とこしえを夢む
目が醒める。
縁壱は上体を起こす。ふるりと震え、両手で己を抱きしめて大きく息を吐いた。
何かの夢を見ていたはずだった。どんな夢を見ていたかは覚えていない。ただ、酷い喪失感と絶望は覚えている。孤独になる夢――いや、大切なひとを失う夢。
悪夢の残り香を振り払うように二、三回頭を振り起き上がって洗面台へと向かう。冷たい水で顔を洗うと陰鬱な気分も幾らかましになった。しかし鏡に映った自分の顔は酷いもので、縁壱は鏡の中の自分を嗤い、もう一度顔を洗う。
ふと潮の香りが縁壱の鼻孔をくすぐった。顔を拭いて玄関にむかうとドアが開いている。そこから見えるのは青い空と海。五階に位置するその部屋からは水平線と空が溶け合って見える。縁壱は優しい日差しに目を細めた。
玄関には猫が一匹寝転んでいて、縁壱が近づくと視線だけ寄越してまた眠ってしまった。だがピクリピクリと耳は動いている。こちらの様子を窺っているようで、縁壱は思わず微笑む。彼は猫の姿に兄を思ったからだ。
縁壱の兄――巌勝も、この猫のように『興味がない』ふりをしてこちらを窺う癖がある。ツンと澄まして、縁壱なんて見えないかのように振る舞い、かと思えば不躾に思えるほどジッと縁壱を見つめ、物憂げにため息をつく。その時の巌勝の瞳ときたら、鏡を差し出して見せてやりたいぐらいだと縁壱は思う。
熱のこもった瞳。仄暗い瞳。轟々と燃え盛る炎を宿す時もあれば、どろりと蕩けるような、夢見るような甘さを孕む時もある。縁壱はあの目を見るといつもたまらない気分になった。その目を自分に向けてほしくて、瞳の奥の炎の意味を問いただしたくなるのだ。
その兄は海を眺めていた。その後ろ姿は触れがたい。
「………兄上」
縁壱は小さく兄を呼ぶ。するとドアから顔を出した巌勝が「ようやく起きたか」と笑った。
「開けっ放しですか?」
「悪かったよ。こいつが玄関に入ってしまったから、閉めるに閉められなかったんだ」
そう言って顎で指しながら、巌勝はそっと猫を外に出して部屋の中へ入った。
縁壱と巌勝はとある港町に来ている。
ホテルは海の見える場所に位置し、看板猫が館内を闊歩している。縁壱好みの時間がゆっくりと流れる穏やかなホテルだった。そこに彼らはもう五日も滞在している。
「随分ここが気に入ったんだな」
巌勝が言う。
「……兄上が、ここから見える海が好きだとおっしゃった」
縁壱が返すと、巌勝は「ふふ」と微笑み、それから心配そうに眉わ下げる。
「顔色が悪いな」
また怖い夢でも見たのか、と縁壱の頬を撫でる。
「……ええ。さっぱり覚えていないのですが、恐ろしい夢でした」
そう言いながら縁壱は巌勝を抱きしめる。強く強く抱きしめ、首筋に鼻を埋めた。巌勝は擽ったそうに吐息を漏らし、ぽんぽんと弟の背を撫でる。優しい兄に、縁壱はたまらなくなった。
「兄上。俺を置いていかないでくださいね」
縋るように囁き、兄に口づける。腔内に舌を差し入れ、貪るような接吻をほどこしながらベッドに押し倒した。
巌勝の黒髪が白いスーツの上に扇状に広がる。白と黒のコントラストにくらりとした。
巌勝はじっと縁壱を見つめる。炎を宿した瞳だ。それに誘われるように縁壱はもう一度口づけようとする。しかし巌勝の手がそれを拒む。
「私に置いていかれる夢でも見たのか」と巌勝が訊く。
「覚えていないのです」という縁壱の言葉に、巌勝は嗤った。
「どうだかな。お前はいつだってそんな夢を見る。そうでなければ、私をこうして――私に薬を飲ませて拐って、旅なんてしないだろう?」
「あなたは逃げたっていい」
「ふふふ。逃げてもいいのか? 逃げてほしいのか?」
巌勝の片足が縁壱の腰にかけられる。
「本当に? お前を置いて、逃げてもいいというのか?」
「……あなたは意地悪だ」
「お前はかわいいな」
どちらからともなく、二人は互いの口を貪り、やがて影が重なった。熱を分け合い、汗みずくになり、互いの境界線をなくそうと足掻く。この人の限りある命の全てを我が手に収めることができたなら。この人を永久に己のものにできたなら。そんな不可能を夢見ながら、縁壱は兄を掻き抱いた。
耳元で兄の嗤い声が聞こえた気がした。