あなたのおいぬ
中学二年生の巌勝には縁壱という九つ歳上の兄がいる。その兄のことを巌勝は密かに『変人』だと思っていた。
今もそうだ。いや、『変人』というより、むしろ『変態』だろうか。巌勝は目の前の兄を冷ややかに見やる。
つい数分前に遡る。土曜日の昼下り、学校の予習をするべく勉強机に向かっていた巌勝の部屋に縁壱がやってきた。大学院生である縁壱は巌勝の側にやってきて、ちょこんと正座をして巌勝を見上げる。
「縁壱?」と巌勝が首を傾げる。
「巌勝は今日、なんの日かご存知ですか」と縁壱。
さて、なんの日だっただろうか。巌勝はカレンダーを見るが何も書いていない。記念日? 誕生日? 何か約束でもしていただろうか。むむむと眉を寄せて考え始める巌勝に縁壱はにこりと笑う。
「今日は愛犬の日だそうです。ですから、巌勝、今日おれはあなたのおいぬになろうかと思う」
おいぬ。
オイヌ。
OINU。
――老いぬ?
「ご所望とあらば首輪も用意しています。その時は巌勝が手ずから付けて欲しい」
ぽかんとする巌勝に縁壱はずずいと近寄り真っ赤な首輪を差し出す。あ、やっぱり御犬か。巌勝はそう思いながら、信じられないモノを見るように兄を見た。
「いや……さすがにそれは出来ない」
「む。犬耳と尻尾も用意している」
取ってこようかと腰を上げる兄を制止して、巌勝は言う。
「どうして、縁壱が俺の『イヌ』になるんだ」
「どうしてって…………そんな些細なことどうだっていいじゃありませんか」
巌勝はにこにこと楽しそうに笑う縁壱から思わず目をそらした。
二人は兄弟と言っても血の繋がりはない。妻を亡くした縁壱の父と、夫を亡くした巌勝の母が結婚して二人は兄弟になった。つまり連れ子同士だったのだ。
血の繋がりはなくとも縁壱と巌勝はすぐに仲の良い兄弟となった。縁壱は兄弟が欲しかったのだと巌勝を可愛がっていたし、巌勝もそんな縁壱をすぐに慕うようになったからだ。不思議なことに彼らが瓜二つであったことも距離を縮める一つとなったのかもしれない。なんにせよ、縁壱と巌勝が本当の兄弟のようになったことに彼らの両親がほっと胸をなでおろしたのは言うまでもないことだった。
縁壱は巌勝にとって憧れの兄だった。文武両道の人格者。自分が目指すべきはこの男なのだと初めて会った時に巌勝はそう思った。まるで雷を受けたような――天啓とも呼ぶべき衝撃を受けたのだ。
しかし同時に縁壱は浮世離れしていて、どこか掴みどころがなく、巌勝を振り回すような困った男でもあった。縁壱が敬語を使うので巌勝も使おうとすれば止められる。甘えてほしいと微笑むときもあれば、甘えてもいいかと上目遣いにこわれることもあった。慈愛の目を向けられたと思えば、ねっとりと絡みつくような目を向けられることもある。達観しているようで、時に無邪気で子どものよう。それが縁壱だった。
そして今回である。
「おいぬ……」
「はい。おいぬです」
黙りこくる巌勝に、縁壱は「可愛がっていいんですよ?」と瞳を輝かせる。
巌勝は大きなため息をついた。そして縁壱に向き直ると、静かに口を開く。
「……………縁壱。おて」
すると縁壱は「わんっ!」と元気よく返事をして『おて』をする。
「おかわり」
「わん」
「おすわり」
「わんわん」
「ふせ」
「…………『ふせ』はこれで良いだろうか?」
まるで土下座をしているように大きな身体を折りたたませて巌勝をうかがう兄の姿に、巌勝は居た堪れなくなって「あってるから、もういい」と頭をあげさせた。
「止めだ。止め! もういいだろう?」
巌勝が言う。すると縁壱はムッとして「大切なことを忘れてます」と詰め寄る。そして顎をちょこんと巌勝の膝の上に乗せるとジッと見つめた。その視線に巌勝はたじろぎながら「大切なこと?」と訊き返す。
「褒められていない」
「……は?」
「だから、褒めてもらっていません」
縁壱は巌勝の手を取ると手のひらを自分の頬に当てさせてスリ、と擦り寄せ視線を寄越した。
その視線にびくりと巌勝は肩をはねさせる。絡みつくような、熱く甘い視線。溶けたチョコレートのようだと思った。巌勝の口の中にじゅわりと唾液がたまり、ごくりと飲み込む。それを見て縁壱はクスクスと笑う。
捕らえられたままの巌勝の手の、指と指の間に縁壱の指が絡んだ。少年の手に比べ、大人の手は力強く節くれだっていた。無骨に見えるが、それでいて滑らかで柔らかい指に捕らえられ、撫でられ、思わず巌勝はぎゅうと目を瞑る。はぁ、と手に縁壱の息がかかりゾワリと背筋が震えた。
もう止めてくれ。堪らずにそう言おうと口を開くが、巌勝の口からは「うひゃぅ?!」という悲鳴があがる。縁壱が巌勝の手首をぺろりと舐めたのだ。
「よ、縁壱!」
抗議する巌勝に、縁壱は「だって俺はあなたのおいぬですもの」とあっけらかんと言う。
「御主人様に甘えるのは、いけませんか? 褒めてくださらない御主人様にご褒美を強請るのは悪い犬ですか?」
縁壱はしゅんとした顔を作って見せる。が、その実、瞳の奥にはからかいの色があった。
「このっ、っ、〜〜〜〜っ!!!!」
顔を真っ赤にさせた巌勝は手を振りほどき、両手で力いっぱい縁壱の頭をかき混ぜる。縁壱は「わっ」と声を上げるが満足そうに「うふふ」と笑っていた。
「もうちょっと優しくよしよししてください」
縁壱はクシャクシャになった頭で甘えてみせる。
「ふん。わがままな縁壱にはこれで十分だ」
巌勝が鼻息荒く言い放つものの、ますます嬉しそうな顔をしてしまう。それが気に食わなくて睨みつけるものの、暖簾に腕押しとはこのことである。
「これからも、ずーっと、縁壱のことを可愛がってくださいませ」
最後に縁壱はそう言った。
「縁壱が、良い子にしてたらな」
巌勝は言った。
「それが一番のご褒美ですね」
ニコリとわらうその顔が、本当に幸せそうで、巌勝は虚をつかれたように瞬きを繰り返す。同時になんだかこの困った兄が酷く愛おしく思えてしまうのだから、悔しいことこのうえないのであった。