NOVEL short(1000〜5000)

月を喰らう


 皆既月蝕という天体ショーに巌勝が無邪気に浮足立っているのは縁壱の心を酷く揺さぶった。何故ならば、前世において赤い月の夜は兄の変わり果てた姿を突きつけられた挙げ句、兄を斬りそこなったまま息絶えた夜であったから。
 月がすっかり闇に喰われ赤黒い光を帯びたその時に見つけた兄の姿。己の不甲斐なさと兄を失ったのだという、身を引き裂かれるような実感。渇望と絶望。きっと思い出す。否が応でも思い出してしまうに違いない。

 今生において、兄は前世のことを覚えていない。地獄にて焼き尽くされた魂はまっさらになった。まるで真珠のようなそれを極楽から無理矢理に奪い取り、輪廻の輪に戻らせたのは他でもない縁壱だ。これは私の兄だ、と叫び腕に抱いて輪廻の中に逃げたようなものだった。
 巌勝が記憶を持たぬことに寂寥感が無いと言えば嘘になる。しかし、縁壱は幸せそうに笑う巌勝の魂の隣に居たかった。それ故にもしも前世の記憶が兄の魂を苦しめるのであれば、それはいらないと切り捨てた。
 だが、今は無邪気にはしゃぐ巌勝が恨めしくさえ思える。

「今日は皆既月蝕の日だ」
「…へぇ」
「なんだよテンション低いな。皆既月蝕と天王星蝕が同時にあるのは四〇〇年ぶりらしい。こんな天体ショー、滅多に見られないだろう?」
興奮気味の巌勝に、縁壱は曖昧に笑う。まさにその時に、私は死んだのだ、と心の中だけで毒吐き、そして「楽しみだね」と心にもないことを言った。
「夜は冷えるから、暖かくして行こう」
「ああ。縁壱も風邪ひかないようにな」
そう笑う兄の楽しそうな顔を見られるのでなければ、わざわざ赤い月など見に行くものか。
 縁壱は兄の笑顔を目に焼き付け「兄さん、夜、楽しみだね」と言った。



 夜は冷える。
 トレンチコートを着込んだ縁壱と巌勝は屋上にのぼり、月を見上げた。
 午後六時。天体ショーが始まる。

 黄金色に輝いていた月が欠け始め、思わず「あっ」と声が出た。闇に食われ始める月。ぞぞぞと全身が粟立ち、脳裏にはかつて失った兄の姿が蘇る。
 六つ目の鬼は己を見て、きょとんとしていた。敵意も殺意も、驚くべきことに闘気すら感じられなかったのだ。もしも兄が他の哀れな鬼のように理性のない獣のごとく人間という餌に食らいつくのであれば、縁壱は斬っていただろう。しかし彼はまるで己が初めて兄と言葉を交わしたあの日のように、ただただ驚いていた。鬼は悲しいほどに記憶の中の兄と同じだった。

 縁壱は頭を振って忌まわしい記憶を頭から消そうとする。
 そして隣の兄の横顔を見た。巌勝はどんな顔をしているだろう。滅多に見ることのできない天体ショーに見入っているのだろうか。頬を赤く染めて瞳を輝かせているだろうか。ああ、それが見れたなら、おれはかまわないのだ。縁壱は、そう縋るように巌勝を見る。
「っ、にいさ、ん?」
しかしながら、巌勝は月を見ていなかった。巌勝は縁壱を見ていた。
「縁壱」
ごっそりと感情の抜け落ちた顔で、巌勝が弟の名を呼ぶ。
「な……に、兄さん、どうしたの」
すると今度は、ふ、と微笑みを浮かべる。
「縁壱」
再び名を呼ぶ。

 その時、縁壱は気付いた。
 これは『私の兄』だ、と。

「縁壱、よりいち」
歌うように、言葉を口の中で味わうように、兄が弟の名を呼ぶ。
「兄上」
弟が兄を呼ぶ。兄は困ったように笑った。そうして二人で空を見上げた。月はすっかり闇に隠れて、やがて赤黒い光をまとい始める。それを、ただただ黙って見つめていた。

 月が欠けてから二時間あまりが経ち、母親から部屋に戻るよう声がかかる。縁壱は「今戻る!」と声を張り、兄に向き合った。
「兄上、戻りましょう。俺たちの家に」
そう言うつもりだった。しかし、その言葉が紡がれることはなかった。目の前が影に覆われ、唇には柔らかく、しかしカサついたものが押し当てられたからだ。
 ちゅ、という軽い音と眼前に広がるのは巌勝の顔。その後ろには赤黒い月が闇の中にぽつと浮かんでいる。
 その巌勝の顔を見て縁壱は衝動的に唇を奪う。下唇を食み、舌を挿しいれた。歯列をなぞり、上顎を擽り、舌を絡ませる。ぴく、ぴく、と痙攣する巌勝の身体は確かに悦びを得ているに違いなく、縁壱を興奮させた。

 蝕が終わり始める。
 巌勝が縁壱の体を押す。小さな抵抗に彼の唇をようやく解放した。銀の糸が二人をつなぎ、やがて弧を描いてぷつりと切れてしまった。
「あ、ん……ッ!」
それが名残惜しく、巌勝の唇を舐めると、随分と可愛らしい声があがるではないか。
 見れば、兄はすっかり顔を赤くさせてぼうとしていた。
「よ……り、いち……」
「そんな顔しないで………『兄さん』」
我慢できなくなるから、と耳元で囁く。大げさなほど肩を揺らす巌勝に、くつくつと笑った。
「好き。兄さん。大好き。ずっと……生まれ変わっても一緒にいるから」
「お、弟の愛が重い」
なんとか茶化そうと無理に笑う巌勝の腕を引いて、無理に視線を合わせた。赤みを帯びた瞳の奥を覗き込む。
「そうです。俺の愛は重いのですよ。だから……見くびらないことですね『兄上』」
聞こえるか聞こえないほどの声での宣戦布告。
「え?」と巌勝はぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
「部屋で続きする?って聞いたんだよ」
縁壱の言葉に巌勝の顔が茹で蛸のように赤くなり、そして頬に痛みが走った。
「そ、そんな子に育てた覚えはない!」
そう言ってバタバタと巌勝は部屋へと戻っていった。

 残された縁壱は熱の残る頬を撫で、快感に浸る。
 決して逃しはしない。奪われない。

 縁壱はそう誓った。