ずっと前の日のこと
兄上が「おいで」と言ってくれなくなった。
縁壱は不満であった。もう子供でもないので巌勝が縁壱に「おいで」などと言う事はないのも理解している。それでも縁壱は不満なのだ。
幼い頃のように優しく「おいで」と言ってほしい。なんなら頭も撫でてほしいし膝枕もしてほしい。年甲斐もない? いいや、離れていた年月を取り戻したいだけだ。それが叶わぬというのなら、せめて「おいで」と言って腕の中に招き入れてほしい。
縁壱は本気でそう思っていた。
「――――というわけです兄上」
「………本気で言ってるのか?」
巌勝が目を細めて訊く。縁壱は少し考えて口を開いた。
「縁壱は本気です。……多少、酒は飲んでいますが」
「ほう?」
「多少、酒を、飲んでいますが」
飲酒の事実を推してみた。巌勝は縁壱ではなく彼の隣で酒を飲んでいる煉獄を見る。縁壱と巌勝、そして煉獄は煉獄の屋敷で酒を飲んでいた。
「…………」
「…………」
煉獄は巌勝と目が合うなりその視線を天井に向ける。なんだか彼ら二人に通じ合う何かがあるようで縁壱はムッとして「兄上。兄上は今、この縁壱と話しています」と言った。煉獄に嫉妬したのだ。
すると巌勝は一瞬だけ嫌そうな顔をしてから、ごほんと咳払いをして縁壱に向き合った。
「確かに、お前は酒を飲んでいるな。…………それも、その量を一人で飲んでいる」
「! そうです。沢山、酒を飲みました」
「それで?」
巌勝が促し、縁壱は元気よく答えた。
「縁壱は些か酔ってしまったようです」
「誰の入れ知恵だ」と巌勝が言うと間髪入れずに煉獄が「風柱だ」と答えた。
兄上は俺を見ているのに何故、煉獄が答えるのだろうか。縁壱は首を傾げた。
酔っちゃった。そう言われれば大抵の願いを聞くのが男ってもんだ。
そう縁壱に吹き込んだのは煉獄の言う通り風柱だった。酒の席だった。水柱と煉獄、そして風柱と縁壱の四人で安酒を煽っていたときのことだ。
「あの巌勝にも言ってやれよ」と風柱はゲラゲラ笑っていた。縁壱が「もっと兄上と離れていた時間を埋めたい」と言ったからだ。勿論、冗談だと煉獄は思っていたが、まさか縁壱が本気で実行するとは思わなかった。
煉獄はすっかり酔いの冷めた目で巌勝にそう告げる。
「いや……貴方が謝ることでは……余計なことを吹き込んだ風柱が…………縁壱が…………」
渋い顔を作る巌勝は縁壱に向き直る。
「あまりそのようなことを、日柱であるお前がするのは良くない」
「何故です?」
「何故って………それは……お前の威厳にかかわるからであって……」
縁壱はむっとして言葉を遮った。
「いいえ。俺は、俺の威厳なんぞよりも、兄上に甘えたい。だめなのですか」
すると巌勝は言葉を詰まらせ、そして「本当に酔っているようだな」とため息をついた。
煉獄は二人を交互に見ると、ふ、と笑う。
「ええ。流石の縁壱殿も酔っているようだ。それでは私はこれにて退散いたす」
そう言って煉獄は部屋を出ていった。
残された二人は顔を見合わせる。先に視線を反らしたのは巌勝だった。そしてポツリと言った。
「だいたい……なぜ……『おいで』など……」
「……覚えていらっしゃらないのですか」と縁壱は訊く。
「雪の日、兄上は俺を部屋から連れ出しました。父上が今日は不在だから、と言って」
「………いつのことだ」
「凧揚げをしてくださった日です」
幼少の頃の記憶だ。新春の頃、雪の日に巌勝が縁壱のもとを訪れた。凧を手にした彼は「お前は凧揚げが好きなようだったから」と呟く。
「前の時は帰りたがらなかったものな」
つい先日、凧揚げを教えてくれた帰りにぎゅうと抱きしめたことを言っているのだろう。凧揚げは楽しかった。巌勝と一緒に走り糸と格闘して、そんな縁壱を見ていた巌勝がとても楽しそうにしていたから楽しかった。縁壱は嬉しくなって凧を見ながら巌勝の腕に絡みついた。
「ん? ふふふ。やはり凧揚げが気に入ったのか。私の勘が当たったな!」
巌勝はフフンと自慢げだ。
それから「寒いだろう」と言って巌勝は自分の羽織を縁壱に着せようとする。縁壱は驚いてそれを止めた。己に触れた兄の手の冷たさ――縁壱は体温が高く、気が付かなかったが、外はとても寒かったらしい。お前は薄着だろうと巌勝は何度も着せようとしたが、やがて、羽織の感触が嫌いなのだなと言って諦めた。巌勝は縁壱の手を握り「お前は温いなぁ」と微笑み「寒かったらすぐに戻ろう」と言い含めた。
そして「おいで」と縁壱の手を引いた。
外は明るくて、空が高くて、積もった雪がキラキラときらめいていた。巌勝は「外は気持ちがいいだろう」と深呼吸をしてみせたので、縁壱もそれにならう。大きく息を吸って、そして吐く。それだけで巌勝は嬉しそうに「ほらな」と笑う。
巌勝の隣はいつだって呼吸がしやすい。
否、嘘だ。巌勝の笑顔を見ると、心臓がドキドキとして、時に呼吸ができなくなる。苦しくてたまらなくなることだってある。
しかし、それは辛い苦しみではない。
「さあ、縁壱。兄さんと遊ぼう」
おいで。
巌勝は楽しそうに縁壱に笑いかける。
それが忘れられない。
しかし、巌勝は言った。
「そんな、ずっと前の日のことなど、覚えておらぬ」
「そうですか……」
少し寂しくもあった。しかし、この温かい思い出は自分の心の奥底で大切にしまっておくことが出来ればよいのだとも思った。
「………ほら、縁壱………戻る…ぞ……」
「へ? あ……はい」
すっくと立った巌勝の歯切れの悪い言葉にコテンと首を傾げた。その様子に巌勝は怒ったように眉を吊り上げ、顔をそらしたまま告げる。
「寒かったから、すぐに戻ると………前に、言っただろう」
「……!」
「その、だから……おいで。縁壱」
小さな声だった。顔をそらしてしまっているが、黒髪からのぞく耳が真っ赤に染まっているのは隠せていない。
「はい。兄上。戻りましょう」
顔が熱くなる。
唇がにやけるのが止められない。ああ、兄上がこちらを見ていなくて良かった。
縁壱はそう思った。でなければ、きっと巌勝はにやけた縁壱を見てへそを曲げてしまうにちがいないから。