縁壱は森に住む小熊だ。
臙脂色の小袖を身にまとい、丸い熊の耳には太陽のお守りを付けている。体は小さいが、その体に大きな力、太陽の力を宿した彼は、人間が入ってくることのできない『森』の奥に住む小熊だ。『森』には彼のような動物たちが沢山住んでおり、人間とはかかわらないようにひっそりと生きていて、縁壱もまた同じように何百年も小熊の姿のまま『森』から出ることなく暮らしていた。
そんな縁壱が最近やたらと『森』を出て人間のところに行っているらしい。なんでも、人間に恋してしまったというのがもっぱらの噂だ。
大きな魚を『森』で釣っては人間界に降りて恋した人間に渡しているのだとか。求愛しているのだ。
「そんな恋は許されないぞ!」
そう言って難しい顔をしたのは獅子の煉獄だ。
「でも、友達の恋路は応援したいじゃないですか」
そう言ったのは狸の炭吉で、隣でコクコクと頷くのは炭治郎、禰豆子兄妹である。
「人間との恋愛はご法度でしょ」
「ていうか、なんで縁壱は人間なんかに恋しちゃったわけ?」
アライグマの無一郎、有一郎兄弟が順番に言って小首をかしげた。
「煉獄さんは何か知ってますか? 知ってたら教えてください!」
炭治郎の言葉に煉獄はグヌヌと顔を歪めながら、ゆっくりと口を開いた。
それは今から十数年前に遡る。『森』に人間の子が迷い込んだ。齢は五つか、六つか。人間は招かれない限り『森』に入ることはできない。しかし七つまでの子どもは『神のうち』とされ、『森』に入ることができた。
そして少年は『森』の中で縁壱に出会う。縁壱が煉獄に語るには、彼は木の洞で眠っていた縁壱を見つけて「君も迷子?」と声をかけたそうだ。珍しい人間の子どもにびっくりした縁壱が固まってしまっていると、何を勘違いしたのか、彼は縁壱をぎゅっと抱きしめた。
「君、あたたかい。ふわふわしてて気持ちいいな」
そして優しく撫でて「一緒にいよう。俺のこと、お兄ちゃんだと思って構わないから」と言うのだ。
『森』には沢山の仲間たちがいる。しかし縁壱は体こそ幼いが太陽の力を宿した熊である。こんなふうに守ってくれようとする者はいなかった。
縁壱の心臓の音がドキドキとやけにうるさくなった。
この少年とずっと一緒にいたい。そんなふうに思った。
少年と縁壱は三日の間ともに『森』で過ごした。
少年は家に帰りたそうにしていたが、縁壱が案内する『森』への好奇心が勝ってしまったらしい。加えて『森』を統べる尾長鶏の産屋敷が「親御さんには連絡してあるよ。三日後にお帰りなさい」と少年に言ったのだ。もちろんそんな事実はないが。
三日後に『森』を出る時、彼は縁壱に言ったそうだ。
「また遊びに来て良いか?」
それを聞いた縁壱は口ごもる。今回は特例的に産屋敷が許してくれたが、本来は『森』の生き物は人間とかかわらずに生きる。それに『森』を出たら、彼は『森』での記憶を失ってしまうのだ。『森』に入ってしまった人間は例外なくそうなる。
何も答えない縁壱を見て、少年は不安げに「……いやかな」とたずねる。縁壱は慌てて「違う!」と叫び、少年の手を取った。
「また遊んでください。縁壱はずっとあなたの弟です。待っていますから……おれのこと、忘れないで。会いに来て」
それを聞いた少年は花がほころぶように笑い「忘れないよ」と言って手を握り返したのだった。
これが一度目の出逢い、縁壱の初恋の三日間だ。
二度目はそれから数年の月日が流れた。縁壱は彼が『森』の側に現れないことにしびれを切らして人間界に迎えに行った。産屋敷からは「彼はすっかり君のことを忘れているだろう」と言っていたが、それでも会いたかった。
二度目の出逢いを経て縁壱は彼が自分の運命だと確信した。
まず、少年に会うために『森』を出た縁壱を待っていたのはトラバサミだった。己の足に食込む歯を見た縁壱は俯いた。己がかかったから良いものの、他のか弱き動物たちがこの罠に掛かってしまったら。考えただけでも胸が痛む。やはり『森』の仲間たちが言うように人間界は恐ろしい。
そんなふうに考えているところに現れたのが彼だった。
「そこに誰かいるのか?」
