鬼のこと
かつてこの島国には『鬼』がいた。
鬼伝説が残る地に生まれた双子の兄弟――巌勝と縁壱は人を食らう『悪鬼』と『鬼狩り』の物語を聞いて育った。
幼い縁壱は「兄さん。鬼って本当にいるのかな」と巌勝に言った。
「鬼なんていない」
「……どうして?」
「あれは伝承だ。おとぎ話だ。フィクションだ」
巌勝は早口で言った。縁壱は巌勝のことをじっと見て「おれは、そう思わない」と、はっきりと口にした。その力強さに巌勝はたじろぎ、それから「勝手にしろ」と言い捨てた。
縁壱は『鬼』に強い興味があるようだった。それは執着とさえも言える、強い感情だ。
それから数年が経ち、大学に進学した彼は『鬼』を研究しはじめた。
巌勝はそんな弟がいよいよ疎ましく、また恐ろしくもあった。それは輪廻をこえて『狩られている』かのような心地になるからである。
よもや、この男は、本気で『鬼』を信じているのではあるまいな。『鬼』とは子供だましのおとぎ話――後世の者の語る作り話――誰も知らない物語――忘れ去られた者たちの歴史――誰であろうとも思い出すことなどまかりならぬと定められた運命である。
ああ、お前は俺が断頭台にのぼるべき罪人であることを思い出させる。憎い弟。しかし、本当に憎いのは、それでもなお、お前から離れられない俺の心である。
巌勝はいつだって死にたいような気分であった。
縁壱は言った。
「『鬼』とは、一説によると、忘れ去られた者たち――まつろわぬ者たちであるらしい」
「まつろわぬ者……」
「国造りの物語です。古くヤマト政権の時代、彼らに服従しなかった者――まつろわぬ民たちが滅すべき鬼とされた」
「そうか。なら『鬼狩り』は国の英雄か、国作りの神か」
「いいえ。それは違う」
「なぜ? なぜそう思う?」
「なんとなく……」
「いっぱしの研究者がなんとなく、なんて駄目だろう」
巌勝がからかうと縁壱は難しい顔をして黙りこくった。
「そもそも『鬼』は霊魂を指す言葉でした。形のないものです。
退治されるべき『鬼』とは、この国で人として生きることを拒絶され殺された者たちの霊魂で――生き残った者たちの『おそれ』の具現化なのではないか。そう思うのです」
「…………」
「そうして各時代でこの国から排除された者、あるいは取りこぼされた者たちが、いつかこの国に復讐しにくる。そういった『おそれ』が『鬼』を生んだ」
「いけないな。それでは鬼狩りが悪者になってしまうではないか」
すると縁壱は拗ねたような顔で言った。
「どちらが悪者か、というのは、おれは考えません。鬼狩りは鬼によって脅かされた者たちの抵抗で、鬼は社会によって脅かされた者たちの抵抗。
どちらも生き残るため、そして自分の世界を守る為に必死だった」
「お前はなぜ、鬼にこだわる」
巌勝は問うた。
「おれは……『鬼』について知りたい。『彼ら』がどんな者たちで、何を求めていて、何を苦しみとし、何を喜びとしていたのか。おれは知りたいのです。そう思うことは、愚かしいでしょうか。このおれの望みは『遅すぎる』とお思いですか」
縁壱は答えた。
巌勝は「俺はお前のことが嫌いだよ」と吐き捨てた。