下心、恋心
「灯りぐらい付けなさい」
巌勝は眉をひそめて言った。真っ暗な部屋の中で縁壱がぼうっと座っている。巌勝からは窓際の書斎机に座る縁壱の後ろ姿しか見えないが、彼がどんよりとした空気を纏っているのは分かる。
巌勝がパチリと電気を付けると柔らかい光が部屋を照らした。橙色の灯りは縁壱から発せられる湿気を少し乾かしてくれたような気がする。巌勝は、幾分マシになったと鼻を鳴らし「縁壱。いくら外が明るいからと言って、部屋の灯りを消していれば目を悪くするだろう」と言った。
すると縁壱がゆっくりと椅子を回転させ巌勝の方を振り返る。
そして、ひと言「いやです」と言った。
「嫌って……何が」
「とにかく、いやなのです」
駄々をこねているかのような言葉。再び巌勝は眉をひそめる。縁壱の目は死んだ魚のようだった。
継国縁壱は小説家である。ただの小説家ではない。そこそこ売れている人気の小説家だ。そしてただの人気小説家でもない。新聞連載を抱え、締切に追われ、そして幾度も逃亡を図った前科のある小説家なのだ。そして遂には彼の実家が持つ別荘に「原稿を書き終えるまで」半ば監禁されるように連れてこられていた。
縁壱を監禁したのは担当編集者ではない。彼の実の兄である巌勝である。
「そもそも俺は兄上が二人きりで温泉に行こう、環境を変えるのは大切だって手を握って優しく提案してくれたからここにいるんです。それなのに、これはあんまりだ。話が違う」
縁壱は恨みがましい目線を送った。
「優しく手は握っていないな」
ピシャリと巌勝が返す。
「二人きりで温泉に来たじゃないか。ここから徒歩数分で天然温泉に入れる。リフレッシュにはもってこいだ。環境を変えるのは大切だろう?」
「でも休暇ではないのでしょう?」
「いま流行りのワーケーションというやつだ」
「そんなものバケーションではない……ただのワークだ」
巌勝は「縁壱、縁壱」と優しく――小さい子供を宥めるように名前を呼び、両手で縁壱の頬を包み込んだ。ギシリ、と椅子が悲鳴を上げる。巌勝が片膝を載せて身体を寄せたのだ。そしてコツンと額と額とをくっつける。
「兄さんの話をよく聞きなさい」
睫毛と睫毛が重なるほどの距離だった。無駄にたっぷりと吐息を含ませた声が縁壱の唇を撫でる。
ドキドキと心臓が高鳴った。巌勝の瞳――己と同じツツジ色の瞳はうるんでいて思わせぶりな目をしている。目が離せなくなる。
「兄さんの言う事、聞けるな?」
縁壱は生唾を飲み込みコクリと頷き巌勝の言葉を待つ。そんな従順な縁壱に満足したらしい巌勝は目を三日月の形にさせる。そして頬を包んでいた手のひらを肩にのせ、口元を縁壱の耳に近づけた。頬と頬が触れ合う。同時に身体と身体の距離も近くなる。ピク、と縁壱の身体が跳ねる。心臓の音がうるさい。兄上にも聞こえてしまいそうだ、いや兄上にはきっと聞こえているのだろう。そんなことを思った。
そうして今か今かと言葉を待つ縁壱に、巌勝は言った。
「締切前の小説家にバケーションする権利などない」
容赦がなかった。
「酷い!」
縁壱は叫ぶ。
「当たり前だろう。なんのために私がお前を連れてきたと思っているのだ」
「お、お、俺の純情をもてあそんだでしょう?! 今みたいに思わせぶりに俺に近づいて! 甘い言葉で唆して! 手玉にとって!」
わあっ! と縁壱は頭を抱える。
そんな弟の様子に巌勝は大きな声で笑ってしまう。ぱっと離れてしまった巌勝の体温が名残惜しく、縁壱は椅子に座ったまま上目遣いに巌勝を見上げた。
「……意地が悪い」
一方、縁壱を見下ろす巌勝は「二人きりで温泉に、といった時のお前の顔ときたら!」と愉快そうに言った。
「兄上は随分と俺の下心をくすぐるのがお上手なようですね」
「お前の大いなる下心は分かりやすすぎるのだ」
それから巌勝はむにっと縁壱の頬を引っ張ると「お前が大変なのは分かるが、竈門に迷惑をかけるなよ」と言った。縁壱は竈門の名を聞いて目が泳いでしまった。竈門炭吉は縁壱の担当編集者であり、度重なる縁壱の逃亡の一番の被害者とも言えた。
「炭吉には……申し訳ないと、思っています」
「うむ。そうだな」
巌勝はポンポンと縁壱の頭を撫でた。
「だからこそ、良きものを書けよ」
「……はい」
しゅんと俯き縁壱は頷く。
「兄さんはお前なら出来ると――必ず良きものを作ると信じているからな」
「! 兄上のご期待に添えるよう、頑張ります」
巌勝「良い子だ」と微笑み、無事に出来上がったならば、と人指しゆびの指先をツンと縁壱の唇に当てた。
「無事にできあがったならば、ご褒美をやるからな」
その言葉を聞くやいなや、縁壱の背筋が伸びる。巌勝を見上げる視線には期待と疑惑が込められていた。
「それは、俺に下心を抱かせるだけの――鼻先の人参でしょうか?」
縁壱の問いに、巌勝はニヤニヤと笑うばかりだ。
「……いいです。どうせ哀れな俺は兄上の手のひらの上で踊るばかりなんですから。兄上はそんな俺を見て楽しんでいれば良いんだ」
不貞腐れてぷいと顔をそらし外を見る。外からは庭園と、別棟の洋館が見えた。本当は兄と庭園を廻ったり洋館にある談話室でゆっくりと過ごしたりしたかった。しかし、悲しいかな、とうの本人にはその気はないようだ。
「でも、お前はこうやって踊らされるのも好きなんだろう?」
巌勝が言う。じとっと縁壱が睨みあげるが、巌勝はにやにやと笑うばかりだった。
「せいぜい、兄上のご褒美とやらを期待して――それから、炭吉に迷惑をかけぬよう、こちらにいる間に書き上げますよ」
「よし。いい子だ。よく言ったな。偉いぞ」
ぐしゃぐしゃと頭を撫で回し、巌勝はさっさと扉の方へと言ってしまった。
部屋を後にする直前に巌勝は言った。
「では、夕飯は六時半に用意させるゆえ、またその頃にな」
「かしこまりました」
「それからな、縁壱。私とて、――――」
言いよどむ巌勝に首を傾げて次の言葉を待った。そして巌勝はほんの少しだけ、顔を赤くさせて言った。
「私とて、大いなる下心を持って、お前をここに誘ったのだぞ。勘違いするな」
「え、」
「ではまた、夕飯の時にな」
それだけ言って巌勝はガチャンと音を立てて戸を閉めてしまった。
残された縁壱は顔を赤くさせたまま、しばらく動けずにいた。縁壱の締切まであと三日を数えた日の夜のことだった。