NOVEL short(1000〜5000)

霜月夜


 月の明るい夜だった。紅く染まった葉に霜のおりた月の夜。満月の夜は星が少ない。
 窓から降り注ぐ月の光はとても冷たかった。縁壱は今までで感じたことのない『寒さ』に身を震わせる。敷布が冷たい。燈火ががらんどうの室内を照らす。酷く空虚だ。
 縁壱は思わず月を見上げた。しかし月を見ていると、兄がもはや己の側に寄り添って眠ることはないのだと思い知らされる。手を伸ばしても届かない。
 兄は遠くに行ってしまった。鬼になった兄は月の裏側よりも遠くにいる気がする。
 空を見上げればそこにある月のように優しくてらしてくださると思っていたのに、と、縁壱はそっとため息をついた。
 
 縁壱は体温が高い。だから寒さを感じることがあまりなかった。
 幼い頃、雪降る日に巌勝が縁壱のいる三畳の部屋を訪れたことがあった。
「今夜は冷えるから、兄さんの部屋においで」
 そう巌勝は言った。
「迎えに行くから。二人で寝れば、きっと寒くない。でも誰にも見つからぬように……ああ、心配するな。今夜は新月だから、誰にも見つからないよ」
 その夜、巌勝は約束通り縁壱を迎えに来た。小さな手――冷たい手で縁壱の手を包み、驚いたように「お前は温かい」と言った。そして、手を引いて、自分の部屋へ招き入れて、一つの布団にくるまった。
 
 体温を分け合って、心臓の音を聞いて、眠る。
 手の届く場所に、大好きな兄がいる。
 とても幸せだった。
 
 時が経ち、己の体温は他の者よりも高いのだと――他の者とは違う視界と同様に、痣と同様に、生まれつきそうなのだと知った。
 鬼狩りに兄が加わったとき、幼少の頃の幸せな冬の日を思い出し、兄を訪ねた。柱となり屋敷を与えられた兄は、もう他の者と雑魚寝はしなくなったから訪ねやすい。そう思った。
「今宵は冷えます」
 そう言って背を包むように抱きしめれば、兄はびくりと肩を震わせたが、腹に回した縁壱の手に己のそれを重ねて「いつまでも、子どものような――真っ白な子どものようなやつ」と言った。
 指と指と絡ませ、兄の首筋に鼻を埋める。兄のにおい。温度。指。背。髪。
「おれは温かいでしょう?」
 そう言えば、巌勝は「ああ」と返す。
 そのまま縁壱は巌勝をそっと敷布に寝かせ、胸に耳をあてた。心臓の音。温かさ。縁壱の頬をくすぐる兄の指先。吐息。震え。緊張。戸惑い。
 唇の柔らかさ。粘膜。水音。上がる体温。鼓動が早くなる。衣擦れの音。逃げを打つ腕。それを捕らえる。
 兄の声。心地よい声だ。ぽつ、と己から滴る汗が兄の鎖骨を伝う。縁壱はあつい、と呟く。巌勝は、今宵は冷えるから丁度いいだろう、と嗤う。
 
 兄と体温を分かち合うのは幸せだった。
 離しがたいひとだった。それなのに、手のひらから滑り落ちてしまった。
 
 寒い。とても寒い。縁壱は己の手を口元に当てて息を吹きかけるた。がらんどうの部屋、一人きりの夜。
 秋が来て、夜が長くなった。
 
 ただ、俺一人の為に、夜が長い。縁壱はそう思った。