NOVEL short(1000〜5000)

しあわせの夢


 寒い冬の眠れぬ夜のことだった。
 縁壱は布団の中で耳を手のひらでおさえていた。もう何も聞きたくないと思ったのだ。


 この日は一日、母のもとにいた。
「新年は共に過ごしましょう。家族で過ごす日ですから」
と部屋に呼ばれたのだ。もしかして一日、兄と一緒にいられるのだろうか、と期待に胸を膨らませたがそれは叶わなかった。
 兄は父と共にいたのだ。『お家の大切な行事』とやらがあったらしいが、どうやら父は巌勝に縁壱と会うことを禁じたらしい。新年から忌み子を見るなど、ましてや話しかけ食事を共にするなど縁起が悪いというわけだ。
 それを知った母は怒りのあまり全身を震えさせていた。縁壱は思わずビクリと小さな体を跳ねさせた。


 優しく穏やかな母の怒りは怖かった。苦しかった。自分のせいだと思った。
 そして母は神仏に祈りを捧げる。縁壱と巌勝の幸福を願う優しい祈りは母の体を蝕んでゆく。縁壱にはそれが視えてしまう。
 母の体を蝕み家に不幸をもたらす忌み子の自分は、幸せになってはいけないのだと思った。


 もう罵倒も祈りも聞きたくなかった。


 そうやって耳を塞ぎ体を縮こませていると、三畳の部屋の小さな戸が開く音がした。
 ドキリと心臓が跳ねる。
 この音は、幸せと共にやってくる音――巌勝が縁壱に会いに来る音だ。


 縁壱は巌勝の言葉を聞く為に耳を塞いでいた手を離して起き上がった。
「邪魔するぞ」と、いそいそ部屋に入ってくる兄は驚いた様子の縁壱を見て悪戯っぽく笑った。
「今日はめでたい日だからな。私も忙しくて昼間はお前のところに行ってやれなかったのでな、こんな夜更けになってしまった。許せよ」


――――そんなことはありません。俺は兄上が会いに来てくれて、とても、嬉しい。


 縁壱は思わず口にしようとして、慌てて口を閉じた。
 せっかくのめでたい日に『忌み子と口をきくなど不吉』だ。だって父は俺に話しかけた後は必ず水で口を濯ぎ清める。それほどまでに、俺は―――。
 縁壱は思わずうつむいてしまった。


 そんな弟の様子に気付いていない巌勝は懐から一枚の絵を取り出した。ちょいちょいと手招きをして縁壱を呼ぶ。
 おそるおそる絵を覗き込む弟に「これは七福神の宝船だ」と教えた。
「この絵のここ。歌が書いてあるだろう」
指差した先には確かに何やら文字が踊っている。
 縁壱の目が指をたどり文字を読み解くのを確認してから、巌勝は「これはお前にやろう」と言った。
「寝る時に、これを枕の下にいれる。そして三回この歌を唱えるのだ。そうすれば良い初夢が見られる」


 それは父から渡されたものだった。
 巌勝は一日、父と共に過ごしていた。世継ぎとしての責務を果たせよとの言を忠実に守った。本当は母や弟とも過ごしたかったのだが、長男であるからして、その寂しさは恥であると教えられた。
 いつまで経っても父のもとに現れない母は縁壱と共に過ごすと決めたらしい。それを聞いて口角の泡を飛ばす父の隣で、夜ならば弟に会いに行っても構わないだろうと算段していた。


 弟はきっと寂しがっている。なんとなくそう思った。あの狭く暗い部屋は寒かろう。食べているものは自分と同じ縁起物とはいくまい。
 そんな風に考えている時に渡されたのが七福神の宝船の絵だった。これだと思った。
 良い夢が必要なのは、自分ではなく弟の方だろう。自分は兄で世継ぎである。つまりは強くあらねばならぬ身であるが弟はそうではないのだから。


 明日、父は継国が仕える武将の元に挨拶に行く。巌勝はまだ六つであるから同行はしない。
 明日になったら弟と遊ぼう。
 双六やかるたをしよう。凧揚げも。こま遊びも。なんだってしてやろう。


 その思いで夜に三畳の部屋へと駆けた。
 明日になれば。明日になれば―――。


 巌勝は縁壱を布団に潜らせ、枕の下に絵を置く。そして太陽の神様のお守りのついた耳にそっと口を寄せた。
「お前の代わりに、にいさんが唱えてやるからな。安心して眠れよ」
口のきけない弟は願掛けがちゃんとできないから、代わりに兄が良き夢を見せてやると巌勝は張り切った。


「永き世の 遠の眠りの みな目覚め 波乗り船の 音のよきかな」
――――どうかこの哀れな弟が、幸せな夢を見れますように。


「永き世の 遠の眠りの みな目覚め 波乗り船の 音のよきかな」
――――どうか寺に発ったのちも、聾唖の弟が不自由なく生きてゆけますように。


「永き世の 遠の眠りの みな目覚め 波乗り船の 音のよきかな」
――――どうかこの片割れに、いつか幸せが訪れますように。


 巌勝は三回、縁壱の耳に祈りと共に歌を吹き込む。
「おやすみ、縁壱。明日になったら、また来るからな。約束だ」
 縁壱の顔からは感情の機微は見えない。
 それでも構わなかった。母親を見れば脇にしがみつくような甘えたな弟が一人で眠るのはさぞ寂しいだろう。少しでも寂しさを紛らわせてあげられるのなら自分は父に殴られたって構わない。


 だって、弟に初夢の願掛けをしてあげられるのは自分だけだから。


 巌勝は三畳の部屋から急いで自分の部屋に戻る。そして何事もなかったように布団に潜って眠りについた。




 一方、三畳の部屋に残された縁壱は顔をじわじわと真っ赤に染め上げていた。耳を抑えながらぎゅっと瞼を閉じる。
 巌勝の声を耳の中に閉じ込めたいと思ったのだ。
 己の声と同じ――しかし、優しく柔らかい声。


――――永き世の 遠の眠りの みな目覚め 波乗り船の 音のよきかな…………
――――なかきよの とおのねむりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな……


 幸せだった。
 寂しくないと言ったら嘘になる。しかし、兄さえいれば、たえられる。


 明日になったら兄が来てくれる。約束してくれた。幸せだ。夢みたいだ。
 縁壱はとろけるような笑みを浮かべて眠りについた。