NOVEL short(1000〜5000)

Beautiful New Day

 巌勝はムムムと眉毛を寄せて手元を睨みつけた。正確には、指。もっと言えば左手薬指。さらに正確に言うならば、その指を飾るリングを睨みつけていた。
 至ってシンプルなデザインのリングは左手薬指にぴったりと収まり、まるで「ここが居場所ですよ」と言わんばかりにキランと輝いている。巌勝にはそう見えた。それがなんとも照れくさくて、また、憎らしい。


 この春から巌勝は大学生となった。進学とともに巌勝は実家を出て、双子の弟とルームシェアをしている。
 慌ただしい引っ越しから三週間が経ち、咲き誇っていた桜も葉桜となった。そんな時に巌勝は「一緒に出掛けませんか」と弟に声をかけられたのだ。
「出掛けるって……どこに」
巌勝が聞く。
「えーと…スーパーまで……食材を…」
「冷蔵庫の中はいっぱいだぞ」
「スーパー、の先の、公園まで…ウォーキングのために」
「ウォーキング」
「ウォーキングというよりも、散歩を…」
「散歩」
縁壱はしどろもどろになりながら顔を赤くさせた。
「その、せっかく落ち着いた頃ですし、近所を散策したくて。一人じゃなくて兄上と。二人で行きたいんです。目的はなくて――いや、目的は兄上と二人でいることです」
駄目ですか、と上目遣いで訊く縁壱の目は、言葉よりよほど雄弁であった。はっきりと「デートがしたい」と訴えているその目に巌勝は縁壱と同じように顔を赤くさせてしまった。あまりにも縁壱が恋の熱に浮かされたような顔をしていたからだ。
 巌勝は「俺も暇だし」だとか「お前がそんなに言うなら」だとか「引っ越したばかりだから散策もいいよな」だとか、言い訳のように次々と言葉を紡ぎ、最終的には縁壱の誘いに是と答えた。途端に縁壱の顔は輝き「嬉しいです」と花が咲くように笑顔を浮かべる。
 結局、縁壱の思うようになってしまったことに、巌勝はほんの少し悔しさを覚えた。そして出掛ける準備をしながら巌勝は思う。
(あの日――大学の合格発表の日以来、こいつはあからさまになった)

 大学の合格発表の日、縁壱の志望学部よりも巌勝の志望学部の方が発表が遅く、既に合格をもらっていた縁壱に見守れながら巌勝は合格発表を確認した。そして巌勝本人よりも喜んだのが縁壱だった。縁壱は巌勝に抱きつき何度も「おめでとうございます」と言った。そして「また同じ大学に通えるのが嬉しいです」と微笑んだ。
「一緒にルームシェアしましょう。同じキャンパスなのですし、節約にもなる」
「なんだ、大学に進学してまでお前の面倒は見ないぞ」
「でも、料理を作るのは俺のほうが得意です」
「……別に食えないものを作ってるわけじゃないだろ」
「兄上は俺の料理を美味しいって言ってくれるじゃないですか。俺は毎日兄上のために腕によりをかけます。ね、悪くないでしょう」
それを聞いた巌勝は思わず吹き出した。
「お前からの愛が重いな。潰れてしまいそうだよ」
その瞬間、縁壱の纏う空気が変わった。
「そうですよ」
縁壱のその声に、ドキリとする。
「俺の、兄上への愛は重いんです」
そう言って巌勝に一歩、近づく。吐息さえも分かるほどに距離を縮めた縁壱から巌勝は逃げられなかった。目をそらすことも許されない。ゴクリとつばを飲み込むと、縁壱が巌勝の頬に手の甲をあてた。
「好きです。愛しています。この愛がどんなものなのか、知っていますよね」
「っ、あ………」
巌勝の唇が震える。その唇に、縁壱はゆっくりと己のそれを重ねた。
「……俺は、待ちますよ。何年だって、何百年だって、待ちますから」
それに対して巌勝は何も言うことが出来なかった。

 そのままその日のことについては何も触れないまま今日に至るわけであるが、縁壱は不意にあからさまな好意を示すようになった。例えば指と指を触れ合わせてじっと見つめたり、うたた寝をする巌勝の頬をそっと指先で撫でたりなどといった控えめな触れ合いをする。例えば「兄上のそういうところが好きです」「兄上は綺麗だ」と恥ずかしがる様子も一切なく口にする。

(それに対して何も言わない俺も俺だが――)
 巌勝は大きなため息をついた。
 そして、ぐっ、ぱっ、と意味もなくこぶしを握ったり開いたりしながら呻く。セーターに着替え、貴重品を持った巌勝は、ふと思い出して左手薬指にリングをはめた。
 そのリングは縁壱からの贈り物でペアリングなのだそうだ。縁壱は「あなたの左手薬指にぴったりのはずです」とはにかんでいた。その時は「はめてみてください」とねだられても意地でもはめなかったが、なるほど、ぴったりだ。
「…………」
巌勝は難しい顔でリングを睨みつける。
 せっかく貰ったものを一度も着けないというのも、失礼だろう。しかしこれを着けるということは、つまり――そういうことになる。それはさけたい。
 しかし――。
 でも――。

「兄上?」
「ぎゃあ!」
 巌勝が悩んでいると、縁壱がひょこりと顔を覗き込んできて声を掛ける。側にいたことに気づかなかった巌勝は悲鳴を上げて体を跳ねさせた。不覚である。
「ん?」
そして縁壱が手元を見る。しまった、と慌てて手を隠そうとするが、時既に遅し。縁壱の顔がみるみる輝き、そして嬉しそうに言った。
「俺も! リング着けていきますね!」
巌勝の顔が真っ赤に染まる。
 きらん。
 リングが輝いた気がした。


 デートもとい散策は楽しかった。
 商店街を歩き、古書店や喫茶店を見繕った。公園は思いの外広く、神社は心地よい静寂に包まれていた。図書館は少々遠く、バスに乗る必要がありそうだ。
 言葉少なな彼らは、時折言葉をかわし、顔を見合わせ笑い合う。穏やかな一日だった。
 彼らはテイクアウトしたコーヒーを飲みベンチに座る。また今度図書館に利用者カード作りに行こう。その隣の公園も気持ちが良かったですね。お前はまた神社の猫に懐かれていたな。そんな他愛もない会話をした。
 ゆっくりと時間が流れていることがひどく不思議だった。楽しい時間というのはあっという間にすぎる。でも今は違う。この時間が終わるのが惜しいと感じる程には心地よいが、あっという間に過ぎ去ってしまうような名残惜しい時間とも違った。
 何故だろうか。巌勝はすっきりとした青空を見上げて小首をかしげた。

「兄上」
縁壱が巌勝の顔を覗き込む。みれば、思いのほか真面目くさった顔の弟がいた。
「兄上。そういえば、俺は、こたえを聞いていない」
「こたえ?」
縁壱はこくん、と頷く。
「俺は兄上を愛しています。どういう意味か、兄上は知っていますよね」
ぱちりと巌勝は瞬きをした。
「兄上は? 兄上は、俺と同じですか?」
 びゅうと風が吹いた。春の風は温かく柔らかだという。しかし、実際は強く激しい風だ。おまけに太陽が輝く、こんな日は目を開けることすらままならない。

 きらん。きらん。
 縁壱の指をかざるリングが輝いた気がした。