NOVEL short(1000〜5000)

愛しい人の帰りを待つ


 兄のことを冷たい人だと言う人がいる。あるいは、厳しい人だとか、怖い人だとか。変人と言う人もいる。一方で世話焼きだと言う人もいるし、飴と鞭の使い分けが上手いと言う人もいる。俺はそれらの全てを否定しない。だってそれらは正しく兄の一面であるからだ。しかしながら俺は兄がそれだけではない事を知っているし、兄が俺にしか見せない一面を持つことも知っている。
 例えば兄は俺に対してとても『甘い』。兄は気に入った者には少々甘い傾向にあるが、俺へのそれは彼らのそれとは少し違う。まさしく兄弟だからこその甘さなのである。
 例えば兄は俺を『慈し』んでいる。もともと家族に優しい人だった。そして俺は一番近い存在であり、俺に対しては彼の気に入っている遠縁の少年たちよりも顕著にそれが現れる。
 例えば兄は俺に並々ならぬ『厭悪』を向けている。それと同時に俺に抱かれることを良しとする程度には『愛』し、『欲情』を向ける。

 例えば数日前の夜のことだ。俺は兄が出張で数日間不在になることがどうしたって受け入れ難かった。だから俺は不貞腐れて兄を抱きまくらのように抱えて(そもそもあの人を抱きまくらのように抱えることを許されていることが甘やかされている証拠でもある)ソファに座り酒を煽っていた。兄の首に鼻を埋めて「寂しゅうございます」と恨み言をぶつける。アルコールで程よくフワフワと霞がかった脳みそは欲望のまま動けと身体に命じるので俺は命令通りぢゅうとうなじを吸う。すると兄は「んッ」と随分かわいらしい声を出すではないか。ちなみにこのような声を出す無防備さも俺にだけ見せる一面だ。俺は調子に乗ってちゅ、ちゅ、と唇を落とし、ぺろりと舐める。
「は、あ、ぁ……こら」
兄は手で俺の顔を押そうとする。なので俺はその手を取ってちゅぱちゅぱと指をしゃぶってやった。肩が大きく震え、半開きだった口からは熱のこもった吐息が吐き出される。このような姿だって俺にしか見せない。俺しか知らない。
「やめなさい」
兄は震える声で俺を制する。
「いやだ」
俺は子どもっぽく拒絶する。
「だめ。駄目だ」
「なんで」
「駄目と言ったら駄目だ」
「いやです。しばらく会えないのだから」
「仕事なのだから、仕方がないだろう?」
兄は困ったように眉を下げた。駄々をこねてくれるな、と漏らすその声色は、甘い。はちみつに砂糖をまぶしたような甘さ。それは、俺だけに向けられる。
 俺は兄の身体をまさぐりながら「なら、兄上はもっと俺にかまって下さい。俺はいい子で兄上をお待ちしてますから。ご褒美の前払いを」と甘える。
 しかし俺が調子にのれていたのもここまでだ。世界がぐるんと回転する。背中に強い衝撃。息が詰まり咳き込むと同時に視界が暗くなった。兄が俺をソファの上から床へと叩きつけ腰にまたがり見下ろしていたからだ。
「おいたが……すぎる」
兄は冷たく俺を見下ろす。そして不愉快そうに目を細めて「お前……わざと…よけなかったな」と言った。その視線の鋭さにゾクゾクと背中に電流が走り、身体が熱くなった。兄がこうした視線を向けるのは俺にだけだ。仕事上の『邪魔者』にだってこんな視線を向けることはあるまい。
「まさか。俺は兄上が俺を痛めつけるはずなどないと思っておりますゆえ。……ええ。兄上を深くお慕いしているからこそ、兄上の前では他の者が言うような『野性的な勘』が働かぬのです」
それを聞いた兄は盛大に顔をしかめた。このように嫌悪をあらわにするのも俺の前だからだ。
「……まあ、いい」
兄はゴホンと咳払いをして、それからニタリと婀娜っぽく笑い、俺の鎖骨を人差し指でたどる。つつ、と指が動き、胸へ。そしてみぞおち、腹筋をくすぐった。
「たった、三日じゃないか。それに、昨日もシただろう?」
「毎日だって足りない」
「ううむ。それは、駄目だ。いけない」
兄は嗜虐的に囁いた。
「お前は、我慢することを覚えないといけないな?」
獲物をいたぶる顔――めったに見せない顔だった。
「三日。我慢だ。いいか。ちゃあんと我慢出来たら、兄さんは縁壱にどんなご褒美だってくれてやる」
吐息混じりの、色っぽくて、妖しくて、俺を誘惑する声。きゅ、と腰を動かして俺を煽る。思わず手を伸ばしてもピシャリとはねつけられてしまう。それなのに俺の手を取って自分の腰へとまわさせる。
「我慢できなかったら、お仕置きだ。わかったな?」
俺の欲に火をつけるだけつけ、ニヤニヤとチシャ猫のように笑って無様な俺を嗤うのだ。


「……はあ」
俺はその時の兄の姿を思い出してため息を付いた。
 兄は今日の夜の便で出張から帰ってくる予定だ。三日の間、兄からは俺を煽り立てる電話がかかってきていた。しかし俺は我慢した。我慢しなければならなかった。
「早く、帰ってきて下さい」
俺は呟き、テーブルに突っ伏した。一生懸命、我慢したのだからご褒美を貰わなくては困る。目をつむるとニヤニヤにと嗤う兄の姿が浮かんだ。

 兄のことを厳しいだとか、怖いだとか、冷たいだとか言う人がいる。しかし、それは兄の一面に過ぎない。
 彼は優しくて、甘くて、慈悲深くて。俺の事を忌避しながらも愛してくれていて、悪戯好きで意地悪で、思いの外嗜虐的で、それでいて誰よりも俺を惑わす人なのだ。
 兄のそんな姿をもしも俺以外の者が見たというならば、俺は生きてはいけない。そんなふうに思ってしまうほど、あの人は――愛しい俺の兄は俺を狂わせる。