見知らぬ人(或いは忘れえぬ人)
男は夢を見た。見知らぬ人の夢だ。
男はてくてくと満開の桜の森を歩いていた。見上げると夜の闇の中に青白い月がぽっかり浮かんでいる。綺麗だと思った。男は初恋を知った乙女のように頬を赤く染め、瞳を潤ませ、胸を希望で高鳴らせている。
そして彼は遅れて歩く誰かの手をひいていた。絶対にその手を離すまいと強く握りしめている。
とても奇妙な夢だった。
「桜が美しいですね」
と男が後ろを歩く誰かに言う。後ろの誰かは答えない。
「覚えておいででしょうか。あの戦いの日々の中で兄上と桜を見ました。とても美しい春の日のことです」
桜吹雪が男の視界を遮る。夜の闇の中、舞い散る花びらが月光を浴びてぴかぴか光っていた。
「おれは、ぼんやりとした男です。その日もあんまり桜が美しくて、川を渡り、花を見、また川を渡っていました」
男は彼が手をひく後ろの誰か――その誰かは男の兄だった――の手がぴくりと反応したことに浮足立った。
「そうやって歩いていたら、気がつけば、兄上の住まいに辿り着いていたのです」
男の兄は何も言わない。男はそれでも構わなかった。
「おれは……おれは、嬉しかった。美しいものを追っていった先に、兄上がいた。まるで見えない糸で繋がっているみたいだと、思ったのです」
口にして、男は突然ひどい羞恥を感じた。まるで恋の告白のように思えたのだ。兄上はどう思われただろうか。心臓の音がうるさい。この音が後ろの兄にも伝わっているのではないかと思うほどだ。
「――春風江上の路、覚えず君が家に到る」
男は顔のほてりを冷ますように歩みを早めた。
「兄上はそう口ずさみました。その声が心地よく……おれは一等しあわせになりました。まるで兄上が恋のうたを………口ずさんだようで……」
実際は違った。男は咳払いをした。
「兄上。兄上。次こそ幸せになりましょう。兄上が幸せな姿を見ることがおれの幸せです。
もう鬼はいません。兄上が徒に罪を重ねてしまうこともありません。もう悪の道は断たれました。たとい閻魔大王が貴方をゆるさずとも、おれがゆるします」
後ろから兄の笑う気配がした。
「傲慢だと嗤ってください。でも、おれの――この愚かな弟のわがままをどうぞおゆるしください。おれはこのまま地獄から、貴方を連れ帰ります。
たった一つの条件でそれをゆるされました」
桜の森は永遠に続くように思われた。男は口を開いていないと気が狂ってしまいそうになっていた。
いつしか桜の花びらが積もり男の足を絡めとり歩みを阻む。確かに兄の手を握る感覚はあるのに一人分の足音しか聞こえない。
「突然現れたおれは、きっと迷惑だったことでしょう。それでも兄上はおれには何も言わず、それどころか『私は兎も角、他の者にはこのような無礼をするなよ』と叱った。
おれは、貴方の弟というだけで、無償の愛を惜しみなく注がれる特別に酔いしれました」
――兄上はおれのことが嫌いでしたか?
――おれは兄上のことを愛おしく思っていました。
――おれがおれであるだけで心を尽くしてくれた貴方を好きでしたよ。
びゅうと風が足にまとわりつく花びらを吹き飛ばす。
風の吹いた方を見ると眩い光が見えた。遂に桜の森の終わりまで来たのだ。
男は走った。遂におれは成し遂げるのだ、と希望に胸を踊らせた。足は羽が生えたように軽く感じた。早く、早く、光の中へ。
かつてその手から奪われ失った縁のほとんどを取り戻した。新しい縁も結んだ。ただ一つ諦めきれないのは兄との縁だった。
「行きましょう、兄上。陽射しの中へ」
男は言った。ぐいと手をひき、光の中に一歩を踏み出した。
その時だった。
「縁壱」
と後ろから声をかけられた。懐かしい声だ。
男は思わず後ろを振り返る。
同時に、ふわりと藤の花の香りが鼻腔をくすぐり、額に唇が押し当てられた。
兄に接吻されたのだと気づいたのは、目の前に六つ目の鬼の顔が現れてからだった。六つ目の鬼は「お前でもしくじることがあるのだな」と嗤った。そうして鬼はするりと男――縁壱の首に手を回して首を絞めた。
縁壱は「私はお前が嫌いだ」と呟く兄の言葉に泣きたくなった。そんな悲しい顔でおっしゃらないで、と抱きしめたかった。
しかし鬼が縁壱の首を絞めたのは、ほんの数秒でしかなかった。ふっと首から鬼の手が離れ、鬼はゆっくりと後ろに倒れ込んだのだ。
縁壱は鬼の手を掴もうとするが空をきるだけだった。
倒れた鬼の上にひそひそと桜の花が降る。
花びらが鬼の上に積もる。縁壱は足を縫い付けられたように動くことができなかった。
そのうち鬼は花びらに埋もれ、とうとう姿を隠してしまった。
――ああ、ああ。またおれはしくじってしまった。兄上は再び地獄に囚われる。
兄を地獄から連れ帰るための条件は、兄が地獄から抜け出るまで決して兄の姿を見ないこと、振り返らないことだった。
――ああ、兄上はまだ陽射しの中に足を踏み出していなかったのだ!
――兄上はなんて意地が悪いのだろう!
もとより負け戦だったのだ。
兄はわざと縁壱を振り向かせた。そして額に――かつて痣のあった場所に接吻をしてみせた。
縁壱とともにある事を兄は拒む。地獄はそれをよく承知していたのだ。だから縁壱に兄の手を取り歩む夢を見せたのだ。
地獄は決して囚人を逃しはしない。
「それでも。
千年でも、万年でも、おれは待ちます。何度生まれ変わったとしても、兄上と再び縁を結ぶその時まで」
縁壱は満開の桜の森に背を向け陽射しの中を歩いた。
朝が来る。目覚めが近い。
縁壱は目覚めれば縁壱と同じ形の魂を持った全く別の男として生きる。男は魂が縁壱であった時のことなど覚えてはいない。諦めきれないのは、未練がましく兄を求めるのは、男の魂にへばりついた縁壱であったものの残り香だった。
――たとえおれが兄上のことを忘れても、おれの魂は貴方のことを忘れない。
背後で桜の森が縁壱を嘲笑うようにざわめいた。