。少しの時間も無駄にしたくなくて、じっとしていられなくて、貴方のもとに馳せ参じました」
縁壱は巌勝の耳を舐めあげる。
「私には貴方しかいない。ひとつに戻ろう。兄上」
巌勝はそうして縁壱に手籠めにされた。
ろくな抵抗も出来なかった屈辱から、巌勝は縁壱に情けをかけてやったのだという姿勢を貫いた。実の弟にその身を貫かれ、あまつさえ快感に身悶えたなど認めたくなかった。
しかしその夜から、縁壱は巌勝のもとを度々訪れてこう言う。
「俺に――この哀れな男に情けをかけてくださいませ」
断られるなどと思っていないその顔。幸福と悦楽を享受しているかのようなその顔。その顔で迫られるとたまらなくなる。のばされた手を拒むことが出来なくなる。
巌勝は抱かれ続けた。
死ぬなら今、この瞬間に。そう譫言のように囁く弟が哀れだったのか、憎らしかったのか、まさか愛おしいとでも思っていたのか。もはや解らない。鍛錬をして、色欲に溺れて、死から目をそらす日々はあまりにも甘美で苦しいものであった。
だから生まれ変わった今度は俺が弟を手籠めにするのだ、と決めた。
それは仄暗い悪意だ。今生で弟が兄に向ける無垢な好意が疎ましくて、それを穢してやりたかった。
縁壱が巌勝に抱く好意は清らかな水のようで、どこまでも透明で濁りがなく澄んでいる。巌勝は、そこに一滴の墨を垂らしてやるというわけだ。
大学生になると、二人は実家を出てシェアハウスを始めた。仲が良い双子だと言われたが、とんでもない。巌勝はいつだって縁壱のことが嫌いなのだ。だが縁壱を手籠めにするならシェアハウスは都合がいい。提案したのは巌勝だった。
その提案を聞いた時の縁壱の顔ときたら、己を悪意でもって手籠めにしてやろうという極悪人の兄の企みに気付きもせずに「嬉しいです」と頬を赤く染めて微笑む。馬鹿なやつ、と巌勝はせせら笑った。
シェアハウスを始めたばかりの時、どこか浮ついた縁壱は巌勝に言った。
「兄上、兄上。好きです。貴方のことがずっと…鬼狩りをしていた時分から、好きだ」
「そうか」
巌勝はそれだけ返す。すると縁壱は真剣な顔で訊いた。
「兄上は――あの時…俺に…………抱かれて、嫌でしたか?」
その言葉にギクリとして視線を彷徨わせる。まさか、企みに気付かれたのだろうか。いや、そんなことはあるまい。あくまで冷静に、巌勝は答えた。
「あの時は――少し、可怪しかったと……今にしてみるとそう思う」
「可怪しかった……ですか?」
「ああ」
それだけ言って巌勝は口を噤む。縁壱は何か言いたげな顔をしていたが、やがて眉を下げて「そうですか」と呟く。
その顔を見て失敗した、と巌勝は焦る。そうではなく、思わせぶりな態度を取って、手籠めにして、そのうえでお前に向ける愛など持ち合わせていないと言ってやる。ただの性処理に過ぎぬ。それどころかお前が嫌いだと言ってやる。そうするつもりだったのに。
「っ……、俺は……鬼と、なったのだぞ。分かっているのか? あの時、俺は何かに手を伸ばさずにはいられなかった。それは何でも良かった。だからお前が俺に伸ばした手を――」
ああ、違う。何を言っているのだ。こんなことを言おうとしたわけではないのに。巌勝は口ごもった。だらだらと汗が流れる。
すると、ぎゅうと縁壱が巌勝を抱きしめた。
「………なんだ」
「…………………………」
「…………なんだよ」
ぐず、と鼻をすするような音がして、巌勝は唇を真一文字に引き結ぶ。腹の奥がむかむかとした。たまらなくなって、縁壱の背に腕を回してぎゅうと力を込めた。絞め殺す勢いで、ぎゅうぎゅうと力を込める。
「ふふふ……痛いですよ」
すると縁壱は擽ったそうに笑う。コロコロと変わる縁壱の感情に、そして力を込めたにも関わらずちっとも痛がらない様子に、イライラして、巌勝はさらに力を込めた。もっと痛がれ、と念を込めて。
「甘えん坊さんですか?」
フニャフニャと縁壱が言うので巌勝は「違う!」と身体を突き放した。
「顔、真っ赤」
「………うるさい」
巌勝はほんのりと赤い縁壱の両頬をつまんでやる。縁壱はだらしなく笑っていた。やっぱりコイツ、嫌いだ。絶対に手籠めにして傷つけて捨ててやる。巌勝は決意をあらたにした。
それから時が流れた。
「…………………えっと」
兄上、と困惑しきった縁壱が巌勝を見上げる。その表情に胸がすく思いだ。
「ふふふ」
巌勝は上機嫌であった。なんせあの縁壱はフローリングに仰向けに倒れ、己は馬乗りになって縁壱の自由を奪っているのだから。
彼らが大学生となりシェアハウスを始めてから、あっという間に数週間が過ぎ、数ヶ月が過ぎ、気付けば一年が過ぎていた。流れ行く月日の中で、このままでは計画崩れになってしまうと焦り始めた巌勝は遂に誕生日に弟を手籠めにしてやると決める。
二十歳の誕生日、アルコールが解禁となるので縁壱にたんと酒を飲ませる。そして前後不覚になったところを襲うのだ。前世の縁壱は「酒は好みませぬ」と言って舐めるだけだったのを巌勝は覚えていた。あれはアルコールに弱い。しかし自分が注いだ酒を拒むことはしまい。巌勝はそう確信していた。
そうして迎えた当日、二人は巌勝の予想をはるかに上回るハイペースで酒を飲んでいた。ほぼ巌勝が飲ませたのだが、縁壱が澄ました顔をしているのでどんどん飲ませたのだ。そしめ縁壱が飲んでいるので巌勝自身も飲んだ。
巌勝はかつて酒豪であったが、この若い身体ではいささか飲みすぎたらしい。ああ、ふわふわとした気分になってきたな、と水を飲んで、また酒を注ごうとする。しかし縁壱はグラスを遠ざけた。お、と巌勝は期待に満ちた目で縁壱を見た。ようやくアルコールがまわったのか。そう思ったのだ。
「兄上と一緒に、またこうしていられるなんて、しあわせです」
縁壱は舌っ足らずに言った。顔が真っ赤に染まっていて目もトロンとしている。よし、今だ、ようやく酔っ払ったらしい、今なら縁壱を倒せる。巌勝はそう判断した。そして縁壱をフローリングに押し倒したというわけだ。
「………兄上が酔っておられるのは、珍しい」
仰向けに倒れた縁壱が巌勝を見上げてそう言った。
「そうでもないさ」
「いいえ。酔っておられる」
「酔っているのはお前だろう」
巌勝はフフンと得意げに笑い、するりと手のひらを縁壱の胸に滑らせた。そしてむにむにと揉む。
「………うん……あいかわらず、すばらしい身体だな」
思わず口にしてしまい、慌てて「忘れろ」と言う。縁壱はひっくり返った声で「あにうえ」と呻いていた。
「お、お止めください」
「止めない」
「っ、後悔……するのでは?」
縁壱は顔を歪めて巌勝の手首を掴み拒んだ。
その顔にゾクゾクとした。そうだ、この悔しがる顔が見たかったのだ!
「後悔などしない」
ぺろりと己の唇を舐めて湿らせる。そして、ほんの少し腰を揺らしてやった。縁壱は身体を強張らせ信じられないものを見るような目で巌勝を見上げる。その目線が心地よい。
「よく聞け。私はな、お前にずっとこうするつもりだったのだ」
巌勝は言った。まるで悪巧みを披露する悪役のように。
「ずっとずっと、お前を手籠めにしてやるって、決めていた」
「え?」
「ふふふ。お前は私のことを好きだといったな。だから、手籠めにする。俺は悪い兄さんになると決めたのだ」
「ま、ま、まってください、兄上。自分が何を言ってるのか分かってます? お、俺は…おれは、嫌ですよ」
弟から「嫌だ」という言葉を引き出した巌勝はますます上機嫌になった。
「お前が嫌でもヤる。ははは。いい気味だな」
「う゛っ、ちょっと、腰動かさないでっ……!」
本格的に焦り始めた縁壱を押さえ、巌勝は耳元でそっと「勃ってるくせに」と囁いた。
「っっ!」
その瞬間、ぶわりと縁壱の顔が赤くなる。
「ざまあみろ。縁壱」
巌勝は嘲笑った。
「お前の私への好意なんて、愛なんて、今も昔も、所詮は性欲だったと思い知るがいい」
言い終わるや否や、ポツ、と縁壱の頬に雫が落ちた。
ポツ、ポツ、ポツ、と断続的に落ち続ける。はて、どうしたことか、と巌勝は首を傾げた。どうして自分は泣いているのだろうか。涙が止まらないのだろうか。
「兄上」
縁壱の手がのび、頬を拭う。パシンとそれを払うと、困ったように笑う。余裕のある態度に腹が立った。
「……兄上、俺はずっと貴方のことが好きですよ」
「嘘つきめ」
「貴方を愛していますよ」
「それは愛ではない」
「貴方に性欲を抱きます」
「………」
「俺は口下手だから、ちゃんと伝わっていなかった。申し訳ありません。悪い弟でごめんなさい。甘えてばかりでごめんなさい」
縁壱は上体を起こすと、巌勝の腰を抱いた。
「でも、俺は貴方に恋をしているし、愛しているし、抱きたいと思うんです。勘違いしてくれるな」
「じゃあ抱けばいい。俺を抱け。縁壱」
駄々をこねる巌勝の額に縁壱は唇を落とす。聞き分けのない子どもにするようなそれに怒りがわく。その怒りは涙となって両目から溢れていくのだから鬱陶しい。
「抱かない」
「何故だ。抱け。勃たせているくせに。欲情してるくせに。抱けよ」
巌勝は暴れようとするが、縁壱に抑え込まれ身動きが取れなくなった。
「こんな貴方を抱いても意味がない」
「この俺がお前に抱かれなければ意味がないのだ」
そして巌勝は憎しみでいっぱいになった目で縁壱を睨みつけ、涙を流しながら言った。
「お前が俺を愛するなんて、俺に恋するなんて、赦せない」
そんな兄に、縁壱はほんの少し傷ついたような顔をして「今はそれでも構いませんよ」と呟いた。しかし、それから勝ち誇ったような顔で告げる。
「時間はいくらでもあるのです。俺はもう同じ過ちはおかさない。貴方が降参するまで――いや、降参したって俺の愛も恋も貴方に注ぎ続けます。逃げ場は作らせない」
――ああ、本当に。
――本当にお前が大嫌いだよ。縁壱。
巌勝はくしゃりと顔を歪めた。