縁壱の茶色の耳がピクッと動く。声のした方を見れば探し求めた彼が驚いたような顔で縁壱を見ていた。
「え、くま……熊?!」
ただし、彼はずいぶんと成長した姿でそこにいた。背は伸び、声も低くなっている。丸くてくるくるよく動く目は切れ長になっていて、しかしあの頃と同じ躑躅色の美しい目が縁壱を見ている。
「あにうえ!」
縁壱は思わず駆け寄ろうとする。
「あっ、おい!」
彼は慌てたような声を出し、同時にガシャンと鎖の重い音がした。
「……トラバサミか。全く、これは違法だろう」
眉をひそめた彼が縁壱に「待っていなさい」と優しく声を掛け、手際よく足を解放する。そしてひょいと縁壱を抱き上げた。
「おいで。洗いに行こう」
「おれ、歩けますよ」
キョトンとした様子の縁壱に彼は言った。
「でも歯が刺さってただろう」
「おれは人より丈夫ですから」
「………痛みを感じないのか?」
「感じます」
「じゃあ、今、痛いか?」
「痛いです」
はぁ、と彼はため息を付いて、それから縁壱を抱え直した。
「さっき私のことを兄上、と呼んだな」
「はい」
「すまないが、お前のことを知らない。人違いだろう」
縁壱はぎゅうと唇を真一文字に引き結び拳を握った。やはり覚えていなかった。
「でも、初めて会った気もしない」
「え?」
「なんでだろうな」
そして「こんな耳のついたやつ、会ったら覚えているだろうに」と笑う。
しばらく歩いた彼は、川べりに座ると縁壱に自分のパーカーを着せてフードを被らせた。ペットボトルの水を縁壱の傷口にかけながら「お兄さんがいるのか」と訊く。
「兄上は、あなただけです」
「私が?」
「うん。……あなたが、そう言ってくれたから」
もじもじとしながら縁壱は言った。彼が縁壱の足に触れている。そこから熱があるように思えた。ドキドキと心臓がうるさくてたまらない。
「私が?」
パチパチと目を瞬かせ、彼が縁壱を見る。思いがけず、いたいけなその表情に縁壱は喉の乾きを覚えた。「参ったな」と彼は苦笑する。
そして「そうだ」とバックパックから何かを取り出した。それは笛だった。
「この前参加したワークショップで作ったんだ。……不恰好だが、音は鳴る」
ほら、と彼が笛を吹くと調子の外れた音が響いた。
「音は気にするな」
顔を赤くさせた彼は咳払いをしてから笛を縁壱に握らせた。
「次、もしも罠に掛かるようなことがあったら、これを吹きなさい。私はここにいつもいるわけではないが、聞こえたら助けに行く。それに、私でなくともきっと誰かが助けてくれるだろうから」
ふわり、彼が微笑み頭を撫でてくれた。
この瞬間、縁壱は思った。
ああ、この人がおれの運命の人だ。番になるべき人だ。
こうして縁壱の健気な求愛行動が始まったのだった。
煉獄が話し終えると炭治郎は「純愛ですね!」と言った。無一郎と有一郎兄弟は「神隠しを狙ってるわけ?」と顔を見合わせた。
「産屋敷さまが『森』にいるのをお許しになったのはその人が少年だった頃だけでしょ。大人になってしまったなら許されないよ」
無一郎が言う。
「でも縁壱を助けたなら特例を出してくださるかもしれませんよ」
「あのな、炭治郎。もっと考えてみろ。もしもその人が『森』に来たって、帰ったら縁壱のこと忘れちゃうんだ。それが嫌ならずっと『森』に閉じ込めるしかないだろ」
有一郎が人差し指を立ててたしなめる。
と、その時だった。
「そうか。『森』に連れて変えればよいのか」
彼らの後ろから声がした。有一郎はギャッと叫び尻尾を膨らませる。
「よ、縁壱……」
「いい話を聞いた。おれは兄上を『森』にお連れする。そうすればいつも一緒だ」
縁壱はふわふわと笑っていた。珍しい彼の笑顔に炭治郎は「きゅうん…」と情けない鳴き声を上げてしまう。
「でも、その人間はそれで良いって言ってるんですか?」
炭吉の問いに、縁壱は得意げに「きっと喜んでくださる」と言う。
「それから、人間、ではない。名前がある」
縁壱はうっとりと頬を赤らめて「みちかつ」と名前を紡いだ。
その顔があんまり幸せそうで、煉獄たちは何も言えなくなってしまった。
彼らが『森』で縁壱に抱き上げられた巌勝の姿を見ることになるのはそれから数ヶ月後のことであった。