「俺は、兄上とこんな家に住みたいのです」
並んで壁にもたれ掛かるように座り込んでいた時、不意に縁壱はそう言った。そして甘えるように巌勝の小指に己の人差し指を絡ませる。まるで幼い子供がするような仕草だ。
その指の熱さに、巌勝はハッとする。
縁壱と巌勝はとある山間の中の小さな家で一夜を過ごすことにしていた。底冷えするような寒さの中、縁壱はぴったりと身体をくっつけている。痣のある者はみな体温がとても高い。未だ痣の出ぬ巌勝を慮ってのことだろう。
なぜ彼らが一夜をそのような場所で過ごすことになったかと言えば、伝令が誤って届けられたせいであった。とある山中で鬼が人間の女に化け小さな小屋の中に旅人を誘い込んで食らっているという。その鬼の討伐を命じられたのは巌勝であった。しかしながら、鬼の詳細を告げるはずだった鴉は何故か縁壱のところに飛んでいった。
「俺が兄上にお伝えするべきかと思い、馳せ参じました」
山中、鴉の伝令を待つ巌勝のもとに現れた縁壱は大真面目な顔でそう宣った。私のところにその鴉を寄越せばよかろう、と巌勝は言うが、縁壱はそんなことなど気にも留めず「折角ですから共に任務を果たすのが良いかと」などと言う始末だ。結局は縁壱の剣を間近で見ることが出来るのであれば構わないか、と開き直った巌勝は縁壱の同行を許可した。
そうして彼らは共にその鬼を討伐せしめたのであった。
二人が鬼を斬った時刻はまだ夜明けには遠い。かといって下山するには遅すぎる時刻だった。それ故に鬼が根城にしていた小屋で一晩を明かすことにしたのである。
小屋の中には何もないが、それでも野宿よりは幾分良いだろう。巌勝はそう思っていた。そして、隣に感じるあたたかさ――縁壱の体温に、間近で見た神の如き剣技に、ふわふわと浮き立つような、まるで雲の中にいるような気分で睡魔との心地よい攻防を繰り広げていたのだ。縁壱が不意に子ども地味た行為をするまでは。
平生の巌勝だったならば、縁壱のそのような行為は上に立つ者にあるまじき振る舞いだと窘めたはずだった。しかしながら今回はそれをしなかった。
「もしもこの戦いが終わったならば――この縁壱と、あなたの弟と、一緒に暮してくださいますか。このような小さく、手を伸ばせば兄上に手が届くほどの家で――。
―――俺は、兄上とこんな家に住みたいのです」
その言葉とともにいたずらに触れられた指先の熱さ。その熱さにより縁壱が本当にそれを望んでいることが嫌でも判ってしまった。
その家は継国の屋敷よりも、お館様の屋敷よりも、日柱である縁壱に与えられた屋敷よりも、ずっと小さな家だ。こんな家で十分など、随分と無欲なものだ。巌勝の胸にチクリと針が刺さり血が流れる。
「……鬼狩りの悲願が叶ったのちは、お前はこれまでの功績を讃えられるべきた。私はそう思う。このような小さな家ではお前の功績には見合わない。お前はもっと立派なことをしただろう。もっとお前に見合うものを……いや、お前のその無欲さは美徳だが……だが。だが、しかし……」
巌勝はそれ以上の言葉を紡ぐ事ができなかった。押し寄せる羞恥に顔に血がのぼっていく。ああ、無欲な弟に比べて、己の卑しい俗っぽさときたら!
しかし、そのような巌勝の自己嫌悪など露知らず縁壱はゆっくりと、噛みしめるように口を開いた。
「兄上は、俺のことを……立派だと。そう、お思いですか」
その問いに巌勝はますます羞恥に顔を赤くさせる。
「勿論だ。お前は立派なことをしている。
……お前はもっと誇ってもいい、と、そう思うほどに」
すると、それを聞いた縁壱は巌勝の肩口に額を押し付ける。もしや照れているのだろうか。意外なものを見た、と巌勝はより近くなった熱の塊をまじまじと見る。
「兄上は、俺のことを褒めてくださる。同じことを他のものに言われるよりも、兄上に言われると、ずっとずっと嬉しい」
それは小さな声。幼ささえ感じられる声。巌勝に向けられた無垢で無邪気な好意。
「俺は、あなたの側にいるのにふさわしい男になれているのだと、そう思っても――そう奢っても、いいんでしょうか」
チクリ、チクリ、と心臓に刺さる棘から血が流れる。
巌勝は唇を噛みしめる。縁壱の側にいると己の矮小さを見せつけられる。縁壱が好意を向けると己の浅ましさを嫌でも自覚する。この苦しみはお前には分かるまい。いや、知らないでくれ。
「ふさわしいも何もないさ。
―――弟はいつだって兄の側にいてもいいのだから」
心臓から流れ続ける血には見ないふりをして、巌勝は優しくそう告げる。そっと、その頭を撫でてやりながら。
本当は巌勝は縁壱に言ってやりたかった。弟はいつだって兄の側にいてもいい。しかし俺は兄失格なんだ。だからお前に好かれる価値のない男なんだ。それなのにお前を得ようとする浅ましさ。ああ、いっそ、お前のその透き通る目でこの俺の浅ましさを暴いてくれ!
しかし縁壱が「嬉しい」と、珍しくはずんだような声で言うのを聞いて安堵する。そうだ、お前はずっと俺のことを理想の兄だと思っていてくれ、俺の本当の姿なんて見つけてくれるな。
「お前が望んでくれるなら、兄さんはお前の側にいる」
―――だって、お前以外は全部捨てたから。
巌勝は縁壱のこめかみにそっと唇を寄せる。
そして、小さな声で子守唄を口ずさんだ。
己の子にすら歌ってやらなかった歌。三畳間に眠る弟のために歌った歌。
縁壱のためだけの歌。
くすくすと、縁壱の嬉しそうな笑い声と、小さな子守唄が冷たい夜に響く。やがて、笑い声は吐息に変わり、子守唄は聞こえなくなった。
小さな家を二人分の吐息と二人分の熱が満たしていった。
夜はまだ長い。