「手を出せ」
部屋に入ってくるなり兄がそう言ったので素直に手を差し出した。俺の手を取った兄は俺をベッドの上に座らせると、自分はさっきまで俺が座っていた椅子に座る。時計を見ると二十三時を回ったところだった。兄上は早く寝なくて良いのだろうか。夜更かしは美容の敵だとクラスの女子が鏡とにらめっこをしながら嘆いていた。ふとそう俺は思ったが、しかし何も言わなかった。二人きりの時間なんて滅多にない。貴重なその時間を堪能したかったのだ。
兄は俺の机の上に小さな瓶や細長いガラス板のようなものを置く。そして俺の指を取り、パチリ、と爪を切り始めた。丁寧に、一本ずつ。十本の爪の長さを揃えると、次はガラス板――爪やすりで丁寧に形を整える。
その間、兄の手のひらや指の滑らかさ、しなやかさ、あたたかさを感じながら、俺はじっと彼を見つめた。俯いた彼の睫毛の震えや息遣いは俺の身体に火を燈す。しかし、それを悟られないようにしなくてはならない。彼の集中を妨げてはならない。俺は息を潜めた。
形を整え終えた彼は次に小瓶を取り、透明な液体を爪に塗り始めた。鼻を刺激する匂いに俺は思わずパチパチと瞬きを繰り返してしまう。
「明日、お前のクラスでは小テストがあるんだろう」
兄が声をかける。
「ええ」
俺が答えると、兄はチラリと目線を寄越して「どうせ今日まで何も勉強していなくて、慌てて一夜漬けでもしていたのだろう」と言った。図星だった。みるみる顔が熱くなる。多分、今の俺の顔は茹で蛸のようになっている。兄は変わらず俺の顔を見ている。ますます顔が熱くなる。
「図星だな」
にやりと笑って兄は再び俺の爪に視線を落とした。
「……意地悪だ」
蚊の鳴くような声の俺の抗議は兄の「普段から勉強していないお前の落ち度だよ」という正論に叩きのめされる。
そして再び部屋に沈黙が広がった。
「できた」
数分が経って、兄は俺の手を眺めて満足そうにする。俺の爪は紫色に塗られていた。まるで藤の花のような上品で美しい色だった。しかし、男子学生としては、些か目立ちすぎる色だ。
「あの、兄上……これは…」
すると兄は俺の言葉を遮り言った。
「兄に玩具にされましたって言えばいいだろう」
「……誰も信じない」
兄は優等生で、双子の弟の俺にとても優しくて、こんな悪戯をするような人ではないのだ。少なくとも学校では。
「じゃあ、彼女に玩具にされたって言え」
「いない人間にどうやって玩具にされるっていうんですか」
「動くな。まだ乾いていないのだから」
兄の命令に俺は唇を引き結んだ。その様子に兄は「イイコ、イイコ」と、まるで犬でも撫でるように髪の毛をかきまぜた。
それから「そのまま、動くなよ」と命じて、ギシリ、とベッドの上に乗り上げる。もっと具体的に言うなら、俺の腰を跨ぐようにベッドに膝をつき俺の両肩に手を載せた。密着する身体に心臓が跳ねる。
「縁壱」
兄が俺の名前を呼んだ。熱っぽいその声。俺は息を呑む。部屋に充満するのは、ねっとりと絡みつく空気と、鼻を刺激するマニキュアの匂い。
「よりいち」
もう一度兄が俺の名前を呼び、そして俺の頭に顔を埋める。思わず身じろぎをすると「こら、動くな」と再び叱られ、お仕置とばかりに耳朶を噛まれた。鋭い痛みに、はぁ、と息が漏れた。そしてその直後には熱く、ぬめったものが耳を這う。
ぬちゅ、という水音が鼓膜を刺激して、俺の脳みそはようやく舐められたのだと把握した。その瞬間、俺の心臓の動きは制御不能になった。ドクドクとやかましくなる心音。そして俺は犬のようにハァハァと、まともに息も吸えなくなってしまったのだった。
だって仕方がない。恋い焦がれた相手が突然、思わせぶりな態度を取って、おまけに「動くな」だなんて言われてお預けを食らっているのだから。
「犬みたいだ」
兄が言った。
「縁壱はかわいいなぁ」
嘲りすら混じった声だ。でも、その声が俺の身体を熱くさせる。次は何をしてくれるのだろうか。俺は乾ききった自分の唇を舌で湿らせて、期待を込めて兄を見上げた。
ぱちりと目が合う。俺の顔を見た兄は、途端に楽しそうで意地悪な顔を引っ込めて、つまらなさそうな顔をした。残念だ。俺は選択を間違えたらしい。
案の定、兄はベッドから立ち上がってしまう。体温が離れていったせいで空気が嫌に冷たく感じられた。
「つくづく、お前は健気な弟だよ」
兄は言った。
「俺は兄上のことを、ずっと前からお慕いしていますゆえ」
ずっと前、に前世のことを匂わせる。そう、俺は前世からこの兄のことを慕っていた。恋い焦がれていた。そんな俺のことを兄は弄んでいる。酷い人だ。しかし、弄ばれることすら、俺にとっては快感なのだ。
ああ、兄上に知ってほしい。俺はそれ程までにあなたを慕っているのだということを!
俺は期待を込めて兄を見つめた。
しかし、兄はプイと顔を背け「ああ、間違えた。お前は健気なんじゃなくて、鈍感で、馬鹿で、変態なんだな」と吐き捨てる。
これは兄は自覚していないだろうが、嘘をつく時に兄は俺の顔を見ることができなくなってしまうのだ。この兄の姿を見るたび、なんとも可愛い人だと心が浮き立つ。
「もういい。寝る」
兄はそう不機嫌そうに言って俺の部屋から出ていってしまった。俺はその後ろ姿を見届けると、両手の爪を見る。美しく塗られた爪に顔がにやけてしまう。兄の悪戯はなんと美しく可愛いのだろうか!
俺はマニキュアが乾ききったのを確認してから眠りについた。
その晩、夢を見た。
兄を抱く夢だ。筋肉ののった美しい背。荒い息に合わせ上下に揺れる背は、時折弓なりに反らされ快感を教える。その背に流れる黒髪は艷やかで、俺のそれとはまるで違う。俺は髪に唇を落としてから恭しくはらい、美しい背をあらわにさせる。そして背骨を辿るように指を滑らせた。兄は身体を震わせた。
その兄の身体に触れる。しかし、こんなに生々しい夢を見ていたとしても、実際のところ俺は一度だって兄を抱いたことはない。前世から今に至るまで、一度も。だからこの夢は俺の欲望が見せる幻だ。夢の中の兄は俺に甘えたり、怒ったり、泣いたり、色々な顔を見せる。そして最後は必ず俺を求める。我ながら都合がよい。でもどうせ夢なのだから、なんだってありなのだ。
ああ、しかし、本物の兄は俺がこんな欲望を抱いているなんて思っていないだろう。思わせぶりな態度を取ってみてはいるが、きっとあの人のことだ。せいぜい露悪的に振る舞い、俺を『動揺』させているつもりなのだろう。
夢の中の俺は、兄の腰を掴む。その手――指の先、爪は美しい藤色をしていた。その藤色がやたらとキラキラと輝いていて、眩しくて、俺はその藤色から目が離せないまま、一心不乱に兄を抱いた。夢の中の兄は狂ったようによがり、よろこんでいた。そして、俺に向かって言う。
「私だけを見ろ」
どうやら俺は、兄上に支配されたいらしい。夢というものは俺に俺自身のことを教えてくれる。
俺は「あなたしか見えません」と答え、夢の中の兄にキスをした。そして目覚めの予感の中で兄に言う。
「本当は、俺はいつだっていいんです。いつだって……。でも、あなたはきっと、『高校生』というご自分の立場を気にされるから、だから俺は我慢しているんですよ。褒めてくださいね」
ああ、でも。
俺はだめな子だから、我慢できなくなってしまうかも。そうなったら、兄上は怒って、俺にお仕置きもするだろう。でもきっと優しいから「仕方ないな」と言ってくれる。「悪い子だ」と俺を罵って、それからうんと甘やかしてくれる。そんな気がする。そうだ。きっとそうに違いない。
ああ、目が覚めたら兄の部屋に行こう。そして、キスをして、抱きしめて、体の隅々まで触れて味わって、兄上にも俺を味わってもらうのだ。
それがいい。そうしよう――。
そうするのだ―――――。
―――――ふわりと意識が浮上し、俺は目覚めた。
両手を目の前に掲げると、美しい藤色がカーテンから漏れた朝日を浴びて、キラキラと輝いていた。俺はその一本一本にキスをする。そして夢を反芻して、そっと欲望に蓋をした。
まだその時ではない。
見極めなくてはならない。
果実は熟れた時にもぎ取るべきだ。
俺はもう一度、小指にキスをした